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郷土の歴史「神奈川区」31

5 特集「ヘボンの書簡」
前回「神奈川のヘボン」を紹介したが、ヘボン「ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn 1815年3月13日 - 1911年9月21日)」が書き送った書簡から当時の神奈川の状況がよく分かるので、特集として紹介する。

神奈川からのたより(2)
 数回の地震には驚かされました。 月に平均二度ぐらいあって、 一度は非常に驚きました。それは三十秒以上揺れていました。 古寺が゛キシギシと左右に揺れたので、もし昼間であったらわたしどもは屋外に逃げたことでしょう。 わたしどもよりも地震のことをよく知っている日本人は、いつも家の外に飛び出しました。
 地震は時には恐ろしいほど破壊的でした。家とまわりの丘までが、地震のために亀裂や地すべりなどを生じているほどです。
 4月7日 (中略)  目下梅雨期です、過去5週間にわたり、晴れの日は5日もなかったのです。雨はひどくは降りません。 一種の霧雨です。天候はだんだん曖かくなってきています。3月の平均温度は、日出時には40度(華氏摂氏4.4度)、正午は51度、最低は30度最高は69度です。小麦は現在12、または14インチにのびて、タンポポと菫はもう咲き乱れ、さまざまの色の椿の花は冬中咲き、今が満開です。 わたしのみた椿は大木で、幹の周囲は30インチ以上あり、高さは30フイートから40フイートもあるものです。 樹下の土地は一面花弁で廠われているくらいです。今日、わたしは豌豆の花の咲いているのを見ました。
 4月 日 神奈川
 わたしの眼に映じたままのこの国の様子をお知らせしたいと考えていました。 わたしの報告は、わたしが見たままの神奈川の事だけに限ります。神奈川は日本の僅か一小地区に過ぎずこれが日本の標準ではありません。 わたしは、今ただ日本の外形だけしか判断できません。 充分に日本語を学んで日本人の精神と社会状態について知りうるまでには、相当の時間を要するのです。 まず、神奈川から話しましょう。
 この町は、一つの街路を中心としてできた長い町、すなわち東海道に沿つて作られたものです。南と東から江戸に上つてくる人々の通る街道です。
 神奈川の存在とその生活の本拠は多分この東海道とここを通る参動交代の大名や旅人の泊る旅館や、旅籠屋のあるためなのです。住民はおもに商人、人夫、漁夫たちで、ちゃんとした服装をしていない人々です。
 人口は5000人、東海道に沿って建てられた市街は幅25フィート、別に人道はなく、道の真中には小石を敷きつめてあります。両側の家屋はアメリカで見られるようなものでなく、ちょっと説明ができません。 小さくて一階半の家屋で、木材で建てられ、ベンキは塗らず、屋根は瓦か茅ぶきで、3フイートばかり前につき出てガラス窓はなく、窓のシャッタもありません。下段の窓はいつも開いており、日中は雨ざらしになっています。夜間は戸をしめるのです。店は前面にあり、台所と居間は後方にあります。旅籠屋は例外で勝手元は前方にあります。
 もしこれが日本の村の代表的なものとすれば、アメリカ人の目にはたしかに質素なものに見受けられ、わたしどもの国とは違った社会状態と、低い文化水準を示すものであります。

 わたしは日本の家屋を一見して非常に失望しました。中国人の家屋に比して、その大きさ、建築、そしてその美観ははるかに劣っています。これは神奈川だけでなく、江戸でみた家についても、 また神奈川と江戸の間の村についても同様のことがいえます。 大名の屋敷については、 外側を見ただけですから何とも言えません。その屋敷の外側は20フィートも高い白壁の塀を広い地域にわたってはりめぐらし、大きい美しい門が入口についています。
 神奈川周辺の農家は一般の家屋よりも更にみじめです。屋根は茅ぶき、窓も煙突もなく家の内部は媒で黒ずんでいます。
 煙実のようなものはまだ見たことがありません。 ストーブいわゆる「いろり」も綺子もテーブルも、寝台も日本の家屋にはないのです。 料理場は石と、しっくいでできており、いくつかの穴があって、そこにやかんをのせるようにしてあります。 煙は勝手に戸外へ出ます。人々は床上に坐り、飲食し、寝ます。 神奈川と横浜との間に建設された新しい道路は、わたしがこれまでみた中では一番広い道幅をもち良い道路です。
 この道路と東海道で、最近時々、大胆な外人が一頭二輪馬車で日本人の迷惑をもかまわずに乘りまわしています。
 そうしては馬をこわがらせたり、歩行者ばかりか本人自身の生命までも危険にさらすというようなこともあります。
 橋に関しては、 日本人はがっしりした、 立派な石の橋台のささえをもち、 橋の両側には木の欄干のついている立派な橋を造っています。60フイート以上の長さの橋はまだ見たことがありません。これらは皆、木の橋杭でささえられています。
 河は概して小さく急流で突然増水することがあります。この地方の大きい河といえばここと江戸の間にある六郷川ぐらいです。 下流はほぼ100フィートで橋がかかっていませんが、合衆国で見るような長さ20フィート、幅6フイートの平底の舟で河を渡しています。 アメリカでしたらこんな河川には、必ず橋を架けてあるけれども。
 この地域の果物について充分な説明はできません。昨秋、わたしが到着してから、二ヵ月にわたり、大変おいしいプドウを沢山食べました。その後、色々の種類のオレンジを食べました。みんな非常に美味しいですが、中国のオレンジやハパナのオレンジとは比べものになりません。柿はアメリカのよりも大きく、大変味も良く、また、大きい固い梨がありますが食べにくいのです。 「アントワープいちご」と呼んでいる美味しい野イチゴが沢山あります。 実は大きく黄色いもので、日本人がこれを裁培しているとは思われません。 野生です。
 「アントワープいちご」とよばれているものは、多分、 もとはオランダ人によって日本からオランダの国に移植されたものだろうとわたしは思います。その他、杏、梅、桃もありますが、わたしのみるところでは、みなわたしどもの国の果物より劣っています。美しい大きい紅い野生のイチゴがありますが、みな渋く美味しくありません。日本人はこれを蛇イチゴと呼んでいます。
 果して、リンゴが日本でできるかどうか疑間です。 まだリンゴのなっているのを見たことがありません。以上のほかに、この国に特有の果物もありますが、書くほどの物ではありません。 日本人は中国人のようには、果実栽培に力を注いでいないようです。 気候といい、 土地といい、確かに果物の裁培に適しているのです。 リンゴなども函館方面ではよくできるのですから。 わたしどもがここで得られるオレンジは、南の国、おもに四国からくるのでしょう。
敬具  続く。2019.11.14



 
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