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郷土の歴史「神奈川区」35

神奈川区誌最終章(2)
 神奈川区誌の記録も今回のシリーズをもって幕引きとさせていただきます。区誌本編では現代まで続きますが、それは割愛し、これから紹介する「神奈川滞在記 ロバート・フォーチュン」が最終章となります。

6 神奈川滞在記(2)
 東海道を通る行列、駄馬、駕籠のほかに、徒歩で行く者にも注目せずにいられない。つばの広い風変わりな麦わらの笠をかぶっている者や、頭に手拭で鉢まきをしている者もいる。笠を背中に背負って、雨の時や強烈な太陽光線が堪えがたい時だけかぶる者、また何もかぶっていない者や、前髪を剃つて頭のてっぺんに、小豚のしっぼのような髷 を結びつけた者もいる。
 托鉢僧にも出会う。彼らは長い杖の上に付けた鈴を鳴らしながら各戸口に立つて、祈藤を唱えては、彼らの生計の足しや寺の維持のために施しを受ける。だが、彼らは最も自立数派的な僧ロ侶で、むしろ、受ける者であるよりも、仏の恵みを人々に授けていると考えているようだ。大体同じような個が毎日のように回つて来るが、施しを断られるのは、まれであった。その祈祷は私にはいつも同じように、「南無、南無、南無一」と、時には低く時には高く、唱えているように思われた。日本の貨幣の小銭が、僧の鉢の中に投げ入れられると、彼はその施しの返礼に、もう一度鈴を鳴らしながら経文を唱えて、 隣家の方へ立ち去つた。
 盲人もまたよく見掛ける。彼らは奇妙な音のする笛を吹きながら、盲人が近づいて行くのを知らせる。多くの盲人達は目の見える幸連な人達を按摩して、生計の資を得ている。時々、汚いむしろを肩に掛けた屈強な乞食の一群が、 この街道の人波の中を浮浪している。
 そうかと思うと、きれいな花籠を抱えた花屋が、女の人の髪飾りに買わせようと、勧めるのに骨を折つている。また、シキミだの別の常緑樹を売つているが、これは死者の墓に飾られる。
 こうして江戸に通じるこの街道は、終日、 夜にかけても絶え間ない人々の生命の流れで充満している。 これは異常なパノラマで、たしかにこの国の偉観に違いない。多勢いる盲人は、人通りの少ない夜間に歩くという。 光は彼らには影響しないから。



近郊回遊 しばらく神奈川に滞在することにしたので、毎日周辺を方々遊覧した。私は幸い、米国のオランダ改革派の聖公会と関係のある宣教師、レブレント・S・W・ブラウンと以前支那のアモイにいた医師で宣教師のへポン博士と近付きになった。彼らは私の仮寓から程近い寺に住んでいた。
 そして以前から日本に来ていた〔1859年= 安政6年〕ので、私に有益な情報を提供してくれることができた。
 私の最初の質間は、私がシナでいつも訪ねていたような大きな仏教寺院が、神奈川周辺にあるかどうか、ということであつた。 私がこの事柄を知りたかった理由は、僧侶のいる仏教寺院の境内には、樹木が大切に保存されているからだった。 殊に寺の中庭には必ず、その国の珍しい樹木類が装飾的に多く植えられているものである。
 ブラウンさんが、ある山間を少し登ると、大きな僧院があると教えてくれて、親切に私をそこへ連れて行くと言ってくれた。
 濯木の茂つた丘にはさまれた肥沃な美しい谷間の道を行くと、稔りゆたかな稲田を灌漑した清らかな水の流れが、海の方へ流れていた。ちょうど十一月初めで、黄ばんだ稲作は農夫の刈入れを待つばかりである。 その日は天高く澄み、太陽が頭上に輝く秋日和で空気は清涼、万象ことごとく無上の快楽を満喫した。
 2-3マイルの行程で豊顕寺に案内された。 広い坂道を登つた所に寺門があり、 その周辺に見事な巨木がうっそうと聳えていた。本堂の中庭と前庭に、傘松と呼ばれる立派な目新しいマキに出くわして欣快に堪えなかった。これは コウヤマキ (Sciadopitys verticulata) で、いわゆる日本の高野山の槇である。
 ところで、シーボルト博士の「日本植物志(Flora Japonica)」の中に、この見事なコウヤマキの一枝が描かれ、説明を付けてあるがその大きさについては甚だしい誤りが注目される。 シーボルト説によると「日本産コウャマキは常緑樹で、高さは約12一15フィート」と記している。 しかし、私が神奈川や江戸方面で観察したのは、多くの場合、優に100フィートの高さがあった。 もっともシーボルトの標本は、彼の言うように「庭園に植えてあった」ので、恐らく十分に成育した実物を観る機会がなかったのであろう。

2019.12.20



 
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