第1章 原始・古代の神奈川
繩文時代遺跡分布1
市内には多くの縄文時代の遺跡があるが、ここ神奈川区にも多くの遺跡が残されている。今回は神奈川区内に分布する遺跡についてまとめた。
『横浜市埋蔵文化財遺跡分布図』を基礎とし、神奈川区の繩文時代遺跡分布図』を作成して示す。(上図参照クリックして拡大
)。図中△印は貝塚を示すものであるが、今日の小河川の流域の沖積低地は、いわゆる「繩文海進」のすすんだところであり、丘陵性台地との接点が、ちょうどリアス式海岸のようなところであって、貝塚の位置が、繩文時代の海岸線を推定する責重な資料の一つとなる。これらの貝塚について調べてみると、概して、菅田・羽沢方面の鳥山川・砂田川流域や、滝ノ川・反町川や入江川・足洗川でも谷奥にある貝塚は、どちらかといえば繩文時代発展部の比較的早い時期のものが多く、三ツ沢町、神大寺町、斉藤分町など下流域(現在の海岸線に近い)ところの貝塚は繩文時代成熱期以降のものが多い。このことは、海進・海退の現象と関係が深いもののようである。
縄文時代の集落縄文時代の人びとが人工的な住居をつくって生活していたことは明らかである。大口坂貝塚の調査(昭和三九年、和島誠一・塚田光氏報告、図A地点)、菅田・羽沢農業専用地区造成予定地内の調査(昭和四七年、井上義弘氏報告、図B地点)、神大寺町片倉台遺跡の調査(昭和四八年、江坂輝弥・日野一郎氏報告、図C地点)の成果をもとに、繩文時代人の生活を考えてみよう。を知る発見にまではいたっていない。
上部写真は、大口坂貝塚の繩文時代成熟期の集落跡である。標高約40mの台地上で、四囲には小さな谷があり、湧水点を控えている。湧水点を近くにもっているということは、飲料水にことかかないばかりか、植物、昆虫、それを餌とする小鳥や小動物も集まるところでもあり、動植物など自然物採取を基盤とする生活にとっては、好ましぃ環境といえる。この写真はその集落の住居址をとらえたものである。地面を掘り下げて構築されているところから竪穴式住居とよんでいる。 平面形は直径約5m~6mのほぼ円形で、踏みかためた床となっている。床の周囲は、幅約20c㎡~50c㎡、深さ約10cmから4cmの壁溝がめぐっている。床面の中央よりやや北寄りの位置に、床面を掘りこんで、土器を理めた炉が設けてある。この時期の住居の炉は、菅田・羽沢農業専地区の調査で発見されたものとしては、石で囲んだだけもの、 土器を用いたうえに石で囲んだものなどがあったりする。概して、繩文時代の住居のうち、成熱期の炉が一 番丁寧のようであり、古気象学的には、この頃から寒冷期に入るといわれている。床面には、屋根を支えるために必要な主柱のための柱穴が五本みとめられる。屋根の状態は穴の配置から想像するわけであるが、丸太で骨組みをつくり、 カヤなどで葺かれていた掘立小屋を想像すればよい。更に詳細な住居構造は次回に示すことにする。