第1章 原始・古代の神奈川
縄文時代の人工的生活
この住居跡(上の左画像)はたまたま、大口貝塚4号住居址の調査におい て、成人2体、小児1体の遺存人骨の発見があった。まことに貴重な資料である。一竪穴住居の居住人口は何名ぐらいであったのか、出土した人骨の数でそのまま居住人員を示すものかどうか、 千葉県市川市姥山貝塚の穴住居内から男女成人各2体、子供1体の遺存人骨の発見例もある。家の大きさ、床面積の広さなどから考えることも必要である。標準的に考えて、一堅穴住居の居住人は4名~5名ぐらいの「自然家族」集団としておいてよいであろう。このような単位が複数で集落を構成した。集落の規模については成立期にあっては2~3戸の小集落。発展期にいたっては7~8戸からややそれを上まわるぐらい。成熟期におよび10数戸からそれを上まわる大集落の存在がうがえるようになった。
縄文時代の生活用具(上の右画像)は前述の住居床面からの打製石斧の出土状態である。石斧こそ、細文時代の利器として重要なものの一つである。今日の木工工具の祖ともいえる。住居をつくるための土堀りに、また柱に使う木を倒すために、或は、球根などの植物根などの採屈のための道具として用いられたものである。菅田、羽沢農業専用地区においては、打製石斧のほかに、黒曜石を材料とした石槍と思われる尖頭器や磨石なども発見されている。
縄文時代の人は、このように石を材料に、目的に応じて材料をえらび、工夫して器用に、いろいろな道具を作っている。画像の「矢じり」は、第三京浜道路を眼下に見おろす三枚町の畑で、土器片とともに採集した黒曜石の「矢じり」である(縄文時代遺跡分布図F地点)。
「矢じり」は矢の一部であり、弓矢の使用を裏付ける。突く、刺すという手持の槍に対して、飛び道具の発明は狩猟活動を容易なものとし活発にした。貝塚の貝殻に混ざり、魚骨や獣骨が発見される。大口坂貝塚の貝層中より、イルカの脊椎骨や獣骨の小片が採集されている。昭和46年に調査された南神大寺団地敷地内遺跡(江坂輝弥・調査団長)からはクロダイの上あご、下あごやイノシシの犬歯などが発見されている。
縄文時代を通じて、その経済と生活をささえたものは、狩猟・漁撈ならびに植物採集などの諸活動であり食採集生活の段階にすぎなかった。文中画像は、羽沢町の. (一-三図D地点) の一隅に、沢山の礫に混っていた土器である。耕作の鍬の邪魔物と扱われてたものであろう。縄文時代成立期のものである。これらの「土器」こそ縄文時代を特徴づけるものである。