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郷土の歴史「神奈川区」(8)


第1章 原始・古代の神奈川
稲づくりの村

 稲作農耕を基本とする日本の農業、米を主食とする日本の食生活は、弥生時代に始まり、その後の日本の文化・社会の基礎を形づくったといわれる。 この時代の遺跡は、 鳥山川・砂田川の中・上流域の三枚町、 羽沢、菅田の一帶。滝ノ川・反町川流域の高島台、三ツ沢。 入江川・洗足川流域の浦島ケ丘、白幡、大ロ、松見町、神ノ木台などにある。かたわらに必ずといってよいほど、細長い湿潤な支谷が入りこんでいる台地や丘陵上に存在する。 
 弥生時代の人々は、 付近の台地から有機物の供給をうけ、いくらか肥沃な土壊のたくわえられている水田経営に適した沖積低地を控える台地上に集落を形成した。上図左の写真(ここをクリックして拡大図)は、遣跡調査団から提供をうけた神木台の弥生時代集落跡(弥生時代遺跡分布図A地点)のものである。標高約40m余りの舌状台地にあり、眼下に比高約15-20mの谷戸がひかえている。当時の水田遺構が発見されたわけではないが、集落の位置を通して水田の所在が推測できる。ごく近くの時代まで、穀倉地帯として大きな役割をになったところとしての郷土の谷戸水田は、遥か遠くの弥生時代にその開始期をさかのぼることができよう。

 上図右の写真(ここをクリックして拡大図)は、集落で発見された弥生時代の住居跡の一戸である。この時代の家も繩文時代からの伝統を受けた堅穴式住居であった。しかし、住居建築の技術も進み、平面形をみると隅丸方形に形も整っており、四本の柱穴もほぼ方形にきちんと配置し、火どころとしての炉も、床の中央やや出入口と反対寄りにずらして設けている。 他の遺跡での調査例に照らしてみても概ねこのようである。ただ細かくみると、平面形は、弥生時代も早い頃のものは小判形(長楕円形)をしており、ついで中頃にいたり隅丸方形となる。
 さらに方形のものへと変化する。炉の位置も、四本の柱のうち出入口と反対側に並ぶ二本の柱を結んだ線を基準にしてみると、早い時期のものは線より中央寄りに位置し、順次、線上から外側へと移る傾向のようである。住居の大きさも、 長軸約4-6mぐらいのものが標準の大きさのようであるが、なかには10mを上まわる大きな住居もつくられている。
 とくに、弥生時代の集落の特徴は、住居域を囲んで溝をめぐらして集落と外域とをへだてられていることである(環濠集落)。 稲作農耕を営むようになると、一定の土地に定着する期間もそれだけ長くなる。収種の良い肥沃な土地ならばなおさらである。生活の単位となる集団も、縄文時代の「自然家族」の血縁集団から、土地との係わりを強くするか地縁集団へと変化した。生産力や土地争いに負けないすぐれた武力をもつ有力な指導者を中心とする集団となっている。

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