memorytohkaidokouenmeisyokaze

10_0yayoi

郷土の歴史「神奈川区」(9)


第1章 原始・古代の神奈川
弥生時代の生活用具
 
 上の写真(クリックして拡大)は、神ノ木台遭跡の遣物の出土状態である。弥生時代の土器は、甕、壺、高坏の三種類が基本形態のようである。さらに別な視点からみると「飾られていない則生活的な土器」と「飾られた華麗なより奢侈的な土器」に分けてみることができる。農業生活の必要から生み出された器形である「壺」は、資重なもの、例えば大切な種モミを保存するための貯藏用器としてのものか、飾りも美しく見事なものが多い。供献用に用いられたものであったためか立派な高杯もある。
 土器の文様をみると、先端を櫛先のようにした器具で描いた櫛描文が施文されているもの、凹線文と呼ぶ一種の沈線文が施文したものがあるが、繩文時代の伝統が強い東日本、とくに郷土から出土する土器には、細文とヘラ先で描いた曲線文とで、にぎやかに飾られた土器がみられる。「米の資料」としては、 火災にあった住居跡から炭化したモミが発見されたり、 土器にモミ痕の認められるものがあったりする。
 利器は、弥生時代に入つても、中頃までは石器の占める割合が多い。弥生時代も農耕開始期の頃は、収穫量も多くはなった。年一回の収穫期を待つ米の不足を補うためには、狩猟漁撈の獲物も多く必要であったろう。関東地方ではみられないが 全国的には縄文時代より伝統の打製の石鏃(石の矢じり)も出土する。
 しかし、稲作技術とともに大陸から伝来した文化としての要素を示す石器として、 縄文時代の石器とは異なった伐採・荒割り用の「大型蛤刃石斧」、荒削り・くりぬき用の「柱状片刃石斧」、仕上げ削り用のカンナの刃に似た「扁平片刃石斧」などの「磨製石斧」がある。しかし、弥生時代の後半になると、これら石器類の出土が極端にみられなくなる。
 鉄器は、持別な場合をのぞき、 その遺存は殆んどのぞめないので具体的には発見されにくい。しかし、例えば鉄器の使用によりはじめて可能な各種の木工具の存在や、この時代の住居が、四本柱による柱の上に、梁や桁を組み、 叉首を組むなどの構造が考えられるのであるが、 このことも鋭利な刃物力物の使用により柄(ほぞ)を作り、別材の柄穴にさしこむことが可能な技術があってこそ確立できるものであること。また、たまたま火災にあった住居跡から炭化材として面どりされた柱材、柄組されたものが発見されたりして鉄器の使用の証が間接的に得られる。

未開から文明への弥生時代
 弥生時代は、水稲耕作に基礎をおく農業の開始と発展を軸に、未開社会から文明社会へと大きく飛躍した時代である。食料採集民から食料生産民への変革。石器時代から、金石併用時代そして金属器時代への進歩。血縁集団から地縁集団への移行。有力指導者を中心とする小国家の誕生と、これらの小国家を統一する国家連合の出現にいたる、わが国の大きな変革期が弥生時代である。
 中国の官撰の史書『前漢書』の「夫れ楽浪海中に倭人あり、わかたれて百余国となり」という記載。 「後関書」の「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、こもごも相伐し」(相・霊の間とは、後漢の桓帝から霊帝の時代にかけてのことで、紀元二世紀中葉の頃をいう)とあるのは、それらの小国家が相攻防している状態を記したものとみられる。
 中国は、後漢衰退の後、魏・呉・蜀の三国が並び立つ三国時代となる。その一国の魏の「東夷伝」の「倭人項」、すなわち『魏志倭人伝」に、三世紀頃のわが国について「およそ三十の国を統合した長として、邪馬台国の女王卑弥呼」の記載をしている。これは、わが国の三世紀、弥生時代後期の小国家連合の様子を記した、中国人の手による同時代史料として貴重な文献である。わが国自身の歴史資料がみられないのは、残念ながら八世紀に至るのを待たねばならない。

Copyright 2013 Papa's Pocket All Right Reserved.