2020.4.1 栃木県(お国柄46)
栃木県というと、関東で一番面積が広いけど、一番人口が少ない。「自然の多い県」で美味しい食べ物や歴史の詰まった建造物がたくさんある素晴らしいところで、「日光の2社1寺」として知られる二荒山神社や日光東照宮、日光山輪王寺周辺は世界遺産に登録されている。他にもラムサール条約に認定された渡良瀬遊水池や、日本三大イルミネーション認定のあしかがフラワーパークなど、数多くの観光地も存在する場所だ。
県民性のルーツを探ってみると、室町幕府を開いた足利尊氏の存在にある。尊氏のイメージは武骨で口数が少ないのに、ひとたび口を開くと「声がでっかい」「言葉が荒っぽい」その上「気が荒い」とみられている。
尊氏が帰依した禅僧の夢窓疎石は尊氏を次のように評している「尊氏の三徳」と呼ばれている。
①合戦に際しては笑みを含み、恐れる気色はまったくなかった
②慈悲心が厚くて、人を憎んだり恨んだりすることがほとんどなかった
③心が広く、物惜しみしないで自分がもらったものをみな人に与えた
こうした長所はそのまま現代の栃木県の県民性に受け継がれているというのだ。
県内の地域性で県民性を見直してみると。
県北の県民性は保守的なイメージを強い。県北出身者は、方言の訛りが強いで。会話の場面では方言全開で少々威圧感がなくもないですが、東北よりということもあるのか堅実で真面目な人が多い。
県央は栃木県内で最も栄えているといっても良いだろう。そんな県央の県民性は自意識が強い。気が短いと感じられることもある。しかし、人見知りのような県民性を背景に自己主張もできるので、芯が強い人が多いイメージがある。物事を白黒はっきりさせるようなサバサバした性格の人が比較的多い。
県南の県民性は比較的親しみやすいと言われている。方言の癖も強くなく、標準語を話す人が大多数だ。ただ、標準語の中にも所々方言は入っている。自分では標準語を話していると思い、方言がでていることに気づかない人もしばしばでオープンな性格の人が多いと見られている。
県のイメージと、出身者の性格・気質というのは意外と重なり合っているものである。そうした視点で見ると、栃木県人はあまり目立たないということになる。実際、栃木県の人は総じて冷静沈着だし、おとなしい印象がある。
小さい頃から、「手わすら①すんな」って怒られたし、えんぴつおっかいたり、おもちゃぼっこしたり、とうとイタズラして、ちょっととっぽかったんかしんないね。え?何いってっかわかんねの?耳、大事かい?!全部、標準語だっぺな~~!』(説明)小さい頃から「手で何かをいじくり回す」って怒られたし、鉛筆を折ったり、おもちゃを壊したり、ずっとイタズラして、ちょっと 生意気だったかもしれないね。え?何いってっかわかんないの?耳、大丈夫かい?!全部、標準語なんだよ !
2020.4.4 群馬県(お国柄47)
「上州名物。かかあ天下とからっ風」という定評のある群馬県。実際は上州名物は三つの「か」なのだそうだ。
上州名物の三つの「か」は「かかあ天下」と「空っ風」と「雷」だという。空っ風と雷は地形と気象の問題。越後山脈を越えてくるからっ風は半端でなく寒い。そんな厳しい環境の中で育ったせいか「強気」で「短気」で「言葉が荒い」、反面「正直」で「曲がったことが許せない」性格だという。
また、かかあ天下とは、女が働き者だということに関連している。上州では養蚕が盛んであり、この仕事は女性が行うため、一家の経済の主導権が女性にあることが多く、発言力も大きかった。こうした伝統が、かかあ天下というイメージを生んでしまったが、実際は、きめ細かな蚕の飼育、すなわち女性の持つ繊細な感覚と骨身を惜しまぬ勤勉さを称えた言葉で、男勝りな働き者だというのが正解のようだ。
エリア別にその県民性を探ると・・。
県庁所在地前橋のある中毛エリアは他県から群馬に来たという人も多い傾向が見られる。また、都会生活に憧れて北毛・西毛地域からやってきた人たちも多い。
桐生や館林がある東毛エリアは、誰とでも仲良くなれるのが特徴。遠出をすることを苦に思わない、急な思い付きで出かけるといった人が多い。中高生は自転車で県外にも行く。また、見た目がきつそうに見えるのも特徴。方言を標準語と勘違いしているところがある。東毛エリアには工業団地が多く沢山の外国人が住んでいる。中でも大泉町は「第2のブラジル」と言われるほどブラジル人ばかりで、ブラジルのスーパーやレストランなどが立ち並ぶほど。
西毛エリアは、THE群馬県民!言葉も早口でせわしない。中毛・東毛エリアの人ですら理解できないほど、方言のオンパレード。情に厚く隣近所も大事にするのが特徴。畑で声を掛けたら作物をくれたりと人を大事にする。代々農業を営んでいる家系が多いので地元への愛着が深い。世界遺産の富岡製糸場があるのも西毛エリアである。
群馬県の半分の面積がある北毛エリアは、観光地が多く存在するせいか、気遣いが上手な人が多いようだ。方言も強めだが西毛ほどではない。群馬県唯一のショッピングスポット高崎があるので、服装にこだわりを持つなどファッションにこだわる人が多い。山の方の若い人は高崎に憧れて転居してくる。
北毛エリアは水上や温泉地などがたくさんあるエリアでもある。東毛エリアの人から見たら同じ県と感じないほどの差があるのだとか。西毛地区と同じく地元愛が強い。
「ふとんをふんばいじまったから、腹が冷えたんだんべー」(説明)布団をはいでしまったので、お腹が冷えたのでは?
2020.4.7 埼玉県(お国柄48)
埼玉県は、 秩父を中心とする山地には古い気風が残っていて、素朴で誠実、温和で閉鎖的な封建的な性格が同居している。江戸に隣接していながら北関東、越後への通過点となっていた。頻繁に行われた藩主交代で、統治はいつも江戸を向いていた。県民性は薄くなり、産業も東京の強い影響を受けて「ダサイタマ」「埼玉都民」、県土の形状から「サツマイモ県」 と揶揄されたりした。こうした埼玉の独自性を無視したり、埼玉県人の自尊心を傷つけたりするような評価が世にはびこっていた。
埼玉県は、63市町村(40市・22町・1村)で成り立っている。市町村数の多さは全国第3位。県庁所在地はさいたま市。埼玉県の総面積は3,797.75km2。日本の中では9番目に狭い県。人口は約730万人で全国5位の人口率。「都内に行くのに便利」「新幹線が通っている」という理由で中央地区・東部地区に住む人が増えてきているという。
埼玉の県民性はマイペース・地元愛がないなどとよく言われるが、地元愛がないと言われる理由は、「生まれも育ちも埼玉」という人が少なめということが挙げられる。
地区別に特徴を見ると・・、
都内に近い中央地区(さいたま市、川口市、鴻巣市、蕨市、戸田市など)に住んでいる人は「他県から埼玉に引っ越してきた」という人が多めな傾向が見られる。県民性の特徴として地元愛がない人が多い。
北部地区(熊谷市、本庄市、深谷市など)や秩父地区(秩父市、皆野町、長瀞町など)に住んでいる人の県民性は「生まれも育ちも埼玉」という地元愛が強い人が比較的多いのだそうだ。北部地区や秩父地区の人は代々農業を営んでいるという家系が多く、「正直」「「温和」「新設」な人が多い。
熊谷市は北部でも人口密度が多い市で、ニュースにもなるほど暑いので有名なところ。駅前は栄えているが、一歩入れば田園地帯といった熊谷市。新幹線が止まることを誇りに思っている。
東部地区(行田市、春日部市、羽生市、三郷市、越谷市等)は千葉県に隣接している三郷市から群馬県に隣接している羽生市までと細長い。南と北で温度差がある。越谷や春日部は中央地区同様、他県から引っ越してきた人が多く、ここにも地元愛は少なめな傾向が見られるる。
西部地区(川越市、所沢市、飯能市、東松山市、狭山市、入間市など )には西武ドームがある所沢市がある。西武ライオンズファンが多いと思いきや東京都が隣接しているので実は巨人ファンの方が多いというのも埼玉県らしい一面を覗かせている。
「ぼっとかして、明日は雨だべえ」(説明)もしかしたら、明日は雨かもしれないね
2020.4.10 千葉県(お国柄49)
千葉県は、阿波の人が黒潮に乗って房総半島に上陸したので、海洋民族がルーツであるといわれている。白浜·勝浦など和歌山県と同じ地名が多く、海女文化、漁法など西日本から伝えられたものが多い。県南には日蓮に代表されるような実行力や積極性のある人が現れた。江戸時代に安房で生産されたものは、銚子から利根川を経て佐原から江戸へ運ばれた 東京の労働力の供給地でもあった。
千葉県は三方を海に囲まれているので、イワシや伊勢えびなど豊富な魚類が生息している。
また、日本の都道府県の中で唯一500メートル以上の山がない県で、年間を通して温暖な気候ということもあり、枝豆や落花生・かぶなどの農業も盛んだ。東京のベッドタウンと言われることもあるが、観光スポットも多く、豊かな自然と食べ物に恵まれた千葉県は、魅力溢れる土地である。
明るくおおらかで、おっとりとし、さばさばとして謙虚な性格が千葉の県民性。そのため、男女双方から好感をもたれる有名人が多いのが特徴。千葉の特徴ある県民性を語る有名人としては、長嶋茂雄さんは外せない。「我が道を行く人気者」「男女ともに好かれる親しみやすさ」など、県民性の特徴が見える。
東と南が太平洋、西は東京湾である。また、北側も利根川という雄大な川と霞ヶ浦という海を思わせるような湖沼が茨城県との間に横たわっている。要するに、全国でも珍しい他の県と孤絶した地域なのである。遠く四国から海伝いにやってきた人たちはこの地に上陸した後、北上していったに違いなく、千葉県人にはもともと海に生きる人々の血が濃く流れていると想像できる。彼らは日本人離れの積極性を持ち、独自の道を歩んでいく。郷土愛が強く「千葉県がサイコー」なのだ。
海と日夜接する人々は概して、細かなことにこだわらず、さばさばしている。すべてを飲み込んでしまうこともある海のような自然を前にすると、人間は逆立ちしても勝てないという気持ちを抱くため、あまり我を張らない、謙虚な生き方が身についている。
一方ですぐ隣の東京の存在があまりに大きく、ニュータウン浦安や舞浜当たりでは、東京ディズニーリゾートの名が示すように、身も心も東京人になりきろうと、自ら千葉の独自性を打ち捨てようとする人たちだっている。
そこらん大事な物うっちゃらかしといたらなくなっちまうぞ
(そこら辺に大事な物を放っておいたらなくなってしまうぞ)
2020.4.13 東京都(お国柄50)
都民性については「2019.10.29 東京と江戸っ子(お国柄3)」でも紹介したが、東京都には様々な地方から、毎年多くの人たちが上京してくるため、東京は田舎者の集まりだなどと表現することもある。異種混合と言った関係は「性格や性質が器用な人が多く、どのような人でも適当に話を合わせることができて、愛嬌も良いので、どのような環境でも柔軟に適応できる。相手との距離感を大切にし、東京都に住んでいることに対してプライドを持っている」という傾向があるようだ。
歴史をたどれば「 徳川家康が入府してから塩の獲得、 飲料水の確保、 道路の区画整理が行われた。 参勤交代や物資交流のため東海道、日光街道、甲州街道、奥羽街道、中山 (仙) 道が整備された 。 百万都市江戸は、農村から来た人たちに支えられ、 職人の徒弟になって手に職をつけ、 親方からは 『宵越しの金は持たない』と教えられた。 関東大震災後の住民移動に始まった昭和時代になって世界有数の人口集中度を持つ東京が出現した」という風にまとめられる。
一千万人を超える大都市東京(常住人口は1,350万人)であるから、地域によっても都民性に違いが見られる。
まずは山手線沿いにある山の手地区の都民性は、とても伸び伸びとしていて屈託がなく、何事に対しても余裕があってガツガツしたところがないのが特徴だ。典型的なお坊ちゃまとお嬢様体質のなせる業か、自身が気づかないうちに人を馬鹿にした態度や言葉を表してしまう傾向があり、無自覚のうちに周りの人を傷つけてしまいがちなところがある。
続いて東京の三多摩地区の都民性は、素直な性格の人が多く、他の地区の東京都民と比較すると根性があり、粘り強い特徴を持っているのが特徴といえよう。しかし、素直な性格があだとなるケースも多く、警戒心が弱いがゆえに騙されたりすることも多いという気風がある。
次に城東地区(23区東部)の都民性は、行動力があるタイプで、駆け引きが苦手なタイプになる。さらに行動や気分にムラがあるため、持続力がないところが注目される。
最後に城西地区(23区西部)の都民性は、有言実行で一度自分で言い出したことや仕事を持たせると最後までやり遂げる上に、実力まで発揮してくれる人が多いという。一緒に仕事を進める上では手続きをしっかり守り、筋を通す必要がある。仲間としては頼もしいタイプに分類される。
これらをまとめ都民性を見直すと、臨機応変にその場の空気に合わせて、自分をカメレオンかのように変えることができるタイプが多く、人見知りすることはなく、知らない人とでもすぐに友達のように振る舞うことができる。どのような地方人であっても、東京都民として受け入れてくれる寛容さがあるのが特筆される。
言葉にこれといった特徴がないのが特徴
2020.4.16 神奈川県( お国柄)
47都道府県のお国柄の最後は私が生まれ育っている神奈川県で最終回になる。「2019.10.26 ハマっ子と神奈川県人の特質」で、神奈川県人でも「ハマっ子」に焦点を絞って記したので、県全体を俯瞰してその県民性を調べてみた。
神奈川県は港付近は平野が多く、河川も豊か。古くから温暖な気候で水や平野が多かったことから、動物や植物も繁殖しやすく、食物の供給が安定していた。遡って弥生時代など古くから人類が生活してきたことは、多数の遺跡が出土していることからも裏付けされている。
中世には源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ、近世には北条氏が小田原を治めた。開港後の横浜が特に明治になってからは港町として栄え、外交の中心となった。歴史によって変わりがあるが、神奈川は常に豊かな人口と経済に支えられてきた都市として存在感を示している。
地域別に県民性の特徴を示すと・・・
旧武蔵(横浜・川崎、三浦半島など)地域は、江戸・東京に近いぶん、また、幕末期から海外との接点もあったから情報の入手も早く、進取の気性に富んでいる。早い時期から都会化されてきたが、東京で吸収しきれない地方出身者の家族が多く、独自の地域性を生み出しており、独立独歩の気風がある。
川崎市は県内第2の政令指定都市。教育機関が多く、高い教育を受けている人が多いことから、「プライドが高い」という県民性がある。また、先を見越して計画を立てながら行動するのが好きで、要領よく物事をこなし、男女とも、社会人になっても仕事の即戦力として活動できている。
湘南地区(茅ケ崎・藤沢・平塚・大磯など)サザンの桑田佳祐や加山雄三、古くは石原裕次郎などの湘南ボーイの活躍が、茅ケ崎ひいては湘南地区を有名にした。海のイメージが強く、東京から茅ケ崎に引っ越してくる人も多くやってきたという現象が起きた。湘南イメージが良いことは自慢には思っているが、「湘南と言えるのは藤沢・茅ケ崎のみだ」など意見が分かれる。特に茅ケ崎市民は湘南人として時代の先端を行くといったプライドがある。
小田原は漁港があり新鮮な魚が手に入るので、魚を食べる機会が多く、小田原市民はヘルシー志向。山もそびえ、小田原城があり、その先には箱根が控え観光スポットになっている。どちらかというと地元優先といった保守性がある。
近年,第三の政令都市として相模原市が誕生し、東京の郊外として発展している。『埼玉都民』『千葉都民』と並んで『神奈川都民』と呼ばれる新住民も増えている。彼らは他の県とは違い東京にコンプレックスを持っていない。かえってライバル意識は強いといえる。
「これって神奈川じゃん」(意味)これって神奈川だよね
2020.4.19 非日常的日常
ここ3か月ほど新型コロナウィルス感染蔓延で世界中が恐怖に晒されている。いまだ収束点が見いだされていない。
この事態が発生した当初は、軽いインフルエンザ程度にしか見られず、人々は普段通りの生活をしていた。中国武漢で爆発的に感染が広まり、それがダイヤモンドプリンセス号が横浜に着岸してからは、事態は一変した。このあたりから日常生活に異変が見え始めた。市場からマスクが消えた。非日常的生活の始まりである。
私にとっては普段の生活が隠居であるから特段の変化は出なかった。散歩のコースが変わったことぐらいだった。実はここに非日常性が潜んでいた。散歩コースの折り返し点は近くの図書館、スーパーのフードコートや喫茶店にしていた。それが「3密」のどれかに当てはまるため行くのを止めた。確認したわけではないがどこも休館したり営業を自粛しているかもしれない。この折り返し点の休憩場所は私にとってはオアシスのような存在で、散歩することの大きな動機付けになっていた。楽しみがないと空しいと感じるのは当たり前の感情であろう。以来外出自粛を理由に殆ど外に出ない日が続いている。まるでこうした非日常的日々が日常になってしまっている。
非日常性の毎日が続くと、人には何らかの変化が生じると考えて間違いない。家に閉じこもればストレスが溜まる。特に子どもは「風の子」だから、じっと我慢しているのは無理である。かといって学校は休校だし、塾も休みだ。友達と遊べないということは、自分の幼少時を思い返しても一番辛いことだろう。一応自粛期間は5月の連休明けまでだが、そこまで我慢できるものだろうか。アメリカのように更に1か月延長ということにでもなれば、どこかでガス抜きをしないと、丁度私が経験した子供のころの戦中戦後のトラウマのようなものを子どもたちに植え付けてしまうのではないか心配だ。
このウィルス(見えない恐怖)との戦いはワクチンが開発され接種されるまでは続くのではないかと今は感じている。それまで人々に日常的生活が戻るとは思えない。
人々はどんな知恵を絞ってこの閉塞感を打開して見せてくれるのだろうか。
2020.4.22 お役所仕事
稟議書(りんぎしょ)というものがあることを知っているだろうか。稟議は役所などで起案された書類が多くの人の閲覧を経て決済に至る手順を形に残す仕組。ハンコ行政と言われる実態を示している。
一つの物事を決めるのにどれだけ手間暇がかかるのか想像に難くない。この手続きは一般的にはボトムアップの形を示しており、トップダウンと言って「鶴の一声」即決するケースもたまにある。
今回の新型コロナウィルス騒動で、対応が後手後手になっているという批判が多く出ている。その背景には、こうした「お役所仕事」が大きく関連している。普段は「お役所だから仕方ないか」と見逃している傾向が高いのだが。
ところが今回のように緊急事態ではそうはいかない。極言すれば、「一か八かの勝負」に出る必要もあるのだ。これは官僚を含めお役所では先ず絶対にできない。総理大臣を中心に政府が強力な指導力を発揮しないと、ことは進まない。
たとえそうなって意思決定(上意下達)がなされても、それが各省庁そして自治体というお役所に伝達されると、そこでは多分あちこちで確認のハンコが押されることになる。役所の仕組みは一朝一夕に変わるものではない。こうしてまた時間が浪費されることになる。
これはだれも責任を取りたくないからだ。キャリアは一つの失敗で未来を失う。それでは首がいくつあっても足りないから、下の方にその責任を押し付けることになる。
どんなに緊急で人の命がかかっていようと、何とか理由つけてなすべき行動を実行には移さない。だからすべてが後手後手に回ることになる。
感染者の検査には特に顕著にそれが表れている。どうも世界の様子を眺めているとしか思えない。100%完璧な検査方法などあるはずもない。それなのに躊躇している。もっとも今の日本の医療体制でこれ以上医療従事者に負担をかけるのは残酷ともいえよう。今はクラスターの処理で手一杯かもしれないのだから。
保健所もお役所の一部だし、いままで予算が削られ続けた結果もあり、機能不全になりつつある。ある意味ではじめて保健所が「陽の目を見た」のではないだろうか。
このようにしているうちに感染はどんどん広がっている。国民の不安は高まる。従来の制度ではすべての面で対応不足だから、これからどうなることやら、日本は今試練の場に立たされている。
2020.4.26 選択
いま世の中は緊急事態で外出が制限されている。どのようにうちの中で過ごすかが大切で、単身であれば人とのコミュニケーションはないが、家族のある向きは何かと行き違いが生じ、ぎくしゃくした関係になることも多いだろう。普段から家族とのコミュニケーションが十分取れているかというと、日本の家族関係では結構むつかしいものだ。
亭主元気で留守でよい。子供は学校や外で遊んでいる方がいい。という風に意外と家族と言っても、日常はバラバラな生活をしているのが実態だろう。それが四六時中顔を突き合わせることになれば、これは結構しんどいことだ。
みんなストレスが溜まっていることだろうが、私にはそれに対してどう対処したらよいかという考えは浮かんでこない。
私の日常の過ごし方は多分普通とは違うと思う。年齢不相応なスタイルに当てはまる。なぜなら自分自身の日常がすでに、ご覧いただいているホームページの作成・更新のため、ほとんど一日中パソコンに向かっている。前にも書いたように私はこれを自分の一生の仕事だと思っている。75歳から始めたからそろそろ7年になる。このコラムもおよそ700に達しようとしている。10年で1000話にして千夜一夜物語の向こうを張ろうという心意気ではじめたものだから、うまく生き延びたら85歳の誕生日には目標を達成できるだろう。
駄文と下手な絵を描いて日々過ごしているが、この活動が人生の根幹を支えている。私のように閉じこもりに慣れた生活をしている人は、現在AI革命に乗って活躍している現役世代では沢山いることだろう。最近はスマホを含めPCの類に触れない人は殆どいないほどのIT社会になっていることが背景にあるからだ。だからテレワーク(全体の30%位とも言われている)を可能にしている。
そうした在宅勤務で済まされる業種はどうしても限られる。製造業や客商売は人が集まらなければなりたたない。即ち3密あっての稼業と言っても差し支えない。
今回の疾病は人のライフスタイルを捻じ曲げる異常事態だから、それほど長くは耐えられるものではない。心が重くなることだが、生きるか死ぬかの瀬戸際で、人々はこれからの生き方を選択せざるを得ない状況に追い込まれている。
2020.4.29 日本人のルーツを探る(1)
今回から日本人のルーツを地域別に探っていくことにする。
前提としては先住民を基本として分類すると、次のように認識される。「日本列島には蝦夷や隼人などの集団が居住していたが、ヤマト王権成立後は同化が進み、これらの集団が大和民族と呼ばれるようになった。琉球民族も琉球処分により日本民族に加えられたが、現在の日本政府ではアイヌのみを日本の「先住民族」として認識している」というのが現状である。
そこで先ずは北海道に残るアイヌについて観察してみた。
アイヌとは主に北海道・樺太・千島列島に居住する先住民で、狩猟や漁業・農業に従事し大陸との交易を行っていた。文字は持たず言語はアイヌ語で、独自の文化や生活様式を有していた。北海道を拠点にしてかつては東北地方までアイヌ民族は進出していたことは、地方に残る名称にその跡を残す。アイヌには文字がないためその歴史には謎が多い。(出典:以下wikipediaなどを参考にした)
東北の蝦夷「えみし」は和人(大和民族が自分たちをアイヌと区別するために用いた自称)により古代から征討の対象とされ、平安時代後期までには東北地方北端まで平定され和人と同化した。東北地方は弥生時代から稲作文化が流入していた一方、アイヌ語地名も散見され、古墳時代にアイヌが寒冷化により東北地方に南下するなど、歴史的にも和人、アイヌの混交の地であったとも考えられている。
アイヌは、独特の文様を多用する文化を持ち、織物や服装にも独特の文様を入れる(かつては身体にも刺青を入れた)風習があった。生活はコタンと呼ばれる集落を形成して暮らしていた。コタンは、食料が得やすく災害に遇いにくい川沿いや海沿い、湖畔に作られた。家(住居)はアイヌ語で「チセ」)は、「掘立柱建物」と呼ぶ建築様式である。
アイヌ民族は自然や物など全ての物に魂が宿っていると考え、それらを人と区別してカムイ(神)として崇めていた。
頭書述べたように、アイヌ民族の生活の基盤は狩猟や漁業で、捕った獲物の肉は食料に皮は毛皮として、自分達で使用したり物々交換に使用していた。 アイヌ民族は文字を持たない民族で、女性たちは幼少の頃より文字を習う代わりに文様の描き方やかごの編み方などを習った。それらは現在では工芸品やお土産品として、訪れる観光客に広く知られる人気商品となっている。
歴史をたどると、19世紀に日本の中央政府により「同化政策」が行われ、明治時代には蝦夷地と呼ばれたアイヌ民族が暮らしていた土地が明治政府により併合された。こうしたことによって、アイヌ独自の文化や言語が失われていき、その数も減少していった。
北海道庁の調べによると2006年時点では2万3千人ほどのアイヌ人が、北海道に今もいるとされている。
2019年4月19日、国会はアイヌ民族を日本の先住民と認めて支援を行うアイヌ民族支援法を制定した。
2020.5.2 日本人のルーツを探る(2)
ルーツを探る旅2回目は青森県に的を絞った。
青森県内には縄文時代の遺跡が数多く出土し、三内丸山遺跡(青森市)や二ツ森貝塚、是川遺跡(八戸市)などで住居跡や土器および土偶が発見されている。このことから青森県では縄文時代から高度な文明が築かれていたことが想定される。
弥生時代から古墳時代の日本列島において、北九州から関東地方までの諸勢力を配下に治める中央政権たるヤマト政権(大和朝廷)が成立した後も、東北地方中部以北は中央政権の統治領域外にあり、本州北部の住民は蝦夷(毛人、エミシ)の呼称で呼ばれていた。当時の青森県を含む東北地方中北部は、続縄文文化の段階にあった。
そもそも青森県は8世紀から9世紀に入り律令国家としての政策が構築されるまで政権統治では、先に記したように対象外の地域にされていた。それが13世紀後半には北条氏の領地となり、それが地頭代である津軽安藤氏が青森地方を支配することになった。そして時代が進み室町時代に突入すると青森県には港が作られ、海上交易が盛んに行われるようになっていく。
更に時代が進み15世紀半ば頃に南部氏が勢力を青森県まで拡大し、1597年に南部信直が盛岡に築城、また1611年には津軽為信が弘前に築城した。そしてその二城を中心として日本海側を津軽氏の弘前藩が、太平洋側を南部氏の盛岡藩が統治することになった。
この後すぐ青森県という名前が登場する訳ではなく、江戸時代前期の1624(寛永元年)年、弘前(ひろさき)藩が現在の青森市に港町の建設を始めたときに名付けたもの。当時、現在の青森市本町附近に青い森があり、港に入る船の目印になっていたと言われている。ちなみに、青い森が見渡す限り広がっていたことから青森という地名が生まれたというのが定説のようだ。
県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに)北部にあたる。
祭りは青森ねぶた祭、弘前ねぷたまつり、黒石ねぷた祭り、五所川原立佞武多、八戸三社大祭などが有名である。
青森県には"戸(へ)"の付く地名が多いが、これは奥州藤原時代に、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて糠部(ぬかのぶ)郡が置かれ、さらにその中を9つの地区に分けたときに、一戸から九戸の地名が付けられた。この場合の"戸"は"部"、つまり、"○○地区"のような意味。"七戸(しちのへ)"なら"第7地区"という意味になる。ほか、"戸へ)"の意味については、「牧場の木戸のあった場所」、とか、「蝦夷(えみし)平定の際に残した守備兵の駐屯地〔柵戸(きへ)〕」など、いろいろな説がある。