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2020.5.2 日本人のルーツを探る(2)
 ルーツを探る旅2回目は青森県に的を絞った。
 青森県内には縄文時代の遺跡が数多く出土し、三内丸山遺跡(青森市)や二ツ森貝塚、是川遺跡(八戸市)などで住居跡や土器および土偶が発見されている。このことから青森県では縄文時代から高度な文明が築かれていたことが想定される。
 弥生時代から古墳時代の日本列島において、北九州から関東地方までの諸勢力を配下に治める中央政権たるヤマト政権(大和朝廷)が成立した後も、東北地方中部以北は中央政権の統治領域外にあり、本州北部の住民は蝦夷(毛人、エミシ)の呼称で呼ばれていた。当時の青森県を含む東北地方中北部は、続縄文文化の段階にあった。
 そもそも青森県は8世紀から9世紀に入り律令国家としての政策が構築されるまで政権統治では、先に記したように対象外の地域にされていた。それが13世紀後半には北条氏の領地となり、それが地頭代である津軽安藤氏が青森地方を支配することになった。そして時代が進み室町時代に突入すると青森県には港が作られ、海上交易が盛んに行われるようになっていく。
 更に時代が進み15世紀半ば頃に南部氏が勢力を青森県まで拡大し、1597年に南部信直が盛岡に築城、また1611年には津軽為信が弘前に築城した。そしてその二城を中心として日本海側を津軽氏の弘前藩が、太平洋側を南部氏の盛岡藩が統治することになった。
 この後すぐ青森県という名前が登場する訳ではなく、江戸時代前期の1624(寛永元年)年、弘前(ひろさき)藩が現在の青森市に港町の建設を始めたときに名付けたもの。当時、現在の青森市本町附近に青い森があり、港に入る船の目印になっていたと言われている。ちなみに、青い森が見渡す限り広がっていたことから青森という地名が生まれたというのが定説のようだ。
 県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに)北部にあたる。
 祭りは青森ねぶた祭、弘前ねぷたまつり、黒石ねぷた祭り、五所川原立佞武多、八戸三社大祭などが有名である。
 青森県には"戸(へ)"の付く地名が多いが、これは奥州藤原時代に、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて糠部(ぬかのぶ)郡が置かれ、さらにその中を9つの地区に分けたときに、一戸から九戸の地名が付けられた。この場合の"戸"は"部"、つまり、"○○地区"のような意味。"七戸(しちのへ)"なら"第7地区"という意味になる。ほか、"戸へ)"の意味については、「牧場の木戸のあった場所」、とか、「蝦夷(えみし)平定の際に残した守備兵の駐屯地〔柵戸(きへ)〕」など、いろいろな説がある。

2020.5.6 日本人のルーツを探る(3)

 秋田県は世界遺産に登録された白神山地や百名山の鳥海山、日本一の深さを誇るコバルトブルーの田沢湖、そして武家屋敷が残るみちのくの小京都・角館など、広大な面積の中に見どころが尽きない。
 秋田県人のルーツは古代を除けば、この地を支配した勢力のある武家の存在にあると考えられる。秋田に入った御家人は成田氏・安保氏・秋元氏・奈良氏・橘氏・浅利氏・平賀氏・小野寺氏などがあげられる。その後、津軽地方から安東氏が南下し、横手盆地では戸沢氏・前田氏・本堂氏・六郷氏の諸氏が勢力を持った。 由利郡は由利十二頭と呼ばれる豪族十二氏が勢力を振るうことになる。
 秋田県に多い苗字を調べてそのルーツを調べてみると、次のような顔が見えてくる。
 秋田県の苗字ベスト20位をあげると、以下の通り。
1佐藤 2高橋 3佐々木 4伊藤 5鈴木 6斎藤 7三浦 8加藤 9阿部 10工藤 11菅原 12畠山 13藤原 14渡辺 15小松 16小林 17柴田 18鎌田 19成田 20渡部
 第一位の佐藤氏は県北部に多く、県南部は第一位の高橋氏が多い傾向にある。 佐々木氏は由利郡・山本郡に、伊藤氏は南秋田郡地方に多くある。
 秋田県の苗字の特徴として関東武士の苗字が上位に来ている。第7位の三浦氏は相模国三浦郷(神奈川県三浦市)発祥の桓武平氏。 第10位の工藤氏は伊豆国を本拠とした藤原南家、 第12位の畠山氏は武蔵国畠山庄(埼玉県大里郡)発祥の桓武平氏、 第19位の成田氏は武蔵国成田庄(熊谷市)が発祥地。
 何といっても秋田と言えば秋田美人だが、何故多くの美人がうまれるのだろう。
 秋田県を含む日本海側の女性は肌が白いので美人に見えるという説がある。日本海側は全国的に見て日照時間が少ないことから、紫外線による影響が少ない。その上、冬季は積雪が多く、屋内にこもりがちになることも「雪国の人は肌が白い」ことの原因として考えられている。
 一方で日本海側の人々に特有の遺伝的性質によるものである可能性もあり、満州・朝鮮半島東部から日本海沿岸へ渡来した集団が存在したことを示すとされている。「地理的環境による形質的素因、風土の持つ気象的条件、それらに加えるに歴史的刺激などの恩恵を享けて、形成されてきたもの」と言われている。珍説としては、 かつて常陸の国(今の茨城)を治めていた佐竹というお殿様が、国替えで秋田へ移るときに、周りにいた美人女性をすべておともに連れて行ってしまったことに遠因があるという説がある。

2020.5.9 日本人のルーツを探る(4)
 今回は岩手県の生い立ちなどを調べてみた。
 岩手という名の由来は、県のHPによれば「盛岡市三ツ割の東顕寺に注連縄が張られた三つの大石がある。この石は、岩手山が噴火したときに飛んできた石といわれ「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。
 この頃、羅刹鬼(らせつき)という鬼が里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は「三ツ石さま」に「どうか悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を三つの大石に縛りつけてしまった。そして三ツ石の神様は「二度と悪さをしないというシルシをたてるなら許す」と言ったそうだ。
 そこで、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタンと手形を押して南昌山の彼方に逃げ去ったという話」
 今も、雨上がりの日など「鬼の手形」らしきものが石の上に見えるという。昔話のような県名の裏話があるのは、さすが民話の里「岩手」らしい。
 さて歴史的背景を見ると、古くは縄文時代より豊かな狩猟・漁労生活を実現した地だった。上代の北上川流域は蝦夷の中心地で、日高見国とも呼ばれていたという説が唱えられている(また、日高見国の名が北上川という地名や、「日本国」という国名のもととなったとも)。一方で、胆沢の角塚古墳は最北の前方後円墳であり、ヤマト王権の影響力が及ぶ北の端でもあった。
 北東北地域は、律令国家の形成期である7世紀後半にはまだその支配に組み込まれておらず、蝦夷は朝廷側からは征伐の対象であった。
 奈良時代、東北地方北部を統一政権の配下に入れようと朝廷側は侵攻を始める。エミシ側は蝦夷の軍事指導者アテルイが現れて朝廷軍に抵抗し、一時は朝廷側の軍に手痛い打撃を与えたが、朝廷側に坂上田村麻呂が派遣され、ついに降伏。そして、岩手県も朝廷の支配下となった。
 平安時代の初めには政治の拠点として胆沢城(奥州市)、志波城(盛岡市)、徳丹城(矢巾町)が建設されるなど、律令による朝廷の統一的支配が始まった。
 しかし、朝廷の力が衰えてきた平安時代後半には、安倍氏、清原氏、藤原氏などの地元の有力豪族が力を増大させ、地方を支配していった。12世紀末、黄金文化を築いた藤原氏の政権も、四代泰衡が源頼朝によって滅ぼされ、岩手の地は再び外部勢力の支配を受けることになる。
 以後、戦国時代まで幕府の内紛や南北朝の対立等、中央政治の動向が岩手にも持ち込まれ、天正19年の「九戸政実の乱」が秀吉の天下統一の最後の仕上げの戦いとなり、岩手の地は、戦国時代の終結という節目にも大きな波にさらされ続けた。 
 明治維新により陸奥国が分割され陸中国が成立する。その後盛岡藩を前身とする盛岡県に、磐井県と青森県の一部が編入されて岩手県が成立した。

2020.5.13 日本人のルーツを探る(5)
 今回は山形県人のルーツを求めてタイムスリップすると、令制国の出羽国の南部に行き着く。
 出羽の国(現在の山形県と秋田県にまたがる)についは、出羽三山に関する面白い記事を山形県のHPで見つけたので紹介する。
 「出羽三山は、山形県の中央にそびえる月山(1,984m)・羽黒山(414m)・湯殿山(1,504m)の総称であり、月山を主峰として羽黒山と湯殿山が連なる優美な稜線を誇っている。『西の伊勢参り』、湯殿山を中心とした『東の奥参り』と言われるほど多くの人たちの信仰があった。地域によっては15歳になった男子はそれをしなければ一人前と認められないほど、出羽三山詣もうでは重要とされていた。
 日本列島においては古くから、山や川、木や石、動物などを神そのものとする考えや、山や川が神の住すみ処かであり、神によって生み出されれたものとする考えがあったようだ。また人間は神の宿る山から魂を授かり、この世に生を受けて、死後その山へおもむき、神として鎮まるとも考えられていた。高くて形のよい山は、豊かさの源であり、魂の鎮まる地であると同時に、神聖な場所として、麓ふもとの人々から敬われていた。
 羽黒修験道では三山の特徴から、羽黒山は現在の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれ変わりを祈る山(未来)と見立てられた」という話がある。
 さて、歴史的に出羽の国がどのような変遷を経て安定していったか見ることにしよう。
 出羽国は陸奥国同様に守護職は置かれず、探題・管領が守護にかわる権限を持っていた。 さらに地頭職として武藤氏(庄内大泉荘)、大江氏(長井荘・寒河江荘)、里見氏(成生荘)などが入部する。
 南北朝期、武藤氏らが北朝足利氏側に立つと、南朝北畠氏が出羽に入り羽黒山修験勢力と結び対抗する。 これに対して北朝側は斯波氏を奥羽探題とし、斯波兼頼が出羽探題として山形に入部する。
 南朝方の山形最大勢力は寒河江大江氏だった。正平23年(1367)北朝斯波氏と南朝寒河江大江氏が激突し、斯波氏が勝利した。 結果、斯波氏は勢力基盤を固め、最上氏を名乗り、各地に一族を配置して最上・村山郡一帯に勢力を拡大させることになる。その後数多の勢力争いの後、伊達氏が伊達政宗の代となり、会津の蘆名氏を滅ぼし、奥州探題大崎氏を屈服させて伊達氏の領土は最大となった。
 明治初年に出羽国が羽前国と羽後国の2か国、陸奥国が5か国に分けられ、 山形県は羽前国と羽後国の飽海郡が含まれた。

2020.5.16 日本人のルーツを探る(6)
 歴史的経緯から宮城県民のルーツを探ってみる。
 平安時代末期には平泉の奥州藤原氏の支配を受けていたが、源頼朝が奥州征伐により奥州藤原氏を滅ぼすと、頼朝は御家人に守護・地頭として所領を与えた。
 これを契機として宮城県に移住した氏族には、葛西氏・伊沢氏(留守氏)・千葉氏・武石氏(亘理氏)・国分氏・小野寺氏・熊谷氏・長江氏・首藤氏・狩野氏などがあげられる。
 鎌倉幕府が滅ぶと北畠顕家は後醍醐天皇から陸奥守に任じられ、義良親王を奉じて多賀城に入るが、やがて北朝に押されて敗退する。
 室町幕府は守護に代わって陸奥国の統括する奥州管領が設置され、吉良氏・畠山氏そして斯波氏が就く。 新たに奥州探題が置かれると、斯波氏族の大崎氏が任命され世襲化していく。
 もともと奥州では有力国人の権限が強い上に、幕府将軍の直臣である京都扶持衆(伊達氏や蘆名氏)が勢力を持ち、 奥州南部には鎌倉府の影響下にある笹川・稲村御所(福島県郡山市)に押さえられ、大崎氏も一有力国人へと零落していった。
 伊達稙宗は陸奥国守護に補任され、戦国大名として頭角を現し、また登米郡・桃生郡に勢力を持つ葛西氏との抗争もあり、大崎氏は次第に衰退し、伊達氏の支配下に置かれるようになる。
 豊臣秀吉に服属した伊達政宗は、奥州仕置により取り潰された葛西氏・大崎氏旧臣を扇動して「葛西大崎一揆」を起こさせる。 この一揆扇動は蒲生氏郷に露見し、一揆鎮圧後山形県南部・福島県・宮城県南部の領地を没収され宮城県・岩手県南部の領地を与えられることとなる。
 伊達氏は代々「陸奥守」を称し、初代仙台藩祖・伊達政宗以来東北の雄藩であった。仙台藩は幕末に、幕府の命令で北海道の警護を担当した。このとき会津藩や庄内藩などの東北諸藩も北海道の警護を担当した。仙台藩の警衛地と領地は北海道の約3分の1を占めた。
 仙台藩は、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年)の戊辰戦争の際に、奥羽越列藩同盟の盟主となった。仙台藩は孝明天皇の弟(明治天皇の叔父)・輪王寺宮(のちの北白川宮)を擁立し、輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させ、仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に就任する予定であったといわれる。しかし奥羽越列藩同盟は薩摩藩と長州藩を主力とする明治新政府軍に敗れ、仙台藩は石高を28万石にまで減らされた。
 明治政府が誕生すると、日本は中央集権体制の下に組み込まれたが、東北地方支配の政治的拠点とされた仙台市を中心に発展が始まった。
 仙台藩を前身とする仙台県は、廃藩置県後も存続し、旧領である登米県、角田県の編入、宮城県への改称、磐前県(現福島県浜通り)、磐井県(現岩手県南部)との管轄区域の変更を経て、現在の県域が確定した。

2020.5.19 日本人のルーツを探る(7)
 今回は福島県の生い立ちについて探ってみる。
 福島県を含む北関東・東北地方における人の足跡は、後期旧石器時代に始まる。県域における遺跡としては平林遺跡(桑折町)や会津若松湊の笹山原遺跡群がある。この遺跡から旧石器時代人が製作し使用したとみられる石器群が発見されている。
 縄文時代・弥生時代を経て古墳時代に入るが、福島県は大型の古墳が少ない東北地方にあって大安場古墳、会津大塚山古墳、亀ヶ森・鎮守森古墳などの大型の古墳が集積する。
 5世紀にはすでに北関東・東北の一部までがヤマト王権の影響下にあったと思われ、福島県域においても各国に国造が成立した。当初、大和朝廷の勢力圏は福島県域が北限であり、蝦夷勢力圏との境界に当たる信夫国(福島盆地)などの国には防備の任もあった。
 701年(大宝元年)の大宝律令の施行時には陸奥国となり、評は郡、評司(国造)は郡司になった。拡大した陸奥国から718年(養老2年)に石城国と石背国が分置された。
 転じて幕末から福島県成立までの歴史の歩みを見ると、諸外国の接近によって、幕府の政治が停滞。白河藩主阿部正外は江戸老中として諸外国との折衝にあたり、神戸港を開港したことで攘夷派の公家などの反感を買い老中を罷免され、白河藩は棚倉へと移封され藩主不在となったにも関わらず、東西両軍にとって要衝の地と目された白河は戊辰の一大激戦地となる悲劇を生むこととなった。
 その後、幕府を廃しようと目論む薩長同盟との衝突で、圧倒的な西洋戦法を有する薩長の軍勢に、会津藩士は元より、奥羽越列藩同盟の磐城平藩や中村藩などでも各藩の勢力や民衆は徹底して反撃を繰り返したが、降伏してしまった。
 江戸時代幕末に置かれた藩及び城郭、交代寄合陣屋としては会津藩、支城の猪苗代城、二本松藩、棚倉藩、中村藩、三春藩、磐城平藩、福島藩、泉藩、湯長谷藩、下手渡藩、水戸藩支藩の守山藩、幕末に徳川幕府直轄地となった白河城、仙台藩の支城谷地小屋城などがあり、交代寄合の溝口家の横田陣屋、その他に代官陣屋もあった。
 明治初期、版籍奉還後の1869年(明治2年)の太政官令により、陸奥国(むつのくに)南端である現在の福島県域は陸奥国から分離し、西側が岩代国、東側が磐城国となった(第1次)。
 1871年(明治4年)7月(旧暦)の廃藩置県で全国に多数の県が生まれた後、同年11月(旧暦)に現在の福島県域は、岩代国の会津地方が若松県、岩代国と磐城国からなる中通り地方が二本松県、磐城国はほぼそのまま磐前県(いわさきけん)の3つの県として統合された(第2次)。
 1876年(明治9年)8月21日に福島県(第2次)、若松県、磐前県が合併され現在の福島県(第3次)が成立した。

2020.5.23 日本人のルーツを探る(8)
 新潟県のルーツを歴史的背景に目を据えて調べてみた。
 現在の新潟市域における人々の営みの始まりは、約2万年前の旧石器時代に丘陵と山麓を中心に始まった。現在の市域の大部分はまだ海の底であった。
 約6000年前の縄文時代前期には平野部の砂丘に生活範囲を広げていき、弥生時代後期、新津丘陵や角田山麓に高地性集落がつくられる。新津丘陵の古津八幡山遺跡は、日本海側北端付近に位置する大規模な高地性集落であった。
 古墳時代前期にはヤマト王権の勢力下にあり、新津丘陵に古津八幡山古墳、角田山麓に山谷古墳、菖蒲塚古墳などが造られていった。
 古墳時代の後期にヤマト王権は地方の豪族を国造に任命。市域周辺では高志深江国造が任命され、647年(大化3年)には北方の蝦夷支配の拠点として渟足柵(ぬたりのさく)を設置した。
 奈良時代が始まる8世紀前半、国・郡・郷を単位とする地方制度が整った。市域は阿賀野川を境に、北が越後国沼垂郡、南が越後国蒲原郡となった。蒲原津は越後国の国津(公的な港)で、人や物資の集まる交通の要衝であった。
 今の新潟県は令制国の越後国と佐渡国に当たる。古くは高志(越)国の一部だったが、7世紀末越前・越中・越後の三国に分けられた。
 時代は下って、室町幕府を開いた足利尊氏は越後国守護に高師泰、次いで上杉憲顕を就ける。天文17年(1548)長尾景虎(のちの謙信)が家督と継ぎ、越後守護代となる。19歳の時である。景虎は22歳にして越後国統一を成し遂げた。
 武田信玄が病没し、反信長の立場で本願寺一向宗徒を和睦した上杉謙信は、足利義昭からの信長討伐要請もあり、上洛のための北陸平定にかかる。
 謙信率いる上杉軍は天正5年(1577)加賀国の「手取川の合戦」で織田軍と戦い、織田軍を撃破するが翌年春、謙信は急死する。上杉景勝(長尾政景の実子)が、謙信の後継者として上杉家の当主となる。
 1598年(慶長3年)、上杉景勝は豊臣秀吉の命令で会津(福島県)への国替えとなり、家臣とともに越後を去ることとなった。
 その後、新潟島を中心とする西部は長岡藩領、沼垂を中心とする東部は新発田藩領になった。
 新潟湊は長岡藩領に、沼垂湊は新発田藩領となった。その後、信濃川・阿賀野川河口部の地形が変化し、新潟湊は1655年(明暦元年)に信濃川左岸の現在地に移転した。北前船の西回り海運が安定する時期までに移転を終えた新潟湊は、1697年(元禄10年)には、日本海側屈指の湊に発展していた。
 1869年1月(明治元年11月)に新潟港が開港。これと同じ年に新潟町は新潟県の県庁所在地となり、新潟県会の開設など近代化が進められた。
 1889年(明治22年)に市制・町村制が実施され市域は1市(新潟市)123町村になり、さらに、1901年(明治34年)の大合併で1市67町村になった。

2020.5.28 日本人のルーツを探る(9)
 今回は富山県の歴史的経緯からその成り立ちを見ていく。
 富山県は、北方を日本海(大半は富山湾)、他三方を山脈で区切られている。令制国の越中国と領域を同じくする。
 東の新潟県との県境は難所親不知として知られる。長野県との県境には北アルプスが聳える。石川県との県境北部は宝達丘陵、南側は岐阜県などにまたがる両白山地である。南の岐阜県境には飛騨山脈(日本アルプス)や飛騨高地が控える。
 戦国期以前の富山県では建武政権樹立を目指した後醍醐天皇が恒性親王を下向させている。 恒性親王は「越中之宮」と呼ばれ、在地土豪宮崎氏が迎え入れられる。 その恒性親王は暗殺されることになるが、越中国は宮方(南朝)勢力の強い地域となり、宗良親王も一時期滞在している。
 そこに「観応の擾乱」が起こり足利政権が分裂すると、南朝方はこれを利用し越中の在地領主と守護桃井直常は足利直冬(直義の養子)方に付き足利政権に反旗を翻す。幕府は守護に斯波氏そして畠山氏を入れ、越中国の平定に取りかかる。
 管領職でもある畠山基国が越中国守護になると、神保氏、遊佐氏、椎名氏を郡代として安定化させている。
 以降、越中国は畠山氏が守護職を継承するが、畠山義就・政長の時に「応仁の乱」が起こる。
 守護畠山氏は在京し、その間越中領国の支配は守護代神保氏や椎名氏が担当していた。 そうした状況下で神保氏は一向一揆勢と結びつき、越中国での権勢を強めようとした。
 「明応の政変」により将軍職を追われた10代将軍足利義稙(よしたね)が神保長誠を頼り越中へ下向する。このことは神保氏が強い勢力基盤を持っていたことを示している。
 永正3年(1506)守護畠山氏の要請を受けた越後守護代長尾氏が越中に出兵する。 ところが一向一揆・神保氏連合軍に敗れ、以後越後長尾氏は神保氏そして一向一揆勢との間で長期にわたって抗争を続けることになる。
 天文年間に入ると富山城の神保長職と松倉城(魚津市)の椎名康胤が越中の覇権をめぐって争う。 椎名氏は越後上杉謙信を後ろ盾にしたため、神保氏は甲斐武田信玄そして一向一揆と結び対抗し、越中の争乱はさながら上杉・武田の代理戦争という形になっていた。
 武田信玄、上杉謙信が亡くなると、越中国には織田信長が侵攻してきた。
 ところが6月2日信長が「本能寺の変」で自害すると、織田勢主力の柴田軍は撤兵、越中国は佐々成政が統治に当たることとなる。
 反秀吉の行動をとった佐々成政は、天正13年(1585)豊臣秀吉に攻められ降伏、越中国の大半は前田利家・利長父子に与えられた。その後、江戸時代の越中は加賀藩とその支藩である富山藩に統治されていた。廃藩置県では一時的に富山県(旧県)及び新川県が成立するが、石川県に併合されてしまう。しかし、石川県議会では富山軽視の姿勢が目立ったことから分県運動が起こり、旧越中国全域が分離独立する形で現在の富山県が成立した。

2020.5.31 日本人のルーツを探る(10)
 今回は石川県についてその成り立ちを見ていくことにする。
 先ず何故石川県かと調べると「石川県の名称は加賀地方にあった石川郡に由来し、さらに石川郡との命名は本県最大の河川手取川の古名である「石川」に由来する。 1872年(明治5年)、金沢県庁が石川郡美川町(現・白山市)に移転した際、その郡名により石川県と改名された。 翌年、県庁が再び金沢に移転した後も県名はそのままで現在に至っている」という記事を見付けた。
 それでは歴史的にみて石川県はどんな経緯をたどって現在に至ったのか簡単に見ていくことにする。
南北朝時代、加賀国は足利尊氏に従い活躍した冨樫氏が守護に任じられる。代が変わり守護職をめぐって冨樫氏に内紛が起こる。 寛正5年(1464)冨樫政親の守護就任で、ひとまず深刻な一族対立は解消されましたが、 続く「応仁の乱」の勃発により再び一族が東軍細川方・西軍山名方に分かれて争うことになりる。
 中央の政局に振り回され、冨樫氏は徐々に求心力を失っていく。 そこで冨樫政親は北陸に教線を伸ばす本願寺勢力を味方に引き入れ、反抗勢力を破り、加賀半国を掌握することに成功する。 ところが本願寺との同盟関係が破たんすると、冨樫氏は本願寺一揆衆の弾圧に動き出す。 武力を手に入れた一揆衆は勢いを増し、守護権力との対決姿勢を鮮明にした。
長享2年(1488)一揆衆は政親の居城高尾城を20万ともいう大軍で襲い、滅ぼしてしまいます。 以後、実権は門徒一揆衆が掌握していた。 本願寺は尾山御坊(金沢御坊)を拠点に、約100年にわたり加賀国を支配、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。
 天正元年(1573)越前国を攻略した織田信長は続けて加賀国へ侵攻し、本願寺勢は織田軍の猛攻に抵抗する術を失い、天正8年(1580)金沢御坊が陥落、天正10年までに一揆勢は掃討された。
 能登国では明徳2年(1391)管領畠山基国が守護職となって、畠山氏が歴任し、守護代として遊佐氏をおいた。
 「応仁の乱」が起こると畠山義統は西軍山名方につき、京の騒乱が一段落すると能登に戻り在国支配に専念する。この間一向一揆勢と戦い能登への拡大を防いでいる。
 七尾城を築城し、領国統治に実績を残した畠山義総が死去し、畠山義続が守護になると、有力被官の遊佐氏や温井氏などが台頭し始めまる。 畠山七人衆(伊丹氏、平氏、長氏、温井氏、三宅氏、遊佐氏、飯川氏)と呼ばれる重臣らは国政を掌握し、守護は傀儡となってしまう。
 ぞの後畠山七人衆のなかで勢力争いが起こる、遊佐続光は上杉謙信に内応、一方長続連は織田信長に接近する。
 天正9年(1580)織田信長によって能登国が制圧されると、前田利家が七尾城に入った。以降前田家の天下が続くことになり、1869年(明治2年)版籍奉還で加賀藩は金沢藩となり、14代藩主前田慶寧は金沢藩知事に任命された。