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2020.6.3 日本人のルーツを探る(11)
 今回は福井県の成り立ちを調べて見た。
 福井県は令制国の越前国と若狭国に相当する。
 当初、越前国は石川県も含んでいたが、養老2年に能登国、弘仁14年に加賀国を分立し、領域が定まる。山中峠・木ノ芽峠・栃ノ木峠を通る稜線を境にして、北側の嶺北(越前地方)と、南側の嶺南(若狭地方および敦賀市)より構成される。
 南北朝時代、越前国には新田義貞が入り南朝方が勢力を持っていた。 暦応元年(1338)新田義貞が越前国藤島で戦死し南朝方が撤退すると、北朝方斯波氏が平定した。 その後、畠山氏が一時期守護となったが、斯波義将が守護に任ぜられると、応仁期まで斯波氏が守護を務めることになった。その後「応仁の乱」の一因となった家督争いにより、守護斯波氏は弱体化していくことになる。
 一方、若狭国では貞治5年(1366)一色範光が守護となり、国人一揆を抑えて若狭を平定する。 その後「明徳の乱」で武功をあげると、一色氏は四職家として権勢を振るうことになる。勢力拡大を恐れた将軍足利義教は一色氏に代えて武田信栄を守護に任命し、以後武田氏が若狭国を支配することになる。 この武田氏は甲斐武田氏の分流である。
 戦国時代になると、越前国では守護代甲斐氏方として活躍した朝倉孝景が台頭してくる。以後文明3年(1471)朝倉氏が正式に越前守護職となり、一乗谷を本拠地として、孝景・氏景・貞景・孝景・義景の5代にわたり越前国を支配することになる。
 天正3年(1575)織田信長によって朝倉氏が滅びると、戦国末期の福井県は、信長の重心柴田勝家が支配することになる。ただし、当時の名称は「北庄」(きたのしょう)である。これは伊勢神宮の神領で、のちに一条家領となった足羽御厨(あすわみくりや)の北の荘園、といったような意味だろう。信長が「本能寺の変」で死ぬと、後継者争いで先頭に立つ羽柴秀吉が柴田勝家を滅ぼし、豊臣政権の支配を受けるようになる。
 若狭国では、永禄年間に朝倉氏が侵攻し、武田氏を駆逐し朝倉氏の支配下に組み込まれた。
 1586年に若狭で、1598年には越前で太閤検地が実施され、結果、若狭が8万5000石、越前が68万石となった。
 越前国は1600年の関ヶ原の戦いの後、戦功第一の恩賞として結城秀康に越前一国および下野国結城郡75万石が与えられる(北ノ庄藩)。越前松平家は、将軍家徳川秀忠の兄の家ということから、制外の家(各種特権が許された家)または、御三家に次ぐ家という意味で四家などともよばれる。
 江戸時代初期に、徳川家康の孫に当たる松平忠昌が越後高田から転じてくると、城の位置を改め、その際に「敗北」という意味のある「北」の字をきらって「福井」と改称した。この由来となったのが天守閣脇にあって名水の湧く「福の井」という井戸だとされ、今でも天守閣跡には「福井の由来」として史蹟となっている。

2020.6.8 日本人のルーツを探る(12)
 今回は山梨県の成り立ちを見ていくことにする。
 古代には律令制下において甲斐国が成立する。『日本後紀』延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐって隣接する相模国との間で争論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立。山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日居町に前期国府が存在し、八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。
 平安時代後期の治承4年(1180年)、以仁王の令旨が諸国の源氏に下されると甲斐源氏の一族も平氏政権に対して挙兵する。甲斐源氏の一族は源頼朝の粛清を受け衰退する。武田氏は中世には必ずしも甲斐守護を歴任していない。鎌倉幕府滅亡後に北条時行ら北条氏の残党が起こした中先代の乱までは北条方に属し、南北朝時代には建武政権から離反した足利尊氏に従った。
 室町時代、室町幕府は武田信元、続いて武田信重を甲斐守護に任じ、守護代として跡部氏を派遣した。以後、甲斐では守護武田氏と有力国人や跡部氏との抗争が続く。武田信虎は永正5年(1508年)に信恵方を滅ぼし、国中地方の有力国人や都留郡(郡内地方)の国衆・小山田氏など従属させる。信虎は従来の川田館(甲府市川田町)から甲府の躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)に守護館を移転し、新たに城下町を整備し家臣団を集住させる。信虎の子・武田晴信(信玄)は天文10年(1541年)に信虎を駿河へ追放することで家督を継承する。
 信玄は信濃をほぼ統一した後は西上野や今川領国への侵攻を行い、三河北部や遠江東部・北部、美濃恵那郡も出兵して、織田信長や徳川家康と対抗した。信玄死去により家督を継いだ武田勝頼は長篠の戦いに敗れて、天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐で戦国大名としての武田氏は滅亡した。
 武田氏滅亡後、甲斐は徳川氏が領した。その後、家康は豊臣秀吉に帰服。甲斐国には浅野長政ら豊臣大名が入った。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には、勝利した徳川家康による直轄支配が行われた。甲斐国は関東防衛の要所として重視され、江戸時代初期、国中には将軍直系(甲府藩)、郡内には譜代大名(谷村藩)が配置された。
 江戸後期は東国に特徴的な農村の荒廃から無宿・博徒が増加し、竹居安五郎や黒駒勝蔵など甲州博徒が台頭した。幕末の開国により横浜港が開港されると、甲州屋忠右衛門・若尾逸平ら在方商人が甲州産物を移出して富を築いた。若尾逸平は甲府において製糸業に着手して新興商人として台頭し、明治時代には甲州財閥を形成する。
 廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる第1次府県統合により、旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して、12月31日(旧暦11月20日)に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられた。

2020.6.11 日本人のルーツを探る(13)
 今回は長野県の成り立ちを調べてみた。
 長野県域でも旧石器時代の遺跡がいくつか発掘されている。その中の野尻湖遺跡(立ヶ鼻遺跡)から人類が活躍していたことを示す槍状木器・骨器・剥片石器などの遺物が発見されている。時期は約2万5000年前から3万年前のものである。全国で発見されている斧形石器の約4分の1にあたる239点を出土し、刃の部分を砥石で研磨したものが多く、世界でももっとも古い磨製石器と言われている。
 有史以前、県内には縄文時代の遺跡が多数分布し、この時代の中心地のひとつであった。茅野市で発掘された土偶は2体が国宝とされている。また小県郡長和町の和田峠は日本における黒曜石の代表的な産地であり、諏訪郡原村の阿久遺跡は最古級の環状集石とされている。
 南北朝時代の信濃国は、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられ、 応永7年(1400)「大塔合戦」では守護小笠原氏と村上氏を中心とする反守護勢力の在地豪族との間に争いが続き、信濃国では強力な支配権を持つ戦国大名が成長できず、信濃国守護の小笠原氏も一族内での対立もあり一つの地域勢力に留まった。
 戦国時代も後半期になると、甲斐武田氏が侵攻し武田信玄の代には信濃国の大半を制圧、信濃北部の諸豪を援助する越後上杉謙信との攻防が繰り広げられた。信玄、謙信の死後、織田信長が信濃国を制圧し、その後、豊臣秀吉が天下を取り、徳川家康は関東に移封され信濃は豊臣方の武将の支配下になる。
 令制国である信濃国の歴史については「信濃国#歴史」を参照すると、 明治元年8月2日(1868年9月17日) - 明治政府の府藩県三治制導入により、信濃国の旗本領・幕府領が伊那県となる(県庁所在地は伊那郡飯島村=現飯島町)。
明治3年9月17日(1870年10月11日) - 伊那県のうち北信および東信の旗本領・幕府領が中野県として分立する。 明治4年6月2日(1871年7月19日) - 廃藩となった龍岡藩のうち信濃国内の領地を中野県に編入。
明治4年6月22日(1871年8月8日) - 善光寺領を編入。県庁が中野から長野に移転し、長野県が発足。
長野県歌「信濃の風」浅井 冽(1)
 「信濃の国は十州に境連ぬる国にして 聳ゆる山はいや高く流るる川はいや速く 松本伊那佐久善光寺四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに万足らわぬ事ぞなき」

2020.6.14 日本人のルーツを探る(14)
 今回は岐阜県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 本県においても約3万年前に始まる後期旧石器時代には、濃尾平野北辺部の段丘上や台地(日野遺跡・寺田遺跡・椿洞遺跡)に人々が活動していた遺跡が確認されている。
 4世紀の前期には、美濃西部が大和政権の勢力下に入り、4世紀後期には飛騨地方にまで支配が及んだ。開化朝に三野前国造が不破郡に設置され、次いで成務朝には三野後国造が各務郡に、額田国造が大野郡に、牟義都国造が武儀郡に、斐陀国造が大野郡に設置された。
 律令制以降は上記の国造国が合併され、令制国の美濃国(18郡・131郷)と飛騨国(3郡・13郷)の二国になった(和名類聚抄)。美濃国は、日本のほぼ中心として、東国と畿内を結ぶ重要な軍事拠点であったので、日本の歴史上で重要な合戦が多く起こっている地域である。
 南北朝時代の美濃国では、足利尊氏の蜂起に付き従った土岐氏が美濃国守護となり、美濃国の支配を固めた。 その後、土岐氏は将軍足利義満に警戒されるほど幕府内に力古くは大海人皇子がこの国を拠点に挙兵した壬申の乱(672年)があり、関ケ原町の藤古川付近で激戦が行われた。
 中世に入ると、美濃国は土岐氏が、飛騨国は京極氏が守護を務める。戦国時代になると、美濃国は斎藤道三や織田信長の活躍の舞台となる。
 戦国時代後期、飛騨国は姉小路氏を称した三木自綱が支配していたが、佐々成政と組んで豊臣秀吉に対抗し、配下の武将金森長近に滅ぼされた。飛騨国は当初飛騨高山藩があったが、元禄期に山林資源や鉱山資源に目をつけた幕府が藩主の金森氏を上山藩に転封し、その後は幕府領として高山陣屋の飛騨郡代が支配した。
 「岐阜」の名は諸説あり、一説には、織田信長の命名によるとされる。『信長公記』(太田牛一)によると、織田信長が美濃国を攻略した際に、稲葉山の城下の井口を岐阜と改めたと書かれている。
 江戸時代中期の尾張藩の記録の『安土創業録』(名古屋市蓬左文庫蔵書、旧蓬左文庫所蔵・尾張徳川家蔵書)、『濃陽志略』(別名・濃州志略、国立公文書館所蔵)にも信長命名とあり、長瀬寛二『岐阜志略』(1885年)が『安土創業録』の記述を引用して信長が初めて岐阜と命名したとしている。

2020.6.17 日本人のルーツを探る(15)
 今回は静岡県の成り立ちを調べてみた。
 (http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の遠江国と駿河国そして伊豆国に相当する。伊豆国は、天武天皇9年(680)に駿河国の東部2郡を分割して設置されていて。 遠江国と駿河国の境は大井川になる。
 戦国期以前の静岡県とは次のように記されている。
 伊豆国は鎌倉のある相模国と接し、鎌倉時代は頼朝が鎌倉幕府を開府すると三国の所領も恩賞として御家人に安堵された。伊豆は北条氏が守護となったが、その後、頼朝は甲斐源氏の粛清を行い、三国は北条氏の影響下に置かれた。『曽我物語』に拠れば建久4年(1193年)5月15日には富士の巻狩が行われ、5月28日には曽我の敵討が発生する 。
 南北朝時代に入ると、今川氏が守護大名として駿河国府中(駿府)に入った。14世紀後半に入ると今川氏は遠江国の守護職も兼ねて勢力を伸長する。
 駿河国は、東を鎌倉のある相模国と接し、京と鎌倉を結ぶ東海道の最重要な国として扱われていた。室町幕府は、守護職に足利一門の今川氏を任じ、対鎌倉の最前線に位置付けた。
 南北朝期の駿河国は南朝方の勢力も存在したため、今川氏の勢力基盤はまだまだ脆弱だった。しかし南北朝の合一がなされる頃には、駿河国における今川氏の権力基盤が確立していく。
 そして今川義元の代に最盛期を迎える。しかし、明応2年(1493)伊勢盛時(後の北条早雲)により伊豆国は早雲に支配されることになる。 相模国小田原城を奪った北条早雲は本拠地を小田原へ移し、韮山城を中心に伊豆国の支配が行われた。 その後、戦国大名に成長した後北条氏は、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で滅亡するまで、5代にわたり関東に君臨することになる。
 遠江国は今川氏が滅ぶと、徳川家康が進出し領国化を目指した。 しかし甲斐武田氏が遠江国に触手を伸ばし、戦国最強と呼ばれた武田軍がたちまち遠江国を席巻した。 徳川氏は後退を余儀なくされるが、 武田信玄の死により、徳川家康の遠江国支配が確立することになる。
 1603年、徳川家康が江戸幕府を開くと後継者の徳川秀忠に将軍職を譲り、家康は駿府において大御所政治を敷いた。江戸時代の伊豆国、駿河国、遠江国の3国(以下「豆駿遠三国」と略称)には、幕府直轄領や譜代大名の藩領、旗本領が入り組んでおり、伊豆国には韮山の代官江川太郎左衛門、駿河国には沼津藩の水野出羽守、田中藩の本田紀伊守、小島藩の瀧脇丹後守、遠江国には相良藩の田沼玄蕃頭、横須賀藩の西尾主計頭、浜松藩の井上河内守、掛川藩の太田惣次郎、堀江藩の大澤右京太夫といった具合に領主支配は複雑に変遷している。
 江戸幕府が倒されて明治維新が起こると、諸旗本領が合併されて、静岡藩(70万石)が設置された。そして、1869年には、駿府は静岡に改名された。

2020.6.20 日本人のルーツを探る(16)
 今回は愛知県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 愛知県は、律令体制以前は、尾張(木曽川・庄内川地方)、三河(西三河の矢作川地方)、穂(東三河の豊川地方)の3地域に分かれていたが、これが令制国では尾張国と三河国に当たる。
 尾張国は鎌倉幕府の初代将軍であり武家政権の祖である、源頼朝が生まれた地域(名古屋市熱田区)との説がある。また三河国は、室町幕府を開いた足利氏が、初代足利義康正室の出身である藤原南家が開発した岡崎を拠点とし、日本の中世・近世における支配者氏族との関係が濃い地域である。
 戦国時代には、織田信長と信長の臣下で同盟者である豊臣秀吉、徳川家康など三英傑をはじめ多くの武将を輩出し、中央政局に大きな影響を及ぼした。全国の大名の約7割が愛知県(尾張・三河)出身とも言われている。大名家だけでなく家臣団や一部庶民も封地へ移り住んでおり、近世日本の大部分は三河武士や尾張出身武士団の支配を受けた形となっていた。
 江戸時代以降、尾張は徳川御三家のひとつである尾張徳川家の領域となり、三河は譜代大名領、旗本領、寺社領、天領と分割支配された。
 明治4(1871)年の廃藩置県の後、12県(名古屋県・西尾県・岡崎県・豊橋県など)が置かれ、同年11月に尾張(知多郡を除く)は名古屋県に、三河と尾張の知多郡は額田県となり、明治5(1872)年4月に名古屋県は愛知県と改められ、同年11月27日に額田県を廃して愛知県の管轄に移し、永く続いた尾張国、三河国は愛知県として統合された。
 「あいち」の地名は、万葉集巻三の高市黒人の歌「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」に詠まれている、「年魚市潟(あゆちがた)」の「あゆち」が「あいち」に転じたと言われている。
 廃藩置県後、県庁が愛知郡の名古屋城内に置かれたところから県名に採用された。
 全国的には愛知県=名古屋という印象が強いが、愛知県でも尾張と三河では歴史的背景や風土が異なり、愛知県民にとって名古屋といえば普通は尾張の名古屋市(終わり名古屋)のみを指し、。岡崎市や豊橋市、蒲郡市、豊川市など歴史的な三河地方の都市は名古屋とは一線を画すと言う気質がある。

2020.6.23 日本人のルーツを探る(17)
 今回は三重県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 古代に遡ってみると、神武東征により度会郡に侵攻した天日別命(あめのひわけのみこと)は、現地の支配者であった伊勢津彦神( いせつひこのかみ)を東国へ追いやり、同朝には天日別命が伊勢国造(鈴鹿郡)に任命された。4世紀には本格的に大和王権の支配下に入り、成務朝には島津国造が志摩郡に設置された他、時期不明ながら飯高県造が飯高郡に、壱師県造が一志郡に、佐奈県造が多気郡に、度逢県造が度会郡に、安野県造が安濃郡に、川俣県造が鈴鹿郡に設置された。
 672年、古代最大の内乱である壬申の乱が起こった。この内乱は律令国家形成の主導権を巡る争いであり、三重県域に属する伊勢と伊賀は巻き込まれ、重要な役割を果たした。
 平安時代末期の源平合戦の時代には平清盛などの家系の伊勢平氏の根拠地となった。伊勢国は平氏の勢力拡大のための豊富な土地であった。平家滅亡後は伊勢神宮領・奈良の寺社領・貴族の荘園に細かく分割された。伊勢平氏の伊勢氏・関氏と源平合戦の恩賞で源氏方の武士が北勢や中勢など伊勢国に移住してきた。南北朝時代に南朝から北畠氏が伊勢国氏に任命され、北畠親房は後醍醐天皇の信任も篤く、神宮禰宜らの支援をとりつけ、多気城(津市)を居城に勢力を拡大した。
 南北朝の争乱が収まると、伊勢国は北半分は土岐・仁木氏が守護となり、南半分は北畠氏が守護として領地した。伊勢神宮の禰宜家も大きな勢力を持ち続けた。
 戦国時代になると、伊勢国はほぼ三分されて抗争が続くことになる。南部は変わらず北畠氏が中心だったが、中部は藤原南家工藤氏流の長野氏と桓武平氏とされる関氏が中心となった。志摩国は伊勢神宮の御厨で占められ、伊勢の一部とみなされていた。海岸近くまで山が迫り、海上交通が発達したことから土豪は水軍として成長した。 その中から藤原氏流という九鬼氏が登場して北畠氏に仕え、織田・豊臣氏の水軍として活躍していた。
 織田信長は安土桃山時代に北勢四十八家の領地だった北伊勢地域を次男の織田信雄に統治させた。また、信長は願証寺の信者である長島一向一揆との戦いや天正伊賀の乱で信長に反抗する伊賀・伊勢の豪族や一向宗を信じる北勢地域の農民を大量殺戮した。その後、徳川家康の伊賀越えで協力した伊賀忍者を徳川氏が登用して江戸時代に活躍することになる。
 県名は、明治5年から7年に県庁所在地のあった四日市の郡名「三重郡」に由来する。 ... その他、『古事記』に日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地に着いた際、足が三重に曲がるほど疲れたことから名付けたという伝説がある。
 明治5年3月に安濃津県の県庁所在地が津から三重郡四日市に移されたとき、郡の名前を取ってそれまでの「安濃津県」から「三重県」に改称され、以来『三重県』というようになった。

2020.6.26 日本人のルーツを探る(18)
 今回は滋賀県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 国造が分立した時代には、滋賀県は淡海国造と安国造(やすこくぞう)の領域であった。都に近いために早い時期から開発が進められ、多くの渡来人が入植した。飛鳥時代には近江大津宮、奈良時代には紫香楽宮(しがらきのみや)や保良宮(ほらのみや)が置かれた。壬申の乱や藤原仲麻呂の乱といった戦乱の舞台となることも度々あった。
 令制国の近江国に当たる。古くは「淡海(あはうみ)」と呼ばれていたが京に近いことから「近江」の字があてられた。 ちなみに海とは琵琶湖を指す。近江出身の僧最澄は比叡山に延暦寺を開創した。延暦寺は数々の名僧を輩出し、現代に続く日本の仏教文化を大きく発展させた。
 平安中期より佐々木氏が近江に起こった。佐々木氏は源頼朝が関東地方で勃興するとこれに積極的に加わり、近江一国の守護職を得、南北朝期にはばさら大名で有名な佐々木道誉(高氏)が出て京極家の勢威を伸ばした。
 戦国時代に入ると、北部に浅井氏が台頭する。後に将軍の信長包囲網に加わって信長に抵抗、小谷城の戦いによって1573年(天正元年)に滅んだ。
 近江国を支配圏に入れた信長は、根拠地として近江盆地に安土城を築城する。信長の死後は畿内を地盤とする羽柴秀吉と、越前国北の庄を地盤とする柴田勝家の係争地となり、北部で行われた賤ヶ岳の戦いにおける秀吉の勝利で決着が着けられた。
 その他、近江からは蒲生氏郷・藤堂高虎・大谷吉継など数々の名武将を輩出した。戦国時代から江戸時代にかけての甲賀郡では甲賀流忍者が活動していた。
 近世になると徳川家康は、徳川氏における精鋭軍を率いる井伊氏を関ヶ原に近い彦根に入封させて西国の抑えとし、北部の大部分は彦根藩の領土となった。
 文化面において特筆すべきは、江戸初期の人物で近江聖人とも称された儒教学者中江藤樹が活躍し、日本の陽明学を発展させた。松尾芭蕉(義仲寺に眠る)は近江を旧里と呼ぶほど好んで訪れ俳諧を高めたとともに、近江蕉門と呼ばれる数多くの門人を輩出した。
 明治維新により幕府領・旗本領に大津県が設置された後、廃藩置県によって各藩は各県に移行し、1871年11月22日、新たな大津県(滋賀郡・蒲生郡以南)と長浜県(高島郡・神崎郡以北)に統合された。翌1872年9月28日に両県が合併し、近江国、並びに現在と領域を同じくする新たな滋賀県が成立した。
 県名は「滋賀郡」に由来し、古くは「志賀」と表記された例も見られる。地名の由来には、「シカ(石処)」の意味で「石の多い所」といったとする説と、「スカ(砂処、州処」の転じたものとする説がある。

2020.6.29 日本人のルーツを探る(19)
 今回は京都府の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 京都は、桓武天皇が784年の長岡京に続いて、794年の平安京遷都した。平安京は中国の風水に適う地(「四神相応の地」)として撰地されたとの伝えがあり、南に開け、他の三方を山に囲まれ、東に鴨川が、西には桂川が蛇行しながら南へと流れている。以来明治維新まで、皇室の御所があった場所となる。
 京都の地は令制国の山城国の全域、丹波国の東半分、丹後国の全域に相当する。
 山城国は有力公家や社寺の領地が多く、大きな武士団が形成されることはなかったが、 室町時代になると南山城の国人衆が結束し山城国一揆がつくられた。
 丹波国は京に近いうえ、山陰道からの入口に位置することから、都の政局に巻き込まれやすく、 とくに丹波国亀岡は足利尊氏(六波羅探題攻め)と明智光秀(本能寺の変)が挙兵した時代変革の舞台として知られてる。
 平安時代になると律令制の形骸化にともなって次第に本来の領域にとらわれない、鴨川と大内裏・御所を中心とする都市になり、経済的に発展していった。
 鎌倉時代になっても京都の朝廷は政治機能を発揮していたが、東国支配を強めていた鎌倉幕府に1185年守護・地頭の設置を認め、全国支配を強めたため、京都は相対的に経済都市としての性格を強めることになった。鎌倉時代末期に足利尊氏が六波羅探題を滅ぼし、幕府滅亡後には京で後醍醐天皇による建武の新政が行われた。その後新政から離反した尊氏が北朝を立て、南北朝時代となると、京都争奪戦が何度も行われ、いずれも短期間で足利軍に撃退されることになる。
 南朝が衰微して室町時代になると京には室町幕府が置かれたために政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、町衆と呼ばれる有力市民による自治の伝統が生まれた。
 戦国時代の端緒となる応仁の乱で市街、特に北側の大半が焼失し、荒廃。その後もたびたび戦乱に巻き込まれた。
 この後、織田信長、豊臣秀吉の保護と町衆の力により復興した。特に、秀吉の都市改造は大規模なもので、聚楽第と武家町の建設、内裏の修理と公家町の建設、御土居の構築、洛中に散在していた寺をあつめた寺町などの建設を行った。
 江戸幕府が誕生すると政治の中枢は徐々に伏見から江戸に移ったものの、こうした政都の移動にも関わらず京都は国都であることに変わりはなく、徳川政権は、幕府の京都の拠点として二条城を築き、京都所司代・京都町奉行を設置して直轄下に置いた。
 1867年11月9日の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在することになり、政府も移動された。これ以降から現在まで日本の首都は東京と認識されている。