saji2017pre


2020.7.2 日本人のルーツを探る(20)
 今回は大阪府の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 地域別に見ると令制国の摂津国東部7郡、河内国と和泉国の全域に相当する。
 大伴氏や物部氏が本拠を置いた場所であり、古代から港湾都市であり国内流通の中心で、現在の大阪府の土地には多くの天皇のもと宮殿、都城、宮や都などが置かれた。
 乙巳の変(大化元年〈645年〉)後には孝徳天皇が遷都、難波長柄豊碕宮(前期難波宮/大阪市中央区)が造営され、以後、日本という国号の使用と共に元号の使用が始まったとされる。
 平安中期になって、清和源氏一流の河内源氏が有力となり、頼信の孫の「八幡太郎」として知られる源義家は坂東武者を従えて武家の棟梁となり、大阪府の南河内は武家の中心地となる。
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、河内に悪党と呼ばれた在地豪族の楠木正成が出て活躍した。正成を初めとする楠木氏は南朝方の有力武将として河内により度々足利尊氏ら北朝と戦ったが、正成は湊川の戦いで、その子正行も四條畷の戦いで戦死するなどし、やがて勢力を弱めた。
 室町時代に入ると河内には畠山氏が、摂津・和泉には細川氏がそれぞれ守護に任ぜられた。応仁の乱後、戦国時代に入ると、畠山氏・細川氏共に家督を巡る争いから混乱を極めた。この時期、堺 (堺市) は会合衆と呼ばれる富裕な町衆を中心に自治都市を形成しており、それまでの兵庫湊に代わり日明貿易の中継港として隆盛、茶の湯などの文化を育てている。町衆による自治都市として栄えた。
 その後台頭してきた織田信長に屈服した。この地域における勢力を拡大する信長に対して浄土真宗の宗主であった顕如は全国の信徒に蜂起を呼びかけ、また自らも石山本願寺に篭って織田勢と対決した。この石山合戦は10年にも及ぶが、最終的には天正8年(1580年)に本願寺を明け渡すことで終結を迎えた。 
 江戸時代に入ると大坂は全国の経済・商業の一大中心地として再び繁栄し、「天下の台所」と称された。全国からの航路が集まる大坂には、諸藩の蔵屋敷が立ち並び、また諸国からの物産の集積地でもあったためそれらを扱う淀屋など大商人も登場した。上方文化の中心は次第に京から大坂へと移り、浮世絵草子の井原西鶴や劇作家の近松門左衛門といった文筆家、上田秋成・富永仲基らなど後世の歴史に名を残す多数の優秀な学者を輩出した。大阪で創立された適塾(蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾) は西洋科学と薬学を学ぶための学校であったが、適塾出身の学生たちのなかには、開国に貢献し日本政府を改革していくメンバー(福沢諭吉など)も含まれていた。後の阪大である。
 慶応4年/明治元年1月22日(1868年2月15日)に明治政府は太政官布告により大阪府が設置される。

2020.7.6 日本人のルーツを探る(21)
 今回は兵庫県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の但馬国・播磨国・淡路国の全域と、摂津国の有馬郡・川辺郡・武庫郡・菟原郡・八部郡、丹波国の多紀郡・氷上郡に相当する。畿内・山陰・山陽・南海の四道にまたがり面積は広い。
 但馬国は古くは日下部氏一族が広がり、武士団を形成していた。次いで、清和源氏新田氏族の山名氏一族が勢力を拡大させ、山名時氏の代には11ヵ国の守護職を獲得し「六分一所殿」と呼ばれ、強大な権力基盤を築き上げた。この山名氏も山名持豊を西軍大将に東軍細川勝元方と争った「応仁の乱」により、 次第に勢力を減退させ、天正年間秀吉軍によって滅ぼされた。
 播磨国では村上源氏とされる赤松氏一族が勢力を拡大していったが、赤松満祐が将軍足利義教を謀殺として、嘉吉元年(1441)追討を受けて惣領家は滅亡してしまう。
 丹波国では、守護細川氏の守護代内藤氏が多紀郡を中心に勢力を拡大させるが、細川氏の衰退とともに内藤氏が勢力を失うと、多紀郡八上城の波多野氏が勢力を増し、丹波国諸豪族をまとめる位置についた。摂津国では清和源氏源満仲が川辺郡多田庄を領し、この系統を摂津源氏という。
  摂津国池田城主である摂津池田家の家臣「荒木村重」は元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて信長の家臣となる。天正元年(1573年)信長が足利義昭を攻めた時にも信長配下として若江城の戦いで功を挙げた。一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となった(下克上)。天正2年(1574年)11月15日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。天正6年(1578年)11月、「有岡城の戦い」で突然主君「織田信長」に謀反をおこし、そこで「花隈城の戦い」となったが「織田信長」軍の武将で「池田恒興(信輝)・輝政」父子の活躍により花隈城も落城した。池田親子はその功により、信長より兵庫の地を与えられた。天正9年(1581年)に兵庫城を築いた。
 しかし豊臣秀吉の代になると、兵庫城下は「豊臣秀吉」の直轄地となり「片桐且元」が、代官として入城し、呼称も兵庫城から片桐陣屋と称されるようになった。 
 県名の由来に関しては、兵庫ノ津が、かつての都であった奈良や京都と日本国内の東西航路や大陸との交易の拠点として古くから栄えており、その歴史は、大輪田泊と呼ばれた兵庫港に始まる。元和元年(1615年)大坂城落城後は尼崎藩に組み込まれ、兵庫城跡には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれ、尼崎兵庫津一帯を統治した。
 明和6年(1769年)の上知令により、兵庫津一帯は天領となり、兵庫城跡の陣屋が勤番所に改築された。現在の神戸市兵庫区にあった兵庫城に役所が置かれたことに「兵庫県」の名称の由来があるとされている。

2020.7.9 日本人のルーツを探る(22)
 今回は奈良県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の大和国に相当する。紀元3世紀から4世紀頃の古墳時代前期に、畿内の豪族が力を強めて周辺地域に覇を唱えた。その後長い年月と代替わりを経て、他地域との交流・攻防や大陸との交流の末、現在の日本地域の大半を支配する大勢力となった。これがヤマト王権と呼ばれている。ヤマト王権は現在の天皇家の祖であるとされ、宮内庁比定の天皇陵などが集まっている。天皇陵に比定される古墳群が示すように、古くから日本の中心勢力が覇を唱えた地域として知られる。
 ヤマト王権成立以来8世紀末まで、この地域に大和朝廷の累代の天皇の宮があり、都が置かれた。大和時代から飛鳥時代にかけては、橿原市や高市郡に宮が置かれていることが多かった(飛鳥京跡)。特に藤原京は、持統天皇4年(690年)に着工され、持統天皇8年(694年)に完成した条坊制による中国風都城として知られる。その後、和銅3年(710年)に平城京遷都が行われた(奈良時代の始まり)。平城京から長岡京への遷都の一因ともなった影響力を持った寺社勢力は、遷都後もそれらはこの地域に残り、その後地域の耕作者を支配下において大きな勢力となった。
 平安時代後期は、清和源氏の源満仲の次男の源頼親(兄・源頼光/摂津源氏。弟・源頼信/河内源氏)の大和源氏の本拠地となった。しかし、奈良時代に建立された藤原氏氏寺の興福寺・東大寺など南都寺院が大きな勢力を持ったため、鎌倉・室町の武家政権は大和に定まった守護を置けなかった。
 16世紀末に戌亥脇党の筒井順慶が織田信長の力を背景に大和を概ね制する。また、一向宗の布教拠点として今井町が環濠城塞都市化して信長軍と闘ったが、武装放棄されたものの検断権を許され商工業を盛んにし自治都市として発展した。
 豊臣秀吉の時代、順慶亡き後筒井氏は伊賀国に転出し、代わって郡山城に大納言豊臣秀長が拠を構え、地域の再編と産業奨励に乗り出し大和は安定した。
 江戸時代は奈良(奈良奉行)・五條(五條代官)・今井(惣年寄)を幕府が直轄支配した。実質はあまりに広域のため十津川村の十津川郷士などをはじめ各地域(郷村)による自治を行った。
 慶応4年/明治元年1月21日(1868年2月14日)、新政府は添上郡奈良に大和鎮台を設置。大和鎮撫総督府を経て、同年5月19日(7月8日)に奈良県(第1次)、7月29日(9月15日)に奈良府となり、大和国一円の幕府領、旗本領、寺社領を管轄した。明治2年7月17日(1869年8月24日)奈良県に改称された。

2020.7.12 日本人のルーツを探る(23)
 今回は和歌山県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の紀伊国に相当する。古くは木国と呼ばれていた。雨が多い森林地帯であることから命名されたという説がある。名草・海部・那賀・伊都・有田・日高・牟婁(むろ)の7郡で構成される。
 平安時代後期に熊野三山(熊野本宮・熊野新宮・熊野那智)への信仰が盛んになると、上皇の熊野御幸が頻繁に行われるになり(後白河院は34回)、これに伴い在地勢力として熊野別当家が成立、熊野街道も次第に整備され「熊野詣」が流行するようになった。熊野信仰は民衆の間にも広まり、「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに盛況になっていった。
 この熊野信仰へ伝播の過程で名前の鈴木氏は全国に広がったという説がある。その他、空海の高野山金剛峯寺・真言宗紀三井寺・真言宗根来寺など大寺が建てられ、大きな勢力を持つに至った。
 当県には数々の有名な世界遺産や遺跡がある。『熊野古道』はそのひとつ。その歴史は平安時代にまでさかのぼり、皇族から庶民まで幅広い身分の人が熊野古道を行き来していたという。熊野古道は、和歌山県紀伊半島にある熊野三山を目指す道であり、世界遺産に登録されている。道が世界遺産登録されるのは、世界的にも珍しいこと。道中では樹齢800年を超える大樹のほか、江戸時代から存在する石畳を見られることも醍醐味がある。
 南北朝の合一後は畠山氏が守護職にあったが、僧兵を持つ寺社勢力の根来衆や地侍(国人)集団の雑賀衆など支配力を強め、強力な戦国大名が登場できなかった。
 元亀元年(1570)石山合戦が起こると、雑賀衆は本願寺方に付き、小牧長久手の合戦では反秀吉として戦う。 天正13年(1585)3月秀吉は紀伊国へ侵攻し、雑賀衆と根来衆は掃討され、紀伊国の戦国時代は終焉を迎えた。
 江戸時代の初期には浅野氏、のちに御三家の紀州徳川家の紀州藩が置かれる。
 元和5年(1619)家康の十男・徳川頼宣が紀伊国に入封すると、同国田辺に所領3万8千石を与えられ、幕末まで存続した。
 和歌山は『紀伊国』とも呼ばれていたが、その由来は"木の神様が棲む国"を意味する『木の国』であったと伝えられている。
 和歌山には「和歌の浦」という景勝地があり、ここは、古くから知られていた景勝地で、すでに奈良時代の万葉集に「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」という山部赤人作の有名な歌が収録されてる。この歌の通り「若の浦」と呼ばれた場所だったが、時代は下って1585年に羽柴秀吉の命を受けた羽柴秀長が城の築城を行った。その時、古代からの名勝地「和歌浦」から、秀吉が「和歌山城」と命名したのが、和歌山の由来となった。

2020.7.16 日本人のルーツを探る(24)
 今回は鳥取県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の因幡国と伯耆国にあたり、 因幡国の国府は鳥取市国府町中郷付近、伯耆国の国府は倉吉市国府(こう)付近と推定されている。
 戦国期以前の鳥取県は、室町時代の因幡・伯耆国は山名時氏が守護職を補任されて以降、代々山名氏一族が守護職を務めた。
 守護山名氏は清和源氏新田氏流で、鎌倉幕府の倒幕、室町幕府の創業に貢献するが、南北朝の内乱や守護大名間の抗争に乗じて勢力を拡大させ、山陰地方随一の勢力を築き上げる。
 将軍権力強化を目指す将軍足利義満は有力守護大名の弱体化を画策します。その標的になったのが山名氏一族だった。 義満は山名氏の内紛を利用し、一族を対立分裂させ、さらに謀反を起こさせ(「明徳の乱」)、11か国の守護領国を誇った山名氏は僅か但馬国(山名時熙)・因幡国(山名氏家)・伯耆国(山名氏之)の3か国に減らされた。
 しかし赤松氏謀反の鎮圧に貢献すると(「嘉吉の乱」)、再び勢力を盛り返す。山名宗全(持豊)は細川勝元とともに幕政の中心に立ったが、 両者は次第に対立すようになる。
 「応仁の乱」により戦国乱世の時代が幕をあけると山名氏は一族の内紛と周辺の諸勢力の圧迫により次第に弱体化した。
 一方、伯耆山名氏も反守護の国人領主南條氏らの勢力に苦しんだ
 室町・戦国時代は山名氏の領国であったが、戦国時代末期には毛利氏と織田氏の係争地となり、羽柴秀吉が鳥取城を攻略。配下の宮部継潤が城代を経て正式に鳥取城主となる。
 伯耆国においては羽柴・毛利氏の和睦により、東部は羽柴氏傘下となった南条元続が、西部は毛利方・吉川氏が所領を安堵された。
 江戸時代になると、因幡国では、関ヶ原の戦いで敗れた西軍方であった宮部長熈、垣屋恒総、木下重堅が改易され、代わって亀井茲矩、池田長吉、山崎家盛の3大名が統治した。その後、元和4年(1618年)、池田光政が鳥取城に入部し、因伯2国からなる鳥取藩が成立した。
 また、伯耆国汗入郡の大山寺(だいせんじ)は僧・豪円の活躍によって慶長15年(1610年)、徳川秀忠より寺領3,000石が認められた。この大山寺領は西伯耆一帯に散在し、18ヵ村が大山寺本坊西楽院の管掌下に置かれた。大山寺は、鳥取藩士とは別の大山侍と呼ばれる武士を登用し、寺領支配に携わらせた。
 鳥取県の語源は『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇に「鳥取造(ととりのみやつこ)」、「鳥取部(ととりべ)」から「鳥取」になったといわれる。

2020.7.19 日本人のルーツを探る(25)
 今回は島根県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の出雲国と石見国そして隠岐国に相当する。 出雲国には「国譲り神話」の神話など日本創生に関する伝説が数々伝えられ、ヤマト王権に匹敵する巨大な勢力を持っていたと考えられている。
 奈良時代に記された『古事記』・『日本書紀』・『風土記』に、出雲を舞台としたスサノオや大国主の神話が語られるなど、朝廷においてもその存在は大きなものであった。また神話にその創建が語られている出雲大社は、代々出雲国造家がその祭祀を司り現在に至っている。
 戦国期以前の島根県は、隠岐に配流となっていた後醍醐天皇が脱出し、建武の新政が始まるが、倒幕に参加した足利尊氏が離反し、南北朝の抗争期になると、出雲国では尊氏に付いた京極氏(佐々木氏)、 足利直義方の山名氏が守護職に補任される。「明徳の乱」で山名氏が没落し、幕府侍所頭人の京極高詮が守護職となると、以降は代々京極氏一族が守護職を務めることになる。
 「応仁の乱」が勃発すると、出雲・隠岐国守護京極氏は東軍細川勝元に味方し、将兵を率いて京へ出陣する。 領国支配は守護代尼子清定が行い、反抗する国人領主を鎮圧し次第に勢力を拡大していった。
 隠岐国では隠岐氏が尼子氏を後ろ盾に、反抗する在地領主を討ち、隠岐統一を成し遂げる。
 天文20年(1551)陶隆房の裏切りにより大内氏が滅亡すると、翌天文21年(1552)尼子晴久は出雲・隠岐など8ヶ国の守護職を補任されます。 ここに尼子氏は最盛期を迎えることになる。
 永禄3年(1560)晴久の跡を尼子義久が継ぐと、毛利氏は出雲国侵攻を本格化させる(永禄5年 第2次月山富田城の戦い)。 大軍に包囲され、兵糧攻めに持ち込まれた月山富田城の尼子義久は永禄9年(1566)11月に降伏、ここに戦国大名尼子氏は滅亡した。
 江戸時代には堀尾吉晴が出雲・隠岐24万石で入封し、松江城を築いた。松江藩はその後京極氏を経て、徳川家康嫡男の流れを汲む結城松平氏の松平直政が入国し、幕末に至った。
 石見には浜田藩と津和野藩が置かれ、浜田藩は古田重治から松井松平氏、本多氏を経て越智松平氏が、津和野藩は坂崎直盛の後に亀井氏がそれぞれ支配した。
 隠岐は松江藩領であったが、一時的に石見銀山の代官の支配下に置かれて幕府直轄領とされていた時期もある。
隠岐では幕末に島民らが松江藩の代官を追放して自治を行っていた時期がある(隠岐騒動)。
 地名の由来は、県成立時の県庁所在地であった郡名「島根郡(現在の松江市)」に由来する。 島根の語源は「しまね(島嶺)」で島状の嶺となっていることからか、「しま」も「ね」も「高くなった所」の意味と考えられる。
 
2020.7.22 日本人のルーツを探る(26)
 今回は岡山県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の備前国・備中国・美作国に相当する。
 古代にはには吉備国といわれ、畿内地域や北九州地域、出雲地域などとともに、日本列島の中心地のひとつとして栄えていた地域である。吉備国は畿内勢力と同盟関係を築いて日本列島の統一期(4世紀中葉)に影響を与えた。優れた鉄製技術を持ち、その支配地域は現在の岡山県・広島県中東部・香川県島嶼部・兵庫県播磨地方に及び加古川を境界とし、さらには四国や芸予諸島にも至っていたと推定されている。
 6世紀前半に大和朝廷への臣従したのち、吉備国は勢力抑圧のために備前国、備中国、備後国の3国に分割され、さらには備前国から美作国が分国された。国府は現在の岡山市(備前国)、総社市(備中国)、津山市(美作国)にそれぞれ置かれた。
 平安時代には備前・備中は受領にとって実入りの多い「上国」のひとつとされており、農業生産力が高かった。またこの時代に各地に荘園が拓かれた。
 鎌倉時代に入ると元来東国を拠点としていた那須氏・松田氏・三村氏・庄氏・赤木氏などの有力御家人が地頭職などを得て移住・土着した(東国から西国に移った鎌倉幕府御家人という意味で西遷御家人と呼ばれる)。
 南北朝時代、後醍醐天皇が隠岐に流される際の通り道になったことで児島高徳など宮方に与同する武士が現れ、隠岐脱出後は最初に拠点を構えた伯耆船上山が近隣であったため多くの武士が宮方として活動した。観応の擾乱で室町幕府が分裂すると山陰に勢力を持つ山名氏が侵攻し、北部美作を中心に山名氏の勢力下に置かれる。しかし、山名氏は明徳の乱で衰退した。かわって乱鎮圧の功績により播磨の豪族赤松氏が播磨・備前・美作3国の守護職に任ぜられた。しかし、戦国時代に守護代であった三石城城主・浦上村宗によって政則の子が殺され赤松氏は衰退の一途を辿る。赤松氏に取って代わり備前を中心に勢力を伸ばしたのが浦上氏であった。 
 このように現在の岡山県域では多数の戦国武将が群雄割拠の様相を呈し、戦国期を通じ、現在の岡山県域を統一する一大勢力はついに出なかった。
 江戸時代の岡山県はというと、備前国は岡山藩池田氏が幕末まで支配し、備中国は幕府領・藩領・旗本領に細分化されることになる。
 県名は県庁所在地の岡山市に由来する。「岡山」とは、もともと現在の岡山城のある場所に存在した小高い丘のことを指して呼んだものであったが、戦国時代に宇喜多秀家が「岡山」に城を築き、その後形成された城下町を含めて岡山と呼ぶようになったことに由来する。

2020.7.26 日本人のルーツを探る(27)
 今回は広島県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 律令制における安芸国と備後国に相当する。
 備後国は筑紫・出雲と並ぶ有力な地域勢力であった吉備国の一部でだった。 中央集権を進める大和政権は武力鎮定し、持統天皇3年(689)備前国・備中国・備後国に分割した。
 南北朝時代の安芸国は、足利方に付いた甲斐源氏の嫡流武田信武、続いてその子武田氏信が守護職となる。兄の武田信成は甲斐守護職となっている。武田氏は北朝尊氏方として南朝方や足利直冬方と戦っている。
 周防の大内義弘は九州制圧、「明徳の乱」の鎮圧などで多くの功績をあげ、さらに李氏朝鮮との貿易で経済基盤を確立し大内氏の最盛期を築き上げた。大内氏に脅威を感じた将軍足利義満は「応永の乱」で大内氏を討伐し、周防長門国の守護職に削減させ、隣国安芸国守護には山陰の名族山名満氏を任じた。
 「応仁の乱」が勃発すると、守護山名持豊(宗全)は総大将として西軍を率い、分郡守護の武田氏は東軍細川方に属し対立する。 そのため国人衆も西軍と東軍に分かれ、抗争を繰り返した。
 永正12年(1515)以降、出雲尼子氏が安芸国・備後国へ侵攻し大内氏と対立する。 備後国人衆の多くは尼子方に属したが、安芸国人衆は大内方と尼子方に分かれ抗争した。
 この頃、頭角を現した吉田郡山城主毛利元就は石見国境の国人高橋氏、備後の国人宮氏、分郡守護の武田氏を滅ぼし、一方で周辺国人と盟約や姻戚関係を結び、安芸国最大の国人領主に成長する。永禄9年(1566)には尼子氏を滅ぼし中国地方に勢力を拡大、さらに北部九州へ進出し織田信長・豊臣秀吉と対峙することになる。
 この難局に元亀2年(1571)元就が死去、毛利家は孫の毛利輝元を当主に、叔父の吉川元春・小早川隆景が補佐する毛利両川体制で乗り越えることになる。
 天下人豊臣秀吉に臣従した毛利輝元は五大老となり、豊臣秀頼の補佐を託され、「関ヶ原合戦」では西軍総大将に担がれることになる。
 県名は県庁所在地である広島市に由来する。その広島の由来は、1589年(天正17年)からの毛利輝元による広島城築城の際に、1591年(天正19年)命名されたものでよる。また他に、デルタのため「広い島」からきたという説もある。

2020.7.29 日本人のルーツを探る(28)
 今回は山口県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 律令制における長門国と周防国に相当する。
 山口県は本州の西の端に位置し、古くから九州と中央とを結ぶ海上交通の要衝だった。早くから中国大陸や朝鮮半島とも交流があり、進んだ文化を受け入れてきた。そうした地政学的位置づけは、日本の歴史を大きく変える転換点の重要な舞台となった。
 また、平安時代、下関市で繰り広げられた源氏と平氏の戦い「壇ノ浦の戦い」は、貴族社会から武家社会への転換点になった。
 南北朝時代の周防国は、周防国府の在庁官人の末裔大内氏が守護職となる。大内氏は百済聖明王の後裔多々良氏族だという。
 南朝方にあった大内弘世は、正平13年(1358)長門国守護厚東氏を滅ぼし、長門国の奪取に成功し周防長門に一大勢力圏を作り上げる。足利尊氏は防長二国の守護職就任を条件に北朝側に引き入れ、大内弘世は室町幕府に帰服する。この頃、本拠地を山口に移している。 以来、周防国長門国は代々大内氏が守護となる
 つぎの大内義弘の代には、将軍足利義満に近侍して、九州制圧や南北朝合一、山名氏の反乱「明徳の乱」の鎮圧などで多くの功績をあげ、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国を領する守護大名に急成長していく。 さらに李氏朝鮮との貿易で経済基盤を確立し大内氏の最盛期を築き上げることになる。
 「応仁の乱」が勃発すると、大内政弘は、西軍山名方に属して奮戦し、山名宗全歿後は事実上の西軍総大将に担がれる。 つぎの大内義興には京を追われた前将軍足利義稙を保護して入京、再び将軍に復帰させ、強大な軍事力を背景に管領代として幕府の影響力を持つことになる。
大内氏の全盛期は重臣陶晴賢(隆房)の謀反によって突然終焉を迎える。 その陶晴賢(隆房)は弘治元年(1555)「厳島の合戦」で毛利元就に敗れ、毛利氏が西国戦国の覇者として登場する。
 天下人となった豊臣秀吉に臣従した毛利輝元は五大老となり、豊臣秀頼の補佐を託され、「関ヶ原合戦」では西軍総大将に担がれることになる。
「関ヶ原の戦い」で敗れた後は萩市へ城を構え、幕末までの260年間、藩政の中心地とした。
 その後、長州藩には藩校明倫館をはじめ各地に多くの私塾や寺子屋ができた。中でも吉田松陰が主宰する松下村塾は、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文といった多くの人材を輩出し、明治維新の原動力となり、近代国家の成立に重要な役割を果たした。
 県名の由来は廃藩置県の際、県庁が置かれた山口町(現・山口市)の町名がそのまま県名に採用された。