2020.8.1 日本人のルーツを探る(29)
今回は徳島県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国では阿波国と呼ばれていた。古代、徳島県北部は粟の産地だったために「粟国(あわのくに)」、南部を「長国(ながのくに)」といったが、 大化の改新の後に「粟国」に統一され、和銅6年に「阿波」に変更された。
南北朝時代の阿波国では、細川氏が阿波国守護となり、勝瑞城(板野郡)を守護所とする。 阿波細川氏は嫡流管領家細川氏に継ぐ名門で、管領家が「上屋形」と敬称されたのに対して「下屋形」と呼ばれた。
守護細川頼春は伊予・備後・日向守護を兼ね、幕府の重鎮として活躍する。 この頃、阿波の南朝方として、一宮城の一宮氏、剣山周辺の三木氏・菅生氏、木屋平など山岳武士、淡路の海賊がいた。
次の細川頼之は幕府管領に加え、七ヵ国の守護となり、大きな権勢を持っていた。
細川義之の代には、佐々木氏と武田氏を守護代に任じている。これ以後も細川氏が代々阿波国守護に任じられる。
戦国時代になると、管領細川氏に変わり阿波細川氏有力被官の三好氏が台頭してくる。そして三好長慶の代になると、将軍足利義輝と管領細川晴元を京から追放する。 しかし権勢を誇った三好氏も天正元年織田信長により滅ぼされる。
天正年間に入ると、阿波は土佐の長宗我部氏の侵攻を受けるようになる。 長宗我部元親は進撃を続け、三好氏方の拠点を征服していく。 形成不利を悟った三好存保は織田信長に援軍を求めたが、阿波は長宗我部氏によって平定される。
四国統一を成し遂げた長宗我部元親だったが、10万の秀吉軍の前に降伏し、阿波国は蜂須賀家政に与えられた。
江戸時代の阿波国は蜂須賀家が治める徳島藩25万石だけだった。藩主蜂須賀家は、尾張国海東郡蜂須賀村(愛知県海部郡美和町蜂須賀)に発祥する清和源氏足利氏流といわれている。藩祖蜂須賀小六正勝が豊臣秀吉に仕えて近世大名に上り詰めていく。
蜂須賀家は淡路島も治め、蜂須賀家の家老稲田家が領知した。 明治維新に蜂須賀家の家臣と稲田家の家臣との間で騒動があり、淡路は兵庫県に編入された。城下町は徳島市にあった。元々、徳島市は名東郡に属する都市だったので、廃藩置県の第一次府県統合「明治4年(1871年)」当時の徳島県は、名東県という名称であった。
この後の1880年(明治13年)3月2日に、旧名東県が高知県から分離されて、現在の徳島県が発足した。
県名の由来は、吉野川河口で川に囲まれた三角州だったことから「島」、それに縁起の良い「徳」が冠されたという伝えがある。
2020.8.4 日本人のルーツを探る(30)
今回は香川県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
香川(かがわ、讃岐、高松)といえば、金刀比羅宮、屋島源平合戦の古戦場、栗林公園、空海(弘法大師)の生まれ故郷、善通寺、満濃池、サヌカイト(讃岐岩、カンカン石)などで知られている。
令制国では讃岐国と呼ばれていた。平安時代初期には真言密教を興した空海が讃岐国那珂郡に生まれるなど畿外の地である割に文化が高かった。平安末期には瀬戸内海水運を握っていた平家が屋島を根拠地の一つとしていたが、源義経の奇襲に敗れて滅んだ。室町時代には細川氏が讃岐に根を張る南朝方を白峰合戦で破ると、讃岐阿波を中心として細川一族が四国を管轄した。
鎌倉幕府が滅亡して「建武の新政」が始まると、足利尊氏の一族細川定禅が讃岐に入り、国人衆を糾合しする。 細川顕氏が讃岐守護に任じられると、以後細川氏が代々守護職に就くことになる。
しかし、細川一族の対決となった「白峰合戦」を制した細川頼之が守護職となると、以降細川氏嫡流(京兆家)の分国となった。
細川氏は管領として在京することが多く、領国支配は守護代の安富氏(東讃)と香川氏(西讃)に任された。
「応仁の乱」以後、幕府の求心力が衰えると、阿波の三好氏が讃岐国へ進出し、次第に安富氏・香川氏ら国人衆は三好氏の支配を受けるようになる。
このように讃岐の国人衆は細川氏によると領国支配とその崩壊の過程で、離合集散を繰り返すことになる。
戦国時代、土佐国を統一した長宗我部氏が三好・織田氏の内乱に乗じて讃岐へ侵攻する、これにより織田信長による四国攻めを招くことになった。豊臣秀吉が四国平定に取りかかると讃岐へは宇喜多秀家を総大将とする豊臣軍が侵攻し、長宗我部元親が秀吉に屈服すると讃岐は仙石秀久に与えられ、その後は尾藤知宣、生駒氏が相次いで封ぜられる。当初は宇多津聖通寺城に拠点が置かれたが、手狭のため高松に新城が築かれ拠点とされた。
江戸時代に入り、生駒氏が生駒騒動によって出羽国へ移されると、水戸徳川家の嫡流である松平頼重が高松に入って東讃高松藩12万石を、京極氏が丸亀に入って西讃丸亀藩5万1千石を領する。途中、京極丸亀藩は支藩として多度津藩1万石を分立させたため、江戸時代の讃岐国には3つの藩が並立することになった。高松藩からは平賀源内が出ている。
県名は県庁所在地の高松市が所属していた郡名に由来する。 郡名は、「香河郡」として奈良時代から見られ、その由来は、「かが川」の転で「かが」は平坦な草地を意味するという説。 古来より雨量が少なく、夏期に水枯れする河川が多かったことから、「かれかわ(枯川)」が転じて「かがわ」になったとする説が有力。
2020.8.7 日本人のルーツを探る(31)
今回は愛媛県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
現在の愛媛県は令制国での伊予国に当たる。
伊予国は東西に長く、北は瀬戸内海、南は山岳部が多く、古くは海岸部近くに聚楽が作られたと考えられている。 国府は現在の今治市にあったといわれている。
室町時代には越智氏流とされる河野氏が守護となり武士団を形成、伊予国中部に勢力を拡大させる。 西部には宇都宮氏・西園寺氏が戦国大名として威勢をはる。
河野氏は源頼朝が挙兵すると源氏方に組みし奥州征伐にも参戦、その功績により伊予惣領職となる。
「建武の新政」では足利尊氏に付いた河野通盛が伊予守護職に任ぜられる。 ところが幕府管領細川頼之が伊予国へ侵攻、武力で守護職を奪い取る。
河野家再興を託された河野通直は南朝方に降り、幕府征討軍を撃破し、細川勢を伊予国より排除する殊に成功する。 その後、伊予国東部の新居郡・宇摩郡の割譲を条件に和睦が成立、河野家再興を成し遂げる。
「応仁の乱」が起こると、守護河野教通は東軍細川勝元に組みし、一方分流の予州家河野通春が西軍に付いたため河野氏の内紛が起こる。 そして有力国人らの反抗、他国の大名の進出によって伊予国は動揺し始める。
天正年間に入ると、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けるようになり、内通した国人層が反乱を起こします。 天正4年(1576)河野氏は長宗我部軍に屈する。
その後、天正13年(1585)の豊臣秀吉よる四国征討が始まり、伊予国は小早川隆景率いる大軍に降伏、平定された。
江戸時代に入ると、徳川家康が関ヶ原の戦いで西軍を破り江戸幕府を開く前、伊予国は織豊大名の加藤嘉明、福島正則、安国寺恵瓊などが伊予を治めていた。戦後の論功行賞で西軍についた恵瓊が領地没収・梟首に処され、東軍についた福島・加藤はそれぞれ備後・安芸49万石(広島藩)と伊予松山に20万石へ加増され、加藤が伊予松山藩を立藩した。伊予松山藩はのちに蒲生氏、久松松平氏と領主が変わり明治維新まで続いた。
伊予松山藩以外では、関ヶ原の戦いで東軍の勝利に尽力した藤堂高虎が今治20万石を加増され今治藩を立藩(のちに藤堂は伊勢・伊賀へ転封)、その後伊予松山藩松平定行の弟・松平定房が3万石を領し今治城へ入城、明治維新まで系譜を存続させた。
「えひめ」の地名は、古くは古事記上巻のイザナギとイザナミによる国生みの段に、「伊豫國謂愛比賣」(伊予国は愛比売と謂ひ)と見える。のちに「愛比売」が「愛媛」へと転化した。全国で唯一の神名をつけた県である。
2020.8.10 日本人のルーツを探る(32)
今回は高知県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国では土佐国と呼ばれていた。
黒潮が流れる太平洋に面して「海」のイメージが強い高知だが、実際は山に囲まれ平地に乏しい。
南北朝時代の土佐国では、足利一門である細川氏が土佐国守護となる。後には室町幕府管領を輩出した細川京兆家が守護を兼ねる国となる。
「応仁の乱」がおこると細川勝元は東軍の中心人物となる。乱の余波は土佐にも及び、安芸・山田・本山・長宗我部・吉良・大平・津野ら諸豪が台頭する一因となる。
永正4年(1507)、管領を勤め細川京兆家の全盛期を築いた細川政元が暗殺される事件が起こる。その後の後継者争い(両細川氏の乱)で管領細川氏の権威は失墜し、これにかわって阿波細川氏有力被官の三好氏が台頭してくる。
永正15年(1508)土佐一条氏の支援により岡豊城に復帰した長宗我部国親は周辺諸豪を滅ぼし、さらに本山氏を敗走させ勢力を拡大していく。
次の長宗我部元親の代には他の土佐六雄を次々服属させていく。
土佐国平定を成し遂げた長宗我部氏は織田信長と同盟を結び、四国制圧にむけて進撃を始める。
天正6年(1578)元親は阿波への入口である白地城を制圧、ここを拠点に讃岐国・阿波国の諸豪を攻めて降伏させ、天正8年には讃岐・阿波を掌握する。伊予国は毛利氏の援助もあり長期化するが、天正13年(1585)には四国制圧をほぼ成功させる。
しかし豊臣秀吉に10万を超える大軍で侵攻され、長宗我部方の諸氏は次々降伏し、元親も家臣の言を受け入れて降伏、土佐国のみを安堵されることになりる。
江戸時代になると。「関ヶ原合戦」で西軍に与した長宗我部盛親が改易となり、土佐一国は外様大名山内氏が治めることになる。
藩祖山内一豊は豊臣秀吉に仕えて近世大名に上り詰めまる。しかし、「関ヶ原合戦」前の小山会議では、諸大名を徳川方に導く発言で徳川方結束の功績を立てる。それにより土佐一国を与えられ近世大名として明治維新を迎えている。
城下町は高知市で、幕末には、坂本龍馬など多くの志士を輩出した。明治維新には板垣退助などが自由民権運動を起こし「自由は土佐の山間より」とうたわれるようになった。
また、中江兆民、幸徳秋水などの思想家、岩崎弥太郎などの実業家、牧野富太郎、寺田寅彦などの学者と、数多くの偉人を輩出している。
県名の由来は、土佐藩初代藩主の山内一豊が築城した河中山城の「河中(こうち)」が、現在の県名である「高知」の由来である。では何故「河中」は「高知」に改称されたのだろうか。そこには水害をなくしたいという願いが込められている。
2020.8.13 日本人のルーツを探る(33)
今回は福岡県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
律令制における筑前国・筑後国の全域と、豊前国の一部に相当する。
中国大陸や朝鮮半島に近いという地理的条件もあり、先進的な文化・技術が入り、活発な交易は多くの富を生み出した。
そのため諸勢力が富を狙い、侵略と争奪の歴史でもあった。
南北朝時代の筑前国は、南朝方の少弐氏や菊池氏が守護職についたが、今川了俊が九州探題となると南朝勢力は衰退し、今川氏解任の後は再び少弐氏が守護職となる。
南隣の筑後国も南朝勢力に支配されたが、九州探題今川了俊により南朝方は衰退、その後は豊後の豪族大友氏が代々守護職に就任する。
福岡県東部をしめる豊前国では今川了俊の後、周防・長門の豪族大内氏が代々守護職に就任する。
そして応永2年(1395)九州探題今川了俊が解任され、戦国期を迎えると福岡県は大きく3つの勢力に分けられます。
主な勢力としては、筑前国には宗像大社の大宮司家である宗像氏(白山城)、糟屋郡の立花氏(立花城)、 筑前国守護の少弐氏、御笠郡の高橋氏(宝満城)・三池氏(三池山城)、怡土郡の原田氏(高祖山城)、夜須郡の秋月氏(古所山城)がある。
筑後国は豊後大友氏の支配力が強く、その幕下で国人領主が連合体をつくっていた。 それらの諸豪を「大身十五家」あるいは「筑後十五城」という。
豊前国も周防・長門の豪族大内氏の支配力が強くて、強大な勢力は生まれていない。麻生総理の先祖である麻生氏(花尾城)、北九州市の門司氏(門司城)・香月氏(畑城)・貫氏(貫城)・長野氏(長野城)、下野国宇都宮氏の分流である城井氏(城井城 豊前宇都宮氏ともいう)があった。
江戸時代には、県北西部の筑前国を福岡藩が、北九州の豊前国を小倉藩が、そして南部の筑後国を久留米藩が主に治めていた。
博多織や小倉織に代表される工芸品が盛んで多くの街道や港、水運が発達したことで、九州の交通において重要な地点となった。
明治時代には、福岡県の北部では鉄鋼や機械、電気、化学、窯業を中心とした北九州工業地帯が、南部では重化学コンビナートが形成される。
地名「福岡」は、かつて筑前国域を治めていた黒田氏が築城した福岡城(福岡城の由来は黒田氏ゆかりの備前福岡(岡山県瀬戸内市)に因むという説が有名だが、ゆかりの地としては関係が希薄なため、福崎の丘陵地に築城したため福岡城としたという説もある)と言われている。
2020.8.16 日本人のルーツを探る(34)
今回は佐賀県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
律令制における肥前国の東部に相当する。明治の府県制成立で佐賀県と長崎県に分立した。
戦国期以前、南北朝時代の肥前国は南北朝期前半は幕府方の九州探題、南朝方の征西将軍宮、足利直冬の三勢力が鼎立する混乱期だった。 その後、北朝に帰順した少弐氏が守護職に就いたが、今川了俊が九州探題となると肥前国守護職を兼務し、 南朝勢力は衰退し、今川氏解任の後は九州探題となった渋川氏が守護職となる。
筑前少弐氏に敗れた渋川氏が衰退すると、周防・長門の豪族大内氏の勢力が進出してくる。 「応仁の乱」に乗じて、筑前少弐氏が肥前国東部へ勢力を広げるが、大内氏に敗れて減退する。
大内氏は肥前守護代に千葉氏を任じ、肥前国を掌握する。
戦国時代になると、少弐氏の被官であった国人領主龍造寺氏が台頭してくる。
享禄3年(1530)水ケ江城主龍造寺家兼が周防大内勢を敗走させたことで戦国大名への野心を持ち始める。 しかし少弐氏重臣馬場氏らの謀略により一族郎党の多くを殺害され、龍造寺氏は壊滅状態となる。
ところが恩義ある蒲池氏を攻め滅ぼしたことで筑後国人衆が離反し、天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で島津氏に大敗し龍造寺氏は衰退する。
龍造寺政家の後見人であった鍋島直茂は豊臣秀吉に接近し、九州征伐に参陣する。 その活躍を評価された鍋島直茂は政家に代わって国政を担うよう命じられ、鍋島氏が実権を握ることとなる。
江戸時代の佐賀県には佐賀藩と唐津藩の2藩が置かれた。佐賀藩には蓮池藩・鹿島藩・小城藩の支藩があった。 その他、対馬府中藩(厳原藩)の飛び地や幕府領があった。 佐賀藩は肥前国の戦国大名龍造寺氏の家臣だったが、龍造寺氏の衰退後に鍋島直茂が継承して成立した藩で、戦国期以来の領主が明治維新まで続くという稀有な藩の一つだ。
それとは対照的に唐津藩は藩主が5度もかわり、長期的な藩政が行われなかった藩だった。
現在の佐賀県が成立するまで、明治初期には統廃合が繰り返され、1876年(明治9年)には全県が他県に併合される事態も起きた。全県併合の背景には、1874年の佐賀の乱への処分の意味があったと言われている。併合後の根強い復県運動によって、7年後の1883年(明治16年)に佐賀県が復活する。
県名の由来には諸説あるが、筆頭に挙げられているものを紹介する。
郡の中心部に大きなクスノキが茂っているのを見た日本武尊(ヤマトタケレノミコト)が、「この国は栄の国(さかのくに)と呼ぶがよい」と言ったという『肥前国風土記』の記述に由来し、「サカ(栄)」が転じて「サカ」になったとする説。
2020.8.19 日本人のルーツを探る(35)
今回は長崎県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
律令制における肥前国の西部と、対馬国、壱岐国に相当する。
古代より朝鮮半島の入り口にあたり、先進的な文化・技術が入る一方で、大陸・半島からの侵攻に備えた防衛線でもあった。
鎌倉時代の対馬国守護は筑前国守護を兼帯する武藤氏(少弐氏)で、その地頭代として宗氏がいた。
鎌倉時代の壱岐国守護は対馬国と同じく武藤氏(少弐氏)が補任され、南北朝期には宗像大社の大宮司宗像氏俊が壱岐国守護となった。宗氏は朝鮮半島との交易を認められ、積極的に半島との通交を行った。 しかし対馬は、半島や中国大陸の沿岸地域で海賊行為を行っていた倭寇の拠点とみなされ、 応永26年(1419)には倭寇討伐を目指す李氏朝鮮によって攻撃を受けている。(「応永の外寇」)
李氏朝鮮との関係修復に努めた宗貞盛は、貿易協定締結に成功し、李氏朝鮮との貿易を独占していくことになる。
ところが朝鮮貿易の利益を手に入れたい大内氏が敵対するようになり、主筋の少弐氏と共に戦った。 しかしその戦いで宗氏は敗れ、筑前国の領地を失っている。文明4年(1472)上松浦党の首領波多泰が壱岐へ侵攻する。 佐志氏ら壱岐の諸氏は波多氏に対抗したが敗れ、波多氏は壱岐守護を自称し壱岐国を制圧した。
室町時代に入り、1419年には応永の外寇、1507年には五島で玉之浦納の反乱が起こっている。
1550年には、ポルトガル船が平戸に来航した。これを知ったフランシスコ・ザビエルは鹿児島を出発し平戸を訪れ、布教を開始した。数多の争いの後、大村純忠はキリスト教の洗礼を受け、初のキリシタン大名となっている。大村純忠の兄である有馬義貞も口之津で洗礼を受けている。
大村純忠は、ポルトガル貿易を自分の領地で行えるよう働きかけを行い、1571年に貿易港が口之津から長崎に移された。長崎は鎖国下の日本では数少ない国際貿易港となった。
17世紀にはいるとオランダ東インド会社、イギリス東インド会社が相継いで平戸に商館を開設している。今の長崎県域には、鎖国時にも幕府公認で海外へ開かれていた港が2箇所存在した。なお、鎖国下における江戸幕府公認の国際貿易港は上記2港のみである。
豊臣秀吉の九州征伐後、壱岐国は松浦氏領と確定し、明治維新を迎えている。
長崎の地名は、鎌倉時代に「永崎浦」の形で見られる。地名の由来はこの地を統治した長崎氏の姓にちなみ名付けられたとする説がある。
2020.8.22 日本人のルーツを探る(36)
今回は熊本県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国の肥後国にあたる。もとは肥前国と合わせて火国(肥国、ひのくに)と呼ばれ、噴火を繰り返す阿蘇山に由来するといわれてる。肥後国の国府は熊本市国府付近と推定されている。肥後国は生産力が高い豊かな土地で、地理的にも重要と判断されたため、律令体制下では大国の一つとされた。
中世には、阿蘇神社の神威を利用して勢力を拡大した多氏後裔の阿蘇氏、遠江国から地頭として下り球磨郡に土着した相良氏、大宰府の府官であった菊池氏といった豪族が勢力を伸ばした。
戦国時代に至って、相良氏は名和氏を追い肥後国南部を支配するが、北部では菊池氏や阿蘇氏の家中はしばしば乱れ、豊後守護の大友氏の介入を招くなどしたため、有力な戦国大名が現れず、国人が割拠する状態が続いた。
戦国時代後期になると、肥後国をめぐって豊後大友氏と薩摩島津氏が対立するようになる。 大友義鎮は城氏・小代氏らを引き入れ、肥後国中北部を征圧名族菊地氏はここに滅びる。
国境を島津氏と接する相良氏は天正9年(1581)島津勢の猛攻ついに降伏、肥後国南部を制圧した島津軍は肥後国北中部の阿蘇氏領へ進出する。
肥後国の制圧を成し遂げ九州制覇を目前にした島津氏だったが、豊臣秀吉率いる10万の大軍勢の前に九州の国人衆は次々と降伏し、島津義久は剃髪して秀吉に降伏。ここに九州の戦国時代は終焉した。
豊臣秀吉の九州征伐により佐々成政が肥後の国主を命じられるが、太閤検地に反対する国人たちによる一揆が起こった。秀吉は一揆に参加した国人たちを徹底的に弾圧し、その勢力は一掃された。
その後、秀吉は北半分を加藤清正、南半分を小西行長に分け与え、球磨郡においては相良氏の支配を認めた。
小西行長が関ヶ原の戦いで敗れ滅亡すると、加藤清正がその領地を併せ52万石の領主となった。清正は名城熊本城を築き、また河川・水路を改修して耕地を広げ生産力の向上に努めたため治水の名人として崇められた。
明治4年(1871年)、肥後国には熊本県と八代県が設置された、熊本県はその後白川県と改められ、1873年(明治6年)、白川県と八代県が合併して白川県となった。1876年(明治9年)、再び熊本県に改名され、現在の熊本県が誕生した。
県名は、県庁所在地の名称に由来する。この地名は南北朝時代に「隈本」として見られ、慶長12年(1907年)、加藤清正が築城した際に「熊本」と改められた。
改められた理由は、「隈」の字に含まれる「畏」の字に「おそれる」「かしこまる」といった意味があるため、城名として強そうな「熊」の字が当てられたといわれる。
2020.8.26 日本人のルーツを探る(37)
今回は大分県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
律令制における豊後国の全域と、豊前国の宇佐郡・下毛郡に相当する。
南北朝時代から戦国期の豊後国には、北部九州に勢力を築いた守護大友氏の発展と衰亡に大きく影響される。
大友氏の豊後入国は、蒙古襲来に備えるため下向した3代大友頼泰からとされている。 足利尊氏が建武政権と対立すると、7代大友氏泰は尊氏を支持し、その功績により肥前・豊前・日向の守護に任じられている。
応仁の乱がおこると、大友氏は東軍、周防・長門の豪族大内氏は西軍に味方し、対立関係になる。
この頃になると大友氏内部の綻びが大きくなってくる。 16代大友政親と、守護職を継承した17代大友義右が不和となり、この隙を狙って大内義興が侵攻している。
大友氏存亡の危機に、政親の異母弟・大友親治が立ち上がり、家中の混乱を収拾し、嫡男大友義長に大友家当主を相続させ、 幕府管領細川政元や将軍足利義澄と通じて、大内勢を破り、大友氏の戦国大名化への土台を築きあげている。
しかし、家督相続をめぐり家中が対立し、義鎮派は重臣の津久見氏・田口氏によって命を落とす。
そして家督を継いだのが、キリシタン大名として知られる第21代大友義鎮(大友宗麟)である。 有能な家臣団を掌握できた大友氏は飛躍的に勢力を拡大する。
一方で、しかし弘治元年(1555)陶氏を撃破した毛利元就が台頭し、天正年間になると九州制覇を目指す島津氏が北進、天正6年(1578)「耳川の合戦」で大敗を喫し、大友氏は衰退に向かうことになる。
大友氏に援軍を求められた豊臣秀吉はこれを好機と天正15年(1587)大軍を九州へ差し向ける。島津氏が軍門に下り、豊後国は大友氏に安堵され、豊臣大名に列せられることになる。 ところが22代大友義統は朝鮮出兵での失策により改易、鎌倉期以来の名族大友氏は豊後から消えることとなった。
江戸時代、当県にあたる地域には九州の幕府領を管轄する西国筋郡代の代官所が置かれ、各地には肥後、延岡、島原藩の飛び領も点在した。このため、大きな都市は形成されなかったものの、代わりに各地に特色ある文化が生まれた。
現在の大分県の県名は、『豊後国風土記』では、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と感嘆して名づけ、これが後に「大分」と書かれたとされる。しかし大分平野は広大とは言えないため、実際には狭く入り組んだ地形に多くの田が造られている様子を形容した「多き田」が転じて「大分」になったとする説が近年の定説である。
2020.8.29 日本人のルーツを探る(38)
今回は宮崎県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
古代律令国家の「日向国」は西暦684年から696年までの間に成立したものと考えられている。その日向国から702年には薩摩国が独立し、さらに713年4月3日には大隅国が分立している。このとき南の一部を除いて今の宮崎県域にほぼ近い国域が確定した。
『古事記』に「竺紫(つくし)の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき」とあり、天照大神の孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が降り立った国(天孫降臨神話)。この神の孫である山幸彦と海幸彦の争い(山幸彦と海幸彦神話)、さらに、山幸彦の孫であるカムヤマトイワレヒコが、東征して大和橿原宮にて、天皇に即位し初代天皇神武天皇となった(神武東征神話)等の神話(日向神話)がある。
鎌倉時代の日向国は、北東部地域(延岡市辺り)を土持氏、西部の山間地域(高千穂町辺り)を大神氏流三田井氏が勢力を持ち、 中部地域には鎌倉御家人伊東氏が入って次第に基盤をつくり、南部地域には日向・大隅・薩摩にまたがる日本一広大な荘園・島津荘に地頭職を得た島津氏が根を張ることになる。
南北朝時代になると、北朝方足利尊氏は一門の畠山直顕が日向国に派遣し、南朝勢力に対峙させる。 一方の南朝方は懐良親王を下向させ、肥後菊地氏を味方に征西府を樹立、北朝方(武家側)との対決姿勢を鮮明にする。
その後、日向国も足利尊氏方・直冬方・宮方の三つ巴の争いに巻き込まれ、群雄割拠の状況になっていく。
室町時代中期には、北部の土持氏、中央部の伊東氏、南西部の北原氏、南東部の島津一族を中心となり、各地の国人領主を吸収しながらの勢力争いが展開される。
戦国時代になると、伊東氏が日向国中部南部(那珂郡・児湯郡・宮崎郡・臼杵郡・諸県郡)を掌握、佐土原城(宮崎市)を本拠に伊東四十八城で領内を統治し最盛期を築き上げた。 しかし、急速に勢力を拡大させる島津氏との抗争が激化、元亀3年(1572)5月「木崎原の戦い」で伊東氏は大敗し、日向国は島津氏が支配することになる。
江戸時代の日向国に大きな大名は置かれず、天領と小藩に分割されていた。 南部の諸県郡は薩摩藩が領有し、臼杵郡の一部は人吉藩領となっていた。
県名は、県庁所在地の郡名に由来する。 奈良時代に「宮埼郡」で見られ、平安時代の『和名抄』で「宮崎郡」と見られるようになる。 「崎(埼)」の付く地名は、突き出た地や先端を意味することが多いが、宮崎の場合は「前(さき)」のことで、「宮前」が語源と思われる。