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2020.9.1 日本人のルーツを探る(39)
 今回は鹿児島県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の薩摩国と大隅国にあたる。 薩摩国の国府は薩摩川内市大園付近、大隅国の国府は霧島市国分府中付近と推定されている。
 飛鳥・奈良時代に入る7世紀末以降、薩摩・大隅地域の住民の一部は「隼人」と呼ばれた。律令国家の成立とともに隼人は次第に中央の律令制に組み込まれていく事になる。朝廷は太宰府から兵を送り702年(大宝2年)には唱更国(後の薩摩国)を設置し、また豊前国から713年(和銅6年)設置の大隅国にも人民を送り、朝廷の支配体制に組み込もうとする。これに対し7世紀末から8世紀前期まで4つの大きな反乱があり、中でも最大の反乱は720年(養老4年)- 721年(同5年)の隼人の反乱であり、この結果ついに平定される事になる。
 平定後の隼人は、9世紀初頭まで朝廷に朝貢する形態となっていたが、それ以降班田収授法が本格的に施行される。これらの時期と前後する7 - 8世紀ごろには、遣唐使船の行き来(南方航路)や、南島の島々(奄美、球美、信覚など)から朝廷への朝貢の動きもあった。
 中世の鹿児島県の歴史は領国統一に邁進する守護島津氏の内紛と、それに反抗する反島津の諸豪族との戦いの歴史といえる。
 守護島津氏の歴史は文治元年(1185)島津忠久が島津荘下司職に補任されたことに始まる。翌2年地頭職に補任され、建久8年(1197)には守護職を補任されている。
 島津荘は日向・大隅・薩摩にまたがる日本一広大な荘園で、忠久の頃は鎌倉に居住し、派遣した一族や在地領主を使って領国統治を行っていた。3代島津久経は元寇を機に本格的に下向し、以来島津氏による在地支配が推し進められることになる。
 戦国大名の基礎を作ったのは15代島津貴久と考えられている。
 貴久は薩摩国の統一を成し遂げ、名実ともに薩摩国主としての地位を確立、西大隅もほぼ制圧する。 また守護所を清水城から、海岸に近い内城(鹿児島市大竜町)に移し本城と定めている。
 九州制覇の野心に燃える島津氏はさらに北進し、天正12年「沖田畷の戦い」で肥前龍造寺氏を撃ち破り、これにより肥後の諸豪は次々と島津氏に服属し肥後国の制圧を成し遂げた。
 ところが、天正15年(1587)全国制覇を狙う豊臣秀吉が九州制圧に出陣し、島津義久は降伏した。これにより九州の戦国時代は終焉し、薩摩・大隅両国は秀吉政権の支配下に入ることになった。
 「 鹿児島」の語源は、「神籠もる島」という説、「カゴ」は崖という意味で、四方が崖に囲まれている桜島は「カゴ島」と謂われ、鹿児島は桜島の古い名であるという説、など諸説ある。

2020.9.4 日本人のルーツを探る(40)
 今回は沖縄県の成り立ちを調べてみた。(https://www.tabirai.net/sightseeing/okinawa/ info/about/history.aspxから抜粋)
 長く続いた貝塚時代のあと農耕文化へと移り、社会を形成し、各地には按司(あじ)と呼ばれる実力者が出現しグスク(「御城」もしくはスク「城」)が築かれることになる。
 一方、海外交易も盛んに行われるようになり、交易で得た富や権力を元に按司(あじ)が地域を治めグスクを築き支配力を高めていった。勝連城をはじめとする有名なグスク以外にも沖縄各地には、当時のグスクが現存する。日本では鎌倉時代にあたり、時、同じくして、有力な武士が支配力を強め小国家を形成していた時期と重なる。
 農耕社会が形成されると共に、作付け、収穫などの共同作業が必要となり集落内での協力、集落外との交流が始まる。今につながる「ゆいまーる精神」が培われたと言える。浦添、読谷、中城、勝連、佐敷、今帰仁といった良港をもった按司は、その勢力を更に拡大させて行き、やがて按司を統率する「世の主」が現れ、今帰仁を中心とした「北山」、浦添を中心とした「中山」、大里を中心とした「南山」に大きなグスクを築城して、沖縄本島を3分割する三山時代となった。
 三山時代に終わりを告げるのは、1429年。佐敷の按司であった尚巴志が琉球統一を図り、首里城を整備し琉球王国の中心に据えた。これを第一尚氏王朝と呼んでいる。このころに三線、泡盛、紅型といった琉球文化の基礎が流入した。琉球王国の政治、文化の中心であった首里城では、中国からの使者「冊封使」が訪れるようになる。
 交易で得られる利権争いによって、薩摩・島津藩の琉球侵入とともに第二尚氏王朝は日本(ヤマト)の実質統治下に置かれることとなった。1609年に薩摩藩が沖縄北部の運天港に上陸し、首里城を占拠。江戸幕府の徳川家康から琉球の支配権を与えられた島津の統治下に入ることとなった。事実上、幕府に組み込まれた琉球は、江戸へ使節を送ることが慣例となり、これを「江戸上り」といい、琉球装束を身にまとうことで、独立国としての対面を保っていたともいわれる。
 日本では明治維新により新政府が誕生。これによって廃藩置県が行われ、琉球王国は琉球藩として位置づけられたが、明治12年(1879)には、ついに琉球王国が崩壊した。沖縄県の誕生である。
 近世の俗称に由来する地名として「おき」は文字通り「沖」を意味し、「なは(なわ)は「漁場」を意味する「なば」で、「沖合の漁場」とする説が有力とされている。

2020.9.7 日本人のルーツを探る(41)
 今回は栃木県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 古墳時代、現在の鬼怒川流域一帯には毛野国があり、のち上下にわかれ下毛野国(しもつけのくに)が成立した。
 7世紀後半になると下毛野国と那須国が統一されて下野国(しもつけのくに)となり、現在の栃木県の県域が形作らた。 唐名の「野州(やしゅう)」の呼称も使われている。
 宇都宮二荒山神社は宇都宮大明神と呼ばれ、古来からその武徳が尊ばれてきた。藤原北家魚名流・藤原秀郷(俵藤太、田原藤太)卿は、平将門の乱の折、その追討を命じられたが苦戦、当神社に参じて授かった霊剣をもって将門を制したと言われる。(この頃二荒山神社:ふたらさんじんじゃ:は日光の二荒山神社との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれている)
 ここで戦国期以前の栃木県の状況を見ると、下野国は武家藤原氏の祖藤原秀郷が土着したところで、その子孫は足利氏・小山氏など北関東を中心に広がっていた。
 南北朝時代、北朝方(武家方)の小山氏が下野国守護に就いていたが、南朝方(宮方)でも同族の結城氏を守護職につけるなど、両派の対立は混迷を深めていた。
 しかし鎌倉公方が衰退すると結城氏の命運も暗転し、幕府軍と「結城合戦」を戦い一時滅亡することになってしまう。
 宇都宮氏の中興の祖であり17代当主である宇都宮成綱は。後北条氏での北条早雲のような戦国時代を生き抜くための革新的な思想、戦略的野望を抱いていた英主だといわれており、成綱の優れた才能によって家臣団を再編し、古河公方の内紛に介入したり、佐竹氏・岩城氏・蘆名氏などと戦い宇都宮氏の勢力を大きく拡大し、全盛期を築き上げた。
 しかし成綱が没した後は、宇都宮氏は大きく衰退していくことになる。さらに天文年間、那須氏と戦って大敗し、諸族は皆那須氏に帰属してしまう。また北条氏が下野国南境を攻略し、宇都宮氏は衰退した。豊臣氏の東征では那須氏の地を収め那須家臣の大関高増を黒羽に大田原晴清を大田原に封じ、那須氏には僅か福原のみを与えた。宇都宮国綱は独りその旧封である18万7千余石を全うすることになる。
 県名は、県成立時の県庁所在地の町名「橡木町」による。
県成立時に「橡」から「栃」に文字が変更されているが、いすれも植物の「トチノキ」を表す漢字である。栃木の由来は、トチノキが多く生えていたからといった説もあるが、諸説あるうちの一つである。

2020.9.10 日本人のルーツを探る(42)
 今回は茨城県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/)
 令制国の常陸国全域と下総国の北部にあたる。
 常陸国は親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介である。
 下総国の結城・豊田・岡田・猿島の4郡と葛飾・相馬両郡の一部が茨城県となる。
 南北朝期になると、常陸国守護職となった佐竹氏が頭角を現す。佐竹氏は新羅三郎義光の孫源昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着し、「佐竹冠者」を名乗ったことに始る。
 平安時代後期には、常陸奥七郡(常陸国北部)を支配し、大掾氏と姻戚関係を結びながら勢力基盤を築いていく。 源頼朝の挙兵に平家方となったため所領を没収され、のちに奥州合戦に加わったものの、鎌倉期の佐竹氏は不遇の時代を過ごす。
 親交があった足利氏が挙兵するとすぐに呼応し、のちに鎌倉府の重鎮・関東八屋形の一つに列せられる。 ところが佐竹宗家に関東管領上杉氏より婿養子に迎えた頃から、庶流の佐竹山入家が反旗を翻し、一族に内紛がおこる。 さらに周囲には勢力を持つ大掾氏・那珂氏(後の江戸氏)の諸豪が存在し、戦国大名化が遅れることになる。
 下総国結城郡からは結城氏が起こる結城氏は秀郷流藤原氏の小山朝光が結城郡を領して名乗ったことに始まる。
 足利尊氏が挙兵すると、常に北朝側勢力として働き、佐竹氏と同じく鎌倉府の関東八屋形の一つに列せられる。 鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉氏と対立すると、結城氏朝は鎌倉公方を支持し、持氏の死後はその遺児を擁して幕府に反旗を翻した。 敗れた結城氏は衰えたが、結城成朝が再興し戦国大名として発展していく。
 戦国時代になると、小田原北条氏・越後上杉氏の侵攻を許し、国内の諸豪は生き残りをかけて争うことになる。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により関東の戦国時代を終わりを告げ、その後の諸豪の行く末が決定されることになる。
 小田原征伐に参陣した佐竹義重に常陸国が与えられ、大掾氏・江戸氏は滅亡した。 下総国では参陣した結城氏が安堵され、改易となった小田氏領の一部を与えられている。
 明治維新後、藩県併置時代や廃藩置県の当初の段階では「茨城県」は設置されていなかった。その後すぐ行われた諸県の統合に際して、水戸・松岡・宍戸・笠間・下館・下妻の6県を主体として茨城県が成立したのが県名としての始まりとなる。県名の「茨城」は、現在「いばらき」と読まれている。

2020.9.13 日本人のルーツを探る(43)
 今回は群馬県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 律令制の下では東山道上野国で、国司が国を治める国府の所在地は現在の前橋市元総社町付近であったと推定されている。
 中世の上野国には荘園や国衙領を基盤とした中小武士団が勃興する。 県北部から東部にかけて秀郷流藤原氏一族、東部の新田荘に新田氏一族、県南部には武蔵から秩父党系、 国衙領が集まる群馬郡・甘楽郡には在庁宮人系の諸氏が起こった。
 南北朝期になると、新田義貞が後醍醐天皇による「建武の新政」に活躍するが、 足利尊氏との抗争に敗れ、新田氏一族は衰退し、同族里見・山名氏は本拠地を国外へ移す。 そして新田荘へは足利方の岩松氏が勢力を伸ばす。
 戦国時代になると、県南部は山内上杉家の勢力下に入り、東部は岩松氏(のちに由良氏)、西部は長野氏が勢力を振るう。 また上野守護代長尾氏は惣社長尾氏・白井長尾氏に分立し、山内上杉氏の家老として影響を持った。
 その後、伊豆堀越公方と下総古河公方が対立、その複雑な情勢のなか関東管領山内上杉家は北関東の戦国領主として成長する。 しかし新興勢力の台頭に山内上杉家の存亡の危機を迎える。
 甲斐の武田氏・駿河の今川氏と同盟を結んだ相模の後北条氏は、天文15年の「河越夜戦」で山内上杉氏を圧倒し、山内上杉氏の勢力は急速に減退する。 永禄年間になると武田信玄が西上野へ侵攻、武田の領国とし、さらなる南下を試みた。
 新たに山内上杉家の家督と関東管領職を継承した越後の長尾景虎(上杉謙信)は上野国へ進出。こうした情勢のなか上野の国衆は上杉氏、後北条氏、さらには武田氏に属し、離合集散を繰り返しながら生き残りをかけた戦いを続けた。
 織田信長により甲斐武田氏が滅亡し、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が没落すると、上野国は徳川家康の支配地となり、徳川配下の将士が入ることになる。
 江戸時代初期には東国の北の守りとして主に譜代大名が上州に配置され、前橋藩、高崎藩、沼田藩、館林藩、安中藩、小幡藩、伊勢崎藩、吉井藩、七日市藩などがあり、交代寄合旗本では岩松(新田)氏の岩松陣屋があった。また岩鼻には上野国内の幕府領を支配する代官の陣屋(岩鼻陣屋)が置かれた。
 県名の由来は、およそ1,300年前、藤原京(694~710年)の時代の資料によると、現在の群馬県の中に「車評(くるまのこおり)」(「評」は大宝律令によって「郡」となる)と呼ばれていた地域があったとされている。奈良時代に入るとすぐ、郡名「車(くるま)郡」は「群馬(くるま)郡」に改められたことが発端とされている。

2020.9.16 日本人のルーツを探る(44)
 今回は埼玉県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の武蔵国の足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・那珂・児玉・賀美・秩父郡に相当する。
 平安時代中期になると国司役人として下向し、そのまま土着して勢力を拡大するものが現われる。彼らは武士団を形成し、源頼朝が挙兵すると加わり、鎌倉御家人となった者は所領を得て諸国に散らばっていく。今日に系を伝える武士発祥の地といえる土地である。
 なかでも桓武平氏平良文を祖とする諸氏は、武蔵国周辺で有力武士団を形成し「坂東八平氏」と呼ばれるようになる。
  武蔵国秩父郡を拠点とした平将恒は秩父氏を称し武蔵国各地に勢力を拡大し、この一族は秩父平氏や秩父党と呼ばれる。 秩父氏族からは大族となる分流が出る。さらには「武蔵七党」と呼ばれる武士団が形成され、地域に根を張っていく。「武蔵七党」に数えるともいう私市党は埼玉郡騎西庄にも起こる。
 室町期の武蔵国は上野国を本拠地とする関東管領山内上杉家が守護となり、家宰長尾氏が影響力を持っていた。 しかし室町幕府と鎌倉府の対立や鎌倉府と関東管領の対立で武蔵国はその政争と戦乱に巻き込まれいく。
 相模国では北条早雲が台頭し南武蔵へ侵攻、北条氏康は次々武蔵国の在地勢力を制圧していく。
 天文15年(1546)、武蔵奪還を目指して両上杉氏と古河公方は川越城へ軍勢を送り込む。 小田原北条氏はこの「河越夜戦」で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏を越後に追放させ、永禄2年(1559)頃には武蔵国全域を支配じ、豊臣(羽柴)家に次ぐ全国第二位の勢力となる。
 天正18年(1590年)には豊臣秀吉の天下統一における小田原征伐において後北条氏は没落する。後北条氏の没落に際して東海五カ国を支配していた徳川家康が関東へ転封され、武蔵を含む関東地域には徳川氏の家臣団が配置された。
 江戸幕府により、江戸を起点とした五街道の整備が進められ、埼玉県内には中山道に9つの宿場、日光街道(奥州街道)に6つの宿場が置かれた。五街道に準ずる脇往還は、県内では川越往還、川越・児玉往還、日光脇往還、日光御成街道、関宿往還、秩父往還、秩父甲州往還が整備された。
 その名称の由来は諸説あるが、埼玉古墳群が由来とする説や、幸福をもたらす神の働きを意味する「幸魂」(さきみたま)から名づけられたとする説がある。また、平安時代の『和名類聚抄』に「埼玉」「佐伊太末」(さいたま)という郡名を見ることができる。
 
2020.9.19 日本人のルーツを探る(45)
 今回は千葉県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の上総国と安房国、そして下総国の一部にあたる。 上総国は親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介だった。
 平安時代中期、地方に活路を見出した中小貴族が土着し在地領主化していく。特に桓武平氏平忠常は常陸・上総・下総国で勢力を持ち、その強大な武力を背景に反乱「平忠常の乱」を起こす。反乱は鎮定されたが房総地域は「亡国」と言われるほど荒廃した。
 平忠常の子孫は房総平氏といい後に鎌倉幕府御家人となる千葉氏・上総氏が出ている。千葉氏は源頼朝の挙兵に従い鎌倉幕府創業に尽力し、その功績により千葉常胤は下総国の守護となり上総国にも勢力を進出し、さらに東北や九州にも勢力を拡大した。
 室町時代になると、鎌倉公方と室町幕府の対立、そこに関東管領の上杉氏も加わり戦乱が続く。この戦乱に関東の諸豪は振り回されることになる。
 千葉氏も一族の内紛により勢力を減退させ、急速に台頭した小田原北条氏に攻め込まれ、従属することを余儀なくされた。
 天正18年(1590)豊臣秀吉により小田原北条氏が滅亡すると、戦国大名として覇権を握った千葉氏は所領を失い、里見氏は安房一国を安堵された。第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が没落すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、小田原征伐の際の軍事行動が私的な戦闘行為とみなされて安房一国に削減された。
 北条氏滅亡後に徳川家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国から下総・上総を含む関八州に移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。上総・下総には、常陸佐竹氏と安房里見氏を警戒して、本多忠勝を始めとする徳川家の譜代家臣団が配置されるも、里見家は存続し引き続き安房を領有する。だが、江戸時代初めに起きた大久保忠隣失脚の余波を受けて改易、その後断絶することになる。
 江戸幕府が開かれると、房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦が老中としてアメリカとの交渉役を務めた。
 千葉県という県名は、1873年(明治6年)に木更津県と印旛県が合併して当県が設置された際に、千葉郡千葉町に県庁が置かれたことに由来する。県庁所在地名と郡名が同じため、そのいずれに由来するかは不明である。また、千葉という地名自体がいつの頃に発生したのかは定かではないが、律令制以前の国造名(千葉国造)や律令制以来の郡名(千葉郡)に見ることができる。
 
2020.9.22 日本人のルーツを探る(46)
 今回は東京都の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
 令制国の武蔵国の葛飾郡・足立郡・豊島郡・多摩郡・荏原郡と下総国・伊豆国の一部が含まれる。
 平安時代後期、秩父氏流の江戸重継が荏原郡江戸に城館(のちの江戸城)を築く。
 江戸氏は鎌倉幕府の御家人、北条得宗家の被官となり、一族を江戸周辺に配置するが、室町時代には勢力を失う。
 代わって関東管領上杉氏の家老太田道灌が長禄年頃(1456)江戸氏の居館跡に江戸城を築き、南関東一円で勢力を振るう。
 道灌が歿すると扇谷上杉氏が江戸城に入り武蔵国支配を試みる。 しかし扇谷上杉氏が武蔵国への進出を目指す小田原北条氏に敗れると、江戸城は小田原北条氏の支配下となり、武蔵国支配の拠点となる。
 鎌倉公方に仕えた吉良治家は「鎌倉公方の御一家」の扱いを受け、成高の代に世田谷城(荏原郡世田谷)を構え、小田原北条氏の傘下に入っている。
 南北朝時代には武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して、国人一揆を結成した。『太平記』では、平一揆や白旗一揆が有名である。
その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。国人達は武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦った。
 同じ秩父氏族で、「保元・平治の乱」に参陣した秩父武常が豊島郡を領して豊島氏を名乗り、豊島郡を中心に勢力を広げる。 しかし太田道灌との抗争に敗れ一族は存亡の危機を迎え、小田原北条氏の配下となることで命脈を保つ。
 後北条氏当主北条氏政の弟である北条氏照は八王子城を築き、西方の甲斐国の武田氏に備えた。後北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐によって1590年に滅んだ。
 後北条氏の滅亡後、豊臣政権下においては東海地方と武田遺領である甲信地方の5ヶ国を支配していた徳川家康は関東地方(武蔵国を含むほとんど全部)への領地替えとなり、駿府城(旧静岡市)から江戸城に入る。
 関ヶ原の戦いを経て家康は引き続き江戸を武家政権の所在地と定め、1603年3月24日(旧暦2月12日)に江戸幕府を開き、江戸時代が到来する。ここに、首都は京都でありながら、幕府の所在する江戸が実質的に日本の行政の中心地となる。18世紀後半から19世紀初頭には、化政文化をはじめとする江戸独自の文化が発達し、上方に代わる文化の発信地となっていった。
 1868年(慶応4年・明治元年)7月17日に「江戸ハ東国-ノ大鎮四方輻湊ノ地、宜シク親臨以テ其政ヲネレヘシ。因テ自江戸ヲ称シテ東泉トセン。」という詔勅により、「江戸」が改称され「東京府」となった。

 

2020.9.26 日本人のルーツを探る(47)
 今回は神奈川県の成り立ちを調べてみた。(http://www.kakeisi.com/及びwikipediaを抄訳)
令制国の相模国と武蔵国の橘樹郡・都筑郡・久良郡に相当する。
 戦国期以前の神奈川県は、鎌倉は源頼朝が開いた鎌倉幕府と室町幕府の鎌倉府が置かれ、京とともに政治の中心地だった。
 鎌倉時代以来、相模国守護は三浦半島を本拠地とする武士団三浦党の惣領三浦氏が就き、現平塚・伊勢原市域を中心に勢力を持つ。 三浦氏は坂東平氏の一つで源頼朝の挙兵に積極的に応じて幕府創業に貢献した。 三浦氏族は他国にも広がり、勢力を得て国人領主になったものも少なくない。
 その他、大庭氏・梶原氏・二階堂氏・渋谷氏など相模武士の多くは頼朝の幕府創業に加わっている。
 室町時代には、室町幕府により、関東八ヶ国(関八州)及び甲斐、伊豆の十カ国を統治する為に鎌倉府が置かれていた。実質的な政務は、鎌倉府の長である鎌倉公方ではなく、補佐役の関東管領が執り行っていたため、関東管領の直轄地となっていた。 
 戦国時代には小田原城を拠点とする戦国大名北条氏が旧支配勢力を滅ぼし、関東の覇者として不動の地位を固めた。後北条氏の優れた統治のもと、小田原は関東最大の都市(城下町)に成長させた。当時「西の山口、東の小田原」と謳われた程国内でも発展した都市の一つとなっていた。
 北条氏政の代には越後上杉謙信の侵攻を退け、織田信長の滅亡、徳川氏との同盟により、上野・下野・常陸・駿河・房総半島へと支配地を広げた。
 ところが西日本を統一した豊臣秀吉は、私戦を禁止した惣無事令に背いたとして小田原征伐を決断する。 氏政は数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、小田原北条氏による関東支配は終結した。
 相模国は徳川家康の支配地となり、徳川配下の将士が入ることになる。
 江戸時代には小田原藩が存在したが、旗本領も多く、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が徳川家康から三浦半島に領地を拝領したことは有名である。
 江戸時代初期には徳川家康が好んで鷹狩りを行い、小杉御殿(現在の川崎市中原区)、神奈川御殿(横浜市)、藤沢御殿(現在の藤沢市)、中原御殿(現在の平塚市)などの将軍滞在所が置かれた。
 「かながわ」の名は、昔、神奈河、神名川、上無川などとも書かれ、武蔵国久良岐郡(現在の横浜市神奈川区)の地域をいい、古くから陸上・海上交通の重要なところだった。これが県名になったのは、横浜開港に伴い、安政6年(1859)に「神奈川奉行所」を置いたことによる。そして、明治元年(1868)9月に神奈川県となった。

2020.9.29 衣替え
 10月1日は衣替えの日。そこで現在のホームページを見直すと、watch(のぞむ)とimage(うつす)は初詣の記事と春の桜の記事のたった2つ。これは加齢に伴う足腰の衰えが原因で現場取材が難しくなっている。それに輪をかけるように今も続くコロナ禍がある。外出を敬遠する大きな要因となっている。
 そこで今月いっぱいでこの二つのポケットを作り替えようと思い立った。このホームページの最初のコラムは2013年8且29日に始まっている。2020年9月で7年を経過したことになる。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」これは松尾芭蕉の『奥の細道』の序文だが、私のこのコラムを書き始めてから7年経過したことになる。週2回平均の掲載だからざっと計算して730回書き続けたことになる。雑文とはいえここまで積み重なると原稿用紙に置き換えると1460枚になるから、単行本2冊分くらいにはなる。
 一日一日積み重ねてまさに「塵も積もれば山となる」ことを実感している。コラム以外もペイントミュージアムで紹介した絵を集めるとコラムの回数の比ではなく1500枚近くになるはずだ。他にも元気な頃に取材した写真や動画それに関連した記事をあげれば、そのボリュームは膨大なデータの集まりになる。デ-タ換算すると2GB(ギガバイト)くらいになる。
 今回のリニュ―アルの最大の目玉は「日常細事」のスタイルを変えて、過去のコラムを見直し、それらを再掲(新しいポケットで)しようという目論見である。このコラムが書かれている場所はそれをダイジェストして手短に紹介(予告編のようなもの)するつもりだ。
 変更するポケットはデザインが少し変わる。「Market 話の市」と「Picture 絵物語」のようになるだろう。ポケットの中のデザインは今考えている最中で10月1日には間に合わせたい。
 そのほかのポケットは変更する予定はなく題材が続く限り更新していく。新しい構成となるためリンクに混乱が生じる恐れがあるが、更なる旅の第1歩と考え気合を入れ直して臨みたい。