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富嶽三十六景(全四十六図)
2013年(平義ニ十五年)六月ニ十ニ日、富士山が「富士山・・信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録されました。富士山は日本人だけでなく、世の人々をも魅了しています。その富士山の魅力を存分に表現したのが葛飾北斎が描いたこの富嶽三十六景です。
富嶽三十六景は天保初年ごろから出版された浮世絵集で、版元の西村屋与八(永寿堂)によって出版されました。題名が示す通り、初め出版されたのは三十六図だけでしたが、爆発的大ヒットを記録したため、さらに追加されて最終的には四十六図となりました。
俗に当初刊行された三十六図を表富士、追加の十図を裏富士と称します。
当時は富士山信仰が篤く、「富士講」と呼ばれる集団参詣の簽山が行われたり、「富士塚」という富士山に見立てた小山が江戸の各所に築かれたりしました。
この富岳三十六景は葛飾北斎の代表作にして、浮世絵の世界に燦然と輝く傑作中の傑作として堤代に伝わっています。「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴」は日本人なら誰もが見たことがあるほど有名な作品です。また、世界中の芸術家に多大な影響を与えました。
葛飾北斎は富嶽三十六景で日本人の心象風景を描き出しました。富士山と聞けば、北斎の富嶽三十六景の絵を思い浮かべる人も多い事でしよう。北斎は、広く親しまれ神格化された富士山を多種多様な表情で描き分けました。
富嶽三十六景は、世界に誇る絵師てある北斎の底力を存分に堪能できる傑作シリーズです。
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江戸(1)
江戸日本橋(えどにほんばし)
手前に描かれた日本格は大勢の人で賑わっています。それと対比するかのように配置された還景の江戸城と富士山の絶妙なパランス。北斎は西洋画から習得した遠近法を取り人れ、江戸の活気を見守る富士山の存在を見事に描き出しています。
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江都駿河町三井見世略圖(こうとするがちょうみついみせりやくず)
手前には呉服冏屋、三井越後屋の看板が見えます。これは現在の日本橋三越です。その店舗の間に見える富士山、屋根の上では瓦職人たちが作業している様子が活き活きと描かれています。
また富士山の上には「壽(=寿:ことぶき)」と書かれた凧が揚がっています。お正月のめでたい風景です。
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東都駿臺(とうとするがだい)
この絵の舞台は神田駿河台です現在は予備校の街として有名ですね。当時、この辺りには武家屋敷が建ち並んでいました。絵にもお供を連れた武士が描かれています。他には行商人の姿や巡礼者の姿も見えます。扇であおいだり、額の汗をぬぐったりしている庶民の様子も描かれており、夏という季節を感じさせます。武家屋敷の屋根越しには真っ白な富士山が見えます。青々とした木々の緑が富士山の白さを一層際立たせています。駿河台は高台ですが、そこから望む富士の姿はさぞかし雄壮なものだったでしよう。現在では駿河台から富士の姿が見えないのが残念です。
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東都浅艸本願寺(とうとあさくさはんがんじ)
浅草の本願寺は現在も観光地として有名で、休日には多くの人々で賑わっています。
この図絵には、江戸庶民を驚かせた本願寺の大きな屋根瓦が手前に大きく描かれています。遠くには火の見櫓が雲を貫いて描かれていますさらにその向こう側には富士山か描かれ、その上には凧が揚がっています。大胆で独特な構図が北斎の卓越したデザインセンスを感じさせます。正月特有の清々しい空気感が伝わってくる見事な作品です。
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本所立川(ほんじよたてかわ)
隅田川につながる竪川の材木間屋から望む富士山を描いた作品です。場所は現在の墨田区立川あたり。手前には作業する人々の姿が活き活きと描かれています。真っ直ぐに建てられた材木の間から見える富士山は遠近法を駆使した構図で描かれています。北斎の描画力だけでなく、木材の一本一本の線を細かく掘った彫り師の職人技も堪能できる逸品です。
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江戸(2) |
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深川万年橋下(ふかがわまんねんばしした)
真ん中に描かれているのは万年橋です。その上は往来する大
勢の人で賑わっています。本図は江戸時代の深川を描いたも
の。
深川に浮かんだ船から望む富士山の様子が大変印象的な
構図で
描かれています。
橋の美しいアーチの下に見える富士
山の小さな姿が、晴れ渡
った清々しい空気感のなか、見事なアクセントになっています。
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五百らかん寺さざゐどう
この絵図の舞台となっているのは、黄檗宗の天恩山五百羅漢
寺です。五百羅漢寺は現在は下目黒に移転していますが、当時
は江東区大島町あたりにありました。富士山を眺望することが
できる高楼として有名で、多くの人で賑わったそうです。
この図でも、武士や芸者、子供や庶民が揃って富士山を眺め
ている様子が描かれています。
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青山圓座枩(あおやまえんざまつ)
手前にこんもりと突き出た山のように描かれているのが円
座松と呼ばれた笠松で、青山の竜岩寺にありました。江戸の
名所の一つに数えられた場所で、この図絵でも酒を酌み交わ
す庶民の行楽が描かれています。
絵の左の方には、松の伸びた枝を支える支柱が見えますが、
その隙間から松葉掃きをする人物の足が見えるなど、遊び心
ある細かい描写も注目の一作です。 |
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隠田の水車(おんでんのすいしゃ)
隠田は現在の渋谷、原宿あたりです。今はビルが建ち並び
大都会に変貌していますが、当時は渋谷川が流れ、辺り一帯
には田園が広がっていました。躍動感あふれる水車の水、そ
れとは対照的に静かにたたずむ遠景の富士山がとても印象的
です。 |
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下目黒(しもめぐろ)
当時、目黒には鷹匠が住み、将軍が鷹狩りをする場所とし
て有名でした。この図絵にもニ人の鷹匠が描かれています。
田園風景が広がる丘の間から見える遠景の富士山の、計算さ
れた構図と単純ながら美しい色彩で描かれています。
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雪の且(あさ)の不二(富嶽百景から)
雪かきをする男が積み上げた雪山を雪の富士塚と看做し、
富士と見立てる趣向は大変分かり易く、雪を載せた簑笠の男
と頭巾姿の男が見つめる様子は、実は三十六景作品の料亭か
ら雪の富士を眺める粋客と同じ心情と理解しなければならな
いでしょう。
また、その雪山に喜び駆け上る2匹の犬は、前作品「月下
の
不二」の狼を受けていることは間違いなく、江戸を守る
(雪)
山の神に見立てられているはずです。したがって、
その喜ぶ
さまは、江戸の里が平和と安寧の世界にあることを
暗示して
いると理解できます。 |
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江戸(3)
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御厩川岸より両國橋タ陽見(おんまやがしより)
両国耨の遙か向こうに望む富士山の姿が、夕暮れ空に群青の
シルエットとなって浮かび上がっています。両国橋の下を住
来する遠景の船はまるで影絵のようにうっすらと描かれ、染
まっていくタ暮れの情景を効果的に演出しています。もの悲
しさすら感じる叙情的な風景画です
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隅田川関屋の里(すみだがわせきやのさと)
関屋の里とは、隅田から千住河原あたりの事です。遠くに見え
る富士はタ日に赤く染まっています。手前には旅姿の武士が三
人、馬に乗って疾走してぃます。勢いよく駆け抜ける馬、乗つ
ている武士の着物が風でたなびく様子が細かく描かれ、臨場感
を演出しています。中心部に描かれた一本松の配置や、美しぃ
配色など、北斎の非凡なセンスに驚かされる作品です。 |
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武州千住(ぶしゅうせんじゅ)
千住は隅田川の上流にあたります。この絵は荒川と綾瀬川が合
流する辺りでしょうか。富士山を眺めながら、のどかに釣りを
楽しむ人、 美しぃ風景に思わず足を止めてしまう馬子などが描
かれています。 富士山の前に配置された白い柱の様な物は水門
です。水門の幾何学的な造形をあえて富士山の前に配置すること
で、遠くにそびえる富士山とその眺望の美しさを際立たせてぃます。 |
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従千住花街眺望ノ不二(せんじゅはなまちよりちょうぼうのふじ)
この図絵も千住を舞台にしています。千住は日光街道、奥州街道の
第一の宿場街として栄えました。手前には大名行列のの一行が描か
れ、中には富士山を見てiる人物もいます。行列の奥には農作業の
途中で休憩をしてぃる女性が描かれていますが、彼女たらは日常、
富士山を見慣れているためか、街道を行く大名行列の方を物珍し
そうに見てぃます。 またさらに奥には建物が連なって描かれてい
ますが、 これは花街です。 様々な日常が凝縮されたとても面白い
絵です。 |
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武陽佃島(ぶようつくだしま)
現在も下町風情が残る佃島ですが、もともとは江戸時代に大阪の
佃村という所から漁師が砂州を埋め立てて移り住んだ場所でした。
故郷にちなんで、佃島と名付けられたのです。
佃煮はもともとこの周辺で採れた海産物を使った煮物の呼称でし
た。本図では、そんな佃島に住む漁師だちと、彼らのが住んでい
た佃島から望む富士山が描かれています。
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東海道品川御殿山ノ不二(とうかいどうしながわごてんやまのふじ)
品川の御殿山は当時、桜の名所として多くの人で賑わいました。
この図絵でも、中心に配置された桜が色鮮やかで印象的に描か
れています。花見を楽しむ人々だけでなく、淡いピンク色の桜
の問からのぞく富士山もどこかしら楽しそうに見えます。 |
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