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  改訂版「広重東海道五十三次」4版  スライドショウはこちら


今回の解説https://juemon.com/より

32・荒井(渡舟図)
荒井(新居)は、舞阪から海上4里の渡しを渡った浜名湖の西岸の宿場である。ここに関所があり、箱根とともに海道の重要な関所であった。  絵は海上幔幕を張って渡る参勤交代の大名の渡し舟を中央に、手前の渡し船には中間どもが乗っているが、一里の、のどかな海上に、すっかりあきて大あくびである。他のものも背中をまるめて居眠っている。のどかな春の海は、その色にも、空の色にも感じられる。対岸に荒井の関所が見える。この関所は、慶長五年(1600)に徳川家康が建てたという。以後管理は譜代の大名、吉田城主が当たり、かなりやかましかったという。 東海道五十三次・歌川広重の白須賀(汐見阪)
33・白須賀(汐見阪)
荒井宿から6.8里。広々とした遠州灘の大景観が見られる汐見阪を越して、白須賀の宿に入る。画題も「汐見阪ノ図」とある。いま、坂を下って大名の行列がいく。この絵は左右をシンメトリカルに構図した作として面白い。手前の丘陵の線が左右に高く、中央がへこんでいる孤線であるが、この湾曲した線を用いることは、広重独特の構図法といってよく、他の図でも度々これを用いている。左右の松の木も、ほぼ相対的であり、遠く水平線の白帆も相対的で装飾的である。「東海道名所図絵」に「汐見阪白菅の東の阪路をいう。眼下に滄海をみれば汐見阪の名あり。所謂、遠州七十五里の大灘眸を遮り弱水三万里の俤あり。渚の松緑濃く沖にこぎつける漁舟は雲の浪にみえかくれ、浪間の艪、浦浜の千鳥みるは汐見阪の眺望なるべし」とある。そのままの姿である。 東海道五十三次・歌川広重の二川(猿が馬場)
34・二川(猿が馬場)
白須賀から4里で二川宿。このあたりは、赤松林はあるが平坦で画ざいにも乏しいことろである。街道の右手には巌殿観音があり、去来の句、「岩鼻やここにもひとり月の客」がある。広重は、風景がでなく、情景画としてここを描いている。小松原の猿が馬場(画題)の夕暮で、なにもかも薄暗い夕闇の中を、旅する三人の瞽女の寂しい姿がいく。その足もとも重く。たどたどしく、今宵の宿へと辿っている。肩にした三味線も重たげである。名物かしは餅の看板の茶見世で一休みしようか、今日の稼ぎ高を三人で相談しているのであろうか。小松原をひろくとった構図も、旅の悲しい風情を見る人に感じさせるのに役立っている。 東海道五十三次・歌川広重の吉田(豊川の橋)
35・吉田(豊川の橋)
二川宿から6里で吉田の七万石の城下町へ入る。吉田は、今の豊橋である。右手前に吉田城を描き、いま修繕中である。「吉田通れば二階から招く」の俚謡は今に伝わっていて、この町の繁栄していたことが偲ばれる。左手に豊川にかかる画題となっている「豊橋橋」が見える。城の足場から職人が小手をかざして、その橋の方を眺めている姿が面白い。この天守閣を見ると、大阪落城の時、逃れた家康の孫娘千姫の昔話が思われる。城と橋梁の機構美を悠々と流れる豊川の藍がつないで、その美しさを増している。  遠く見える山は、鳳来寺山であろうか。今も信仰の絶えない豊川稲荷は、この川の上にある。この絵は北斎を思わせるような構図であるが、北斎の厳しさとは、また違った軟らかさと静かさを見せて、広重の画質を、よく出している。遠くの空の茜色など広重でないと出せない色である。 東海道五十三次・歌川広重の御油(旅人留女)
36・御油(旅人留女)
吉田から10.4里で御油の宿に入る。広重は、この宿場の夕暮時を描いている。画題は「旅人留女」で、そこか旅篭屋をと、さしかかった旅人を宿の女が強引に自分のところに引きとめ、引きずり込もうとしているユーモラスな一情景である。一九の「膝栗毛」にも、「はや夜に入りて両側より出くる留め女、いづれも面をかぶりたる如くぬり立てるが袖をひいてうるさければ・・・」とある。絵も旅人が二人、弥次郎平喜多八を想定した絵かもしれない。広重は、「膝栗毛」からヒントを得ている図をかなり描いている。このタックルのさまは写実で人物の表情もよく出ている。旅篭屋の中では、すでに泊まりをきめた旅の侍が、媼のすすめるタライで足をすすいでいる。この侍を引き入れた女であろう、頬杖をついてタックル中の留女の次の成果を見守っているのも面白い。飯盛女が一人、これもタックルを見守っている。宿場の夕暮時の風趣満点で留女の喧しい声が聞こえているようである。 東海道五十三次・歌川広重の赤坂(旅宿招待)
37・赤坂(旅宿招待)
御油から赤坂の間は1.7里で、五十三次中では最も感覚が短い。しかも、この間の街道の松並木はよく残っている。そして御油から赤坂へかけての街道筋、宿駅ともに、国鉄が街道沿いを走るようになったため、置き去られて、かえって昔の面影を最も残しているといわれ、吉田・御油・赤坂は旅の憂いさをはらす女の町としても知られ、「御油や赤坂、吉田なくば、何のよしみで江戸通い」の里謡もあるくらいで、そうした繁華を物語る家並みも今にそのまま見ることも出来る。 東海道五十三次・歌川広重の藤川(棒鼻図)
38・藤川(棒鼻図)
藤川は赤坂から9里である。広重は天保三年に八朔の御馬献上の行列に加わって東海道を下り、東海道五十三次の画ざいはこの時に、彼の画嚢に納まったのである。しすて江戸に帰った後、この続絵を描き、翌四年から出版、五年に五十五枚を完成したのである。御馬献上というのは、毎年八月一日を期して幕府から朝廷へ馬匹を献上する慣例であって、その行列が、いま藤川宿の入口にさしかかったところが、この絵である。町役人や旅人は土下座してこの行列を迎えている。献上の馬には御幣をつけ、多くの侍がつき従っている。極めて厳粛な雰囲気の絵であり、霞の描き方も様式的である。こうした情景は、広重がこの一行に加わっていたから描けたものと思われるし、この東海道上りによって広重の東海道絵が生まれたことを思えば、絵の出来栄えよりも一つの記念すべき作品とも見られる。画題の「棒鼻の図」は、藤川宿の入口を意味する。 東海道五十三次・歌川広重の岡崎(矢矧橋)
39・岡崎(矢矧橋)
藤川から6里で、城下町岡崎へ入る。この地は東海道中でも知られた繁華な町であった。若い徳川家康の居城でもあり、「五万石でも岡崎さまは、お城下まで船がつく」の里謡もあるように、本多氏五万石の城を、広重も遠く描いている。画題となっている「矢矧橋」を画面の中央に描き、しかもかなり精写している。この橋は街道一の長橋で、370mあり、有名であった。橋上を大名行列が行く。遠く見えるのは本宮山、城の下に町の屋根が重なっているが、川の岸は芦萩が繁り、水は静かに流れている。 東海道五十三次・歌川広重の池鯉鮒(首夏馬市)
40・池鯉鮒(首夏馬市)
岡崎から15.3里で池鯉鮒宿である。いまは知立町という。この地の知立明神の池に多くの鯉や鮒が飼ってあったので地名になったという。毎年4月25日から十日間行われた馬市は有名であったが、その馬市のさまを描いたのがこの広重の絵であるが、広重は「首夏馬市」と題して初夏にしているし、7月にここを通った広重は馬市を見てはいない。
 この図は画面一杯に夏の緑の色が溢れている絵である。また、見渡す限りの炎天の広野の感じも強く感じさせている。野中の一本松がこの絵の中心である。その下に馬市に集った群衆のかたまりが見え、ざわめきも遠く耳に達する思いがする。市で売られる馬の群が、馬主と博労とともに描かれている。市へ食べ物を売りに行く行商人が市の方へ歩く姿も一つの情景である。あまり顧みれらない図であるが、決して凡作ではなく、夏の風景画としてその暑さの感じられる点であまり類がない。 東海道五十三次・歌川広重の鳴海(名物有松絞)
41・鳴海(名物有松絞)
池鯉鮒から11.3里で鳴海につく。ここは鳴海絞の産地として知られているが、すぐ東北の有松から産する有松絞もまた有名であった。ともに同じ絞り染めであるが、鳴海絞より有松絞の方が知られ、鳴海絞は有松絞の名称のもとに包含されたいたと考えられる。したがって、広重も鳴海宿の絞り染めを売る店先を描いているが、画題は「名物有松絞」となっている。今も昔の絞り屋の店構えを偲ばせる家並みが残っているが、江戸時代にはかなりの繁栄を見せた宿場であったことは、広重のこの絵の家並み構えでも見ることができる。 東海道五十三次・歌川広重の宮(熱田神事) 2020.3.2


(2018.10.19)







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