浮世絵のアダチ版画のコメントから
東海道五拾三次について日本橋、京都、そしてその間に設けられた53の宿駅を描いた浮世絵のシリーズ。広重は、次々に変わる景色、季節、時間、行き交う人々の生き生きとした営み、全55図を郷土色豊かに描き出しました。。日本の風土に根ざした抒情性こそ、広重の浮世絵風景画最大の特色と言えるでしょう。今回は後半で宮~京までを紹介する。
宮 熱田神事
熱田神宮の門前町ということから、宮という地名になったといわれています。この図は、神宮の祭りに出る駈馬(かけうま)を描いています。この祭りの馬には神が降臨されているとされ、この馬を二頭駈けさせ、その早さで、その年の豊作などを占ったといわれています。かがり火の中での勇壮な祭りの様子をダイナミックに描いています。
桑名 七里渡口
この図は、桑名湊の渡り口を描いています。旅の疲れを癒し、のんびりとした気分に浸るうち、桑名城のやぐらが目に入ります。木曽三川の河口の重要な港であった様子が、大型船の描写に偲ばれる図です。城下は、18世紀後半に幕府の許可のもと米市場が開設されて以来、江戸・大坂の相場を左右するほど商業の盛んな地となりました。
四日市 三重川
強風に葦がなびき、合羽の裾が翻す旅人と、飛ばされた笠を追う旅人が叙情的に描かれています。動きのあるこの図は、東海道五十三次のなかでも秀作として評価の高い作品です。この絵は四日市宿の近くを流れる三重川(三滝川)のあたりの様子で、二人の旅人の様子や柳枝のしなり具合からも、この地方の風の強さがわかります。
石薬師 石薬師寺
奈良朝に建立されたという石薬師寺をはじめ、石薬師はヤマトタケルなど古代の伝承の地でした。眼病治癒で有名な石薬師寺が木立の合間から見えてきます。周辺には秋の刈り入れ後の風景と、農作業の様子が描かれています。遠方に大きく姿をあらわす山はおそらく鈴鹿山脈で、重なる山々が遠近を表現し、奥行きのある作品となっています。
庄野 白雨
白雨」とは、夕立やにわか雨のことです。突然の風を伴った激しい雨に、坂道を往来する人々を生き生きと描写したこの図は、広重の最高傑作の一つとして知られています。強風に揺れる遠景の竹薮を、輪郭線の無い二重のシルエットにして奥行きを出し、降る雨の角度を変えるなど、技法的にも新たな試みをし、成功しています。
亀山 雪晴
庄野から8キロ。東海道五十五枚中の三代役物の一つとなっている傑作です。
左手の山の端の薄紅の色から沖天へ向かっての澄みきった藍の色の美しさ、清らかさ。この空が画面を対角線に区切った半分を占めています。その明るさに映える亀山城から城下の町家を半分に描き、この静かさのなかを大名行列が粛々と登っていくのが印象的です。雪の傑作としては蒲原の「夜の雪」もありますが、この作品では陽に、一方は陰に、広重は見事に描き分けています。
關 本陣早立
大勢の人数を従えた大名行列の移動は大変で、まだ明けやらぬ早朝の暗いうちから出立の準備があわただしく始まります。濃い灰色の濃淡と黄緑色の配色は、日の出を間近にひかえた早朝の雰囲気を伝えています。昔ここに、鈴鹿の関があったことから関宿といわれ、近江の相坂の関、美濃の不破の関とともに三関に数えられました。
阪之下 筆捨嶺
昔、狩野元信があまりの美しさに絵も描けないといって、筆を捨てたという岩根山。鈴鹿川を隔て、見晴らしのよい峠にある「藤の茶屋」からの風景は、さぞ絶景であったのでしょう。茶を飲みながら景観を楽しむ旅人が描かれています。山の下にある白い空間は川のもやを表現したのでしょうか。距離感を生み、自然の雄大さを見せています。
土山 春之雨
「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨がふる」と馬子唄に歌われた土山。京都から東海道を下ると最初の大きな峠が鈴鹿峠であった。土山は雨の多い場所でも知られ、画中に描かれた田村川の水量もそのことを物語っている。その田村川に架かった橋を大名行列の一行が渡り始めている。
「庄野」で見られた雨とは違い、いくつもの線が交差し雨足の強さを強調している。現在の滋賀県甲賀市。
水口 名物干瓢
当時どこにでもあったような風景の中に、干瓢を作る人たちを描くことによって、水口らしさを表現した広重の趣向はさすがです。自然と人間との係わり合いを描く彼の風景画は、いつでも心温まります。干瓢作りは、そもそも水口城主であった加藤氏が下野(栃木県)から移入してきたおりに奨励し、特産物にしたといわれています。
石部 目川ノ里
石部宿(いしべしゅく)は、近江国甲賀郡にあった東海道五十三次の51 番目の宿場です。
京都を朝出発すると石部に夕方ごろ到着することから「京立ち、石部泊まり」といわれていました。東海道51番目の幕府直轄の宿場で、伊勢参宮街道との分岐点として多くの旅人で賑わっていました。
草津 名物立場
東海道と木曾海道との分岐点であり、また琵琶湖の交通の要所であった草津は有数の宿駅として栄えました。名物立場の「うばが餅屋」は、町はずれの矢橋(やばせ)湊へ曲がる角にあったといわれています。大きな琵琶湖の周辺から生まれる産物の交易の場としても重要な所でした。街道には、早駕籠が急いで走る様子が描かれています。
大津 走井茶屋
琵琶湖の南に位置する大津宿は、東海道の中でも最も栄えた大きな宿場でした。「走り井は逢坂大谷町茶屋の軒場にあり、後の山水ここに走り下って湧き出づる事、瀝々として増減なく甘味なり」とある有名な泉のある茶屋のありさまが描かれています。米俵を運ぶ車が連なる図は、大消費地京都を間近にひかえ、物流の流通が盛んであったことが偲ばれます。
京師 三条大橋
京師(けいし)」とは、京の都、つまり京都のことです。賀茂川に掛かる三条大橋の上に立つと、約500キロの東海道の旅路もいよいよ終わりです。眼下には賀茂川がゆったり静かに流れ、江戸とは趣を異にする大原女や京女が行き交い、京の繁華が描かれています。遠くに東山を眺めると、長かった旅が終わった安堵感が伝わってきます。
(2020.5.10)