現在「八百万神」として掲載されているものの中の一部10枚(No.97-106)を改訂版として再編集したものを紹介する。
天石門別神(あめのいわとわけのかみ)天孫降臨に例外として随行した神。異界から侵入する災厄を防ぐ神として祀られている。『古事記』の天孫降臨の段に登場する。邇邇芸命が天降る際、三種の神器に常世思金神・天手力男神・天石門別神を添えたと記され、同段で天石戸別神は又の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい、御門の神であると記されている。天孫降臨の段に登場する神の多くはその前の岩戸隠れの段にも登場しているが、この神は岩戸隠れの段には見えない。
天石門別神は古来より天皇の宮殿の四方の門に祀られていた神である。神祇官の西院では御門巫祭神として祀られて式内社とされていた。 天太玉神の子ともいう。
木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)は日本全山の総元締めであるオオヤマツミノカミの娘にして浅間神社の祭神である。夫のニニギノミコトが高天原から持ってきた稲籾の稲で、お酒を造ったことから酒造の神としても有名。木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)は、日本神話に登場する女神。神話では、日向に降臨した天照大御神の孫・邇邇芸命と、笠沙の岬で出逢い求婚される。父の大山津見神はそれを喜んで、姉の石長比売と共に差し出したが、邇邇芸命は醜い石長比売を送り返し、美しい木花之佐久夜毘売とだけ結婚した。名義は「桜の花の咲くように咲き栄える女性」と考えられる。なお桜は神木であり、その花の咲き散る生態によって年穀を占う木と信じられた。神名は咲くことを主にすれば 「木花之佐久夜毘売」となり、散ることを主にすれば「木花知流比売」となるとされる。
海佐知毘古(実名は火照命「ほでりのみこと」)は邇邇芸命(ににぎのみこと)と木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の間に子供が三柱いる。
そのうちの一柱の神、「海の獲物をとる男」と言う意味の名で海佐知毘古(うみさちびこ:海幸彦)として、鰭(ひれ)の大きな魚から鰭の小さな魚まで大小の魚を獲(と)っていた。
また、火遠理命(ほおりのみこと)は「山の獲物をとる男」の意味の名で、山佐知毘古(やまさちびこ:山幸彦)として、毛の荒い獣から毛の柔らかい獣まで様々な獣を獲(と)っていた。
海幸彦と山幸彦の物語は、山で獣を捕って暮らしていた山幸彦(古事記で火遠理命(ほをりのみこと)、日本書紀で彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))が、海で魚を獲ることを生業にしていた兄の海幸彦(古事記で火照命(ほでりのみこと)、日本書紀で火闌降命(ほすそりのみこと))から釣針を借りて漁に出たが釣針を失い、塩椎神(しおつちのかみ)の教えによって釣針を探しに海宮に赴く。そこで三年を過ごし、海神(豊玉彦)の娘豊玉姫(とよたまひめ)(豊玉毘売命(とよたまひめのみこと))を娶って、釣針を見つけ出し、潮盈珠(しほみちのたま)と潮乾珠(しほひのたま)を得て、戻ってくる。
兄の海幸彦は、山幸彦に攻め込むが、その都度、潮の満ち干を操る玉を使われて、打ち負かされてしまう。最後の戦いで、弟の起こした大波に呑まれて負け戦となった海幸彦が、磐船に乗って流れ着いたとの伝承が、潮嶽神社の場所である。
トヨタマヒメ(豊玉姫、日本書紀)またはトヨタマビメ(豊玉毘売、古事記)は、日本神話に登場する女神。神武天皇(初代天皇)の祖母として知られる。
『古事記』では豊玉毘売、豊玉毘売命、『日本書紀』では豊玉姫と表記される。
海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住まいする。真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)であり、異類婚姻譚の典型として知られる。ホオリ命に一目惚れ、子どもを授かるも、正体(人魚)が知られ、泣く泣く海に戻る悲劇の后。
塩椎神(しおつちのかみ)日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)。
名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある。
神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)神武天皇(じんむてんのう)
日本神話に連なる伝説上の人物。 『日本書紀』・『古事記』によれば天照大御神の五世孫で、畝傍橿原宮(現在の奈良県)に都して日本を建国したとされる。庚午年[注 1]1月1日(庚辰の日)[1]に日向国(南九州)で誕生。15歳で立太子[注 2]。吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳のときに兄や子を集め東征を開始。日向国から筑紫国、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とし、翌年に初代天皇として即位した。
にぎはやひのみこと『古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命、『先代旧事本紀』では饒速日命の名称以外に、別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)、天火明命(あまのほのあかりのみこと)、天照國照彦天火明尊、胆杵磯丹杵穂命(いきしにぎほのみこと)と表記される。他の別名として、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)、櫛玉命(くしたまのみこと)、櫛玉神饒速日命(くしたまのかみにぎはやひのみこと)がある。
『古事記』では神武天皇の神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神として登場する。那賀須泥毘古の妹の登美夜須毘売(『日本書紀』では三炊屋媛という)を妻とし、との間に宇摩志麻遅命をもうけた。宇摩志麻遅命は、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。神倭伊波礼毘古(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗した那賀須泥毘古が敗れた後、神倭伊波礼毘古が天照大御神の子孫であることを知り、神倭伊波礼毘古のもとに下った。
あめのかぐやまのみこと(天香山命)『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊(旧事本紀では天火明命と同視する)と天道日女命との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)で、尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である宇摩志摩治命(うましまぢ-)とは母神を異にする兄弟神となっている。
『新撰姓氏録』にも見え、後裔氏族として尾張氏(左京神別等)を始め、伊福部氏(左京神別下)・六人部氏(山城神別)・津守氏(摂津神別)等を挙げている。『諸系譜』第三十三冊には武乳速命の子と伝わる。
新潟県の弥彦の神社祭神で製塩法をはじめ、網を使った漁業を漁民に伝え、また耕作方法を農民に伝えるなど越後の産業開発に努めたとされている。神武天皇の東征においても大きな役割を果たした。
布都御魂(ふつのみたま)霊格高い剣神。韴霊剣、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とも言う。佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言う。悪神を退ける力を持つ。神武東征成功のカギとなった霊剣。東征後は神格化され、石上神宮の祭神となる。
大年神(オオトシノカミ)とは、豊穣を司る神道の神とされ、正月に各家にやってくる来方神として知られている。しかし『記紀神話』には系譜のみが記されることに止まり、その性格については謎に包まれているが、最近では大和建国の神とされる「饒速日(ニギハヤヒ)」と同神であるという説もあり、密かに人気を集めている神でもある。
2020.3.18