現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。
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料理人
天保5年(1834)刊『早見献立表』に料理人の心得として、次のように記されている。
「料理方に四季の心得あり。先ず春冬はいかにもふっさりと見ゆるように庖丁の心得ある
べく、夏秋はすんがりと見ゆるように為べし。さればとて淋しく少なきはあしく、たとえ
ば魚菜とも平目にすれば盛かた賑やかなり。竪目なれば清冷(すんがり)と見ゆる。爰(これ)を以て考ふべし。あながち竪目平目と一概にいふにはあらじ。煮方加減熱きかげんの物は至極暖かにて、冷なるものはひやかなるべく必ず夏日なりとも煮物のさめたるは甚だ不馳走になるなり。冬の日もこれに准ずべし。」
また煮方の注意がきに、
「四季の寒暖にしたがひそれぞれのかげんハ煮方の巧拙にあり。 いか程の山海の珍味をつくすともかげん悪しきハふちそうといふべし。」
米搗屋
玄米を白米となすに当たり大道春とて臼杵を持ち起こし、それを家々に往きて玄米を搗くを業とするものあり、その形様図の如し。熟練した米搗きが一日どれほど搗いたか分からないが、天保11年、桑名藩士、渡部半太夫の「桑名日記」に「米搗きがくる。まだつき習いの米搗きと見えて暮合までかかり一俵やっと搗く」とある。
鮨屋
文政十年頃は、切鮨(押し鮨) であったようだ。
この絵は上方の風俗で、柿鮨の「こけら」(鮨の上におく卵焼き、鮑、鯛を薄く切つたもの)を切っているところで、まな板の上に卵焼きと椎茸等が置いてあり、酢を入れた鉢もみえる。料理人の前の大鉢は、 切った鮨を盛りつけたもの。
鰻掻師
鰻掻きは水底にいる鰻をとる道具で、 絵の鰻師が肩にしている二股になった曲鉤のついた長柄がそれです また鰻掻きといえば 鰻をとる人もさします
絵の左下に、 裏に釘を打ちつけた下駄が置いてあります。 川底が泥沼だったので、 これを履いて滑りどめにしたようです
(出典·合巻 『逢見茶관入小袖』 文政十一年 歌川豊国画)
鰻割師(うなぎさきし)
絵は蒲焼屋の店の内で、料理人が鰻を割いているところです。
寛永二十年 (1643)刊の『料理物語』に「かばやき」とあるので、江戸初期以前かあったようで、一説には始まりは室町時代だろうといわれています。
「鰻屋 古八鰻蒲焼ト云名ノアルハ鰻ラ筒キリニシテ串ニサシ焼キシ也形蒲穂ニ似タル故ノ名也今世モ三都トモ名ハ蒲焼ト称スレドモ其製異ニシテ名ニ合ズ
京坂ハ背ヨリ裂テ中骨ヲ去リ首尾ノマ、鉄串三五本ラ横二刺シ油二諸白酒ヲ加へタルヲツケテ焼」之其後首尾ヲ去リ又串モ抜去リヨキホド斬テ大平椀二納レ出ス
鰻蒲焼小器銀二匁 中三匁
(中略)
江戸ハ腹ヨリ裂テ中骨及ビ首尾ラ去り能ホド二斬テ小竹串ヲ一斬り二本ヅヽ 横二貫キ醤油二諸白酒ヲ加へ付之テ焼キ磁器ノ平皿ヲ以テ出ㇾ之
大小トモ二串ラ異二シ一皿価二百文トス必ズ山椒ヲ添タリ <略>
鰻飯 京坂ニテ『マブシ』江戸二テ『ドンブリ』ト云鰻丼飯ノ略也京坂ニテ兼売ㇾ之江戸ニテハ右ノ名アル鰻屋ニハ不ㇾ売ㇾ之中戸以下ノ鰻屋ニテ兼ㇾ之或ハ専ㇾ之」
(出典:黄表紙「栄花男二代目七色合点豆」享和4年 北尾政寅)
蕎麦屋(そばや)
古いそばの食べ方は、 そば練り (そばがき)、 蕎麦焼餅等であって、現在のそば屋の料理法は近世になってうどんの製法を真似たものだといわれています。
俗にそばは江戸、うどんは大阪といわれていますが、江戸幕府の開設当時は、むしろうどんがそばより先行していました。寛永 (1624~1644) から元禄 (1688~1704) 頃までは そば切りといって、うどんとともに菓子屋で拵えて売られていたものです。江戸初期の庶民の親しんだものにはそば切りのほか「けんどんそば」がありました。
「寛文辰年 (4年1664) けんどん蕎麦切といふ物出来て下々買ひ食ふ。貴人には食ふものなし。是も近年歴々の衆も喰ふ。結構なる座敷へ上るとて、大名けんどんというて拵へ出す」
蒲鉾屋(かまぼこや)
『本朝世事談綺』にはこうあります。
「魚肉を磨りて細き竹に塗り、これをやく。そのかたち蒲の穂に似たるゆゑに名付く。今竹輪と云ふなり。近世は小板に貼すといへども、むかしの、名を呼ぶなり」
『守貞稿』 には次のようにあります。
「今製の竹輪右ノ図 (略) ノ如クス蓋シ外ヲ竹賽ヲ以テ巻包ミ蒸ス故二小口下ノ如キナリ(省略 蒲鉾円形)。
今製ハ図ノ如ク三都トモニ杉板面ニ魚肉ヲ堆ミ蒸ス蓋京坂ニハ蒸タルマ、ヲシライタト云板ノ焦ザル故也多クハ蒸テ後焼テ売ルコト無之皆蒸タルノミヲ売ル(以下略)」
杜氏師(とうじし)
酒の作り方を示した絵。年を経て熟成する酒は古酒と言われる。新酒はその年の新米を七月中旬から下旬にかけて仕込んだもので、味は古酒に比べて淡白だと言われている。
絵の上の文は「もろみを拌(か)く、袋に入れて醡(ふね)に積(つむ)、酒げ、すましの図」とあって、それぞれの下の図を説明している。
徳利印付師
ここに図する所のものは東京にては俗に貧乏徳利と通称するものにして多くは小売酒屋
にて用ふるものなり其大小は凡二合入、 三合入、 五合入、 一升入、 二升入、 三升入等まて
にこれを瀬戸物屋より買入れば適宜の桶に水を充分に入其中へ徳利を入て息を力一 ぱいに
吹込て水漏の有無を調べたる上にて得意先へ酒を注ぎたるときに間違はぬ為に其酒屋の屋
号成は商標を先の尖りし鉄槌或は古鑿にて彫付るものにて手馴ぬ者のなすときは刃先は辷
りて思ふやうには出来得ぬもの又強くすれは徳利に破損を生ずされど老練の者がなせばな
かく手際なるものにて随て其彫上も速かなるものなり又仕出料理屋成は遊廓の台屋の皿
小鉢の裏にはみな屋号等を彫付あるものにて此皿に彫ときには水上に浮してなせば損ぜぬ
よしを聞きたるかいまだ実験せざれば其信偽は保し難し
醤油師
「醤油は葛飾郡野田海上銚子等より出すこと夥し小麦を炒り大豆に和してをつくり塩を和して大桶にいれて熟せしとき布の袋に包ミてメ器に入て搾り樽に詰て諸国に出す就中野田の (萬)八上品にして八升六合入を一 樽と定む」
と出典の文にあり、 『守貞謾稿』 には、 次のように記されています。
「醤油 昔八無v之足利氏ノ包丁大草家ノ書等二醤油ト云コト無v之垂味噌ヲ用ヒタリ垂味噌ハ今世田舎二テ用フタマリノコト也溜也味↑溜ノ上略也味噌ノ上ヲ凹ニシラ納レ置キ溜ル所ヲ汲取ル故二名トス <略>
豆油ト訓ゼリ今モ尾三遠濃等ノ国八溜ヲ専用シ醤油ヲ用ヒズ」
奈良朝にはすでに豆、麦、塩から醤が使われていたことが文献に記されており、この醤が醤油の母体であろうといわれています。
味噌師
『守貞謾稿』には、このように記されています。
「味醤 今俗味噌の字ヲ用フハ非也味醤ハ三代実録二見へ又延喜式神名帳斎宮寮ノ条ニ味醤一斗二升云々
和名抄ニ高麗醤ハ美蘇云々俗用味醤二字味宜ㇾ作ㇾ未何則通俗文ニ有㈠未楡莢醤🉂末者搗末ノ義也
今世京阪ノ市民毎冬自制スル者多シ其法大豆一斗 米麹 塩 升早春ヨリ食之盛夏後ノ食料ニハ塩 升ヲ多クス租ニ搗製シ桶ニ雷盆(すりばち)ニテ摺テ汁トス
絵は味噌師が杵で味噌の材料を搗いているところで、後ろに見えるのは麹を入れた箱です。
麹屋
麹は酒、味噌、醤油、香物を造るのに必要で、物によって材料を異にします。例えば、米:麹は殆どが清酒を造るのに用いられ、他に甘酒、味噌、酢にも使われます。醤油麹は小麦、大豆を材料とし、 夕マリや三州味噌は大豆麹で造られます。
米麹は、白米を一夜水に浸してから蒸してさまし、麹室に入れて麹種(もやし)と混ぜ合わせ(白米一石のときは麹種二升の割合)、一升の麹蓋(浅い木の箱、絵の麹師が持っている箱)に盛り、摂氏25度位の温度を保って40時間もすると出来上がります。麹種を入れるのは、確実に純粋の麹菌を生えさせることが出来るためです。
寒天屋
寒天はテングサを材料として作られ、夏、水に冷やして食用にします。
出典の文にこうあります。
「造法
次の法ハ古法ながらも冱寒の地ならずして造るべし〔日用料理集〕に寒の内に藻の白きばかりをよく洗い大釜に入れ泔汁(しろみず)の三番をひた々多く入れ煎じ右の藻とけ申す時水嚢にてこし申し桶に入れ置き候へば固まり候(ところてん)以下略」
絵は、寒天の煮汁を方(かく)盆に満たし盛るところです。
寒天の長方形のものを方寒天、細く方なるものを細寒天蘇芳を入れて赤くしたものを赤寒天と言います。
飴屋
八百啓介「近世における飴の製法と三官飴」によれば「我が国における飴の歴史は古く『日本書紀』や『延喜式』にさかのぼるが、江戸時代に入ると、澱粉を麦芽で糖化して作る従来の麦芽糖にに加えて、砂糖を煮詰めて作る砂糖飴が加わり、前者は汁飴と呼ばれ、後者は堅飴と呼ばれたという。このように江戸時代の飴は日本古来の「甘さ」である飴食文化に、長崎におけるポルトガル・オランダ・中国船の輸入品として登場する砂糖を原料とする外来食文化が影響を与えたものであり、近世における砂糖食文化と密接にかかわっているといえよう。
江戸時代の飴の種類と製法
江戸時代の飴がいかなるものであったかについては、正徳2年(1712)序の『和漢三才図会』の飴の項によれば
飴ハ麦ノモヤシ或穀ノ芽ヲ諸米と同ク熬煎テ而成ス
とあり、糯米(もちごめ)等の米に糖化酵素として麦モヤシを加えた従来の水餅(麦芽水餅)が紹介されている。(以下略)
糯この『和漢三才図会』にはこの絵の記載が見られる。
引飴といって「白飴」は二人がかりで何度も牽くことによって空気を含ませた飴であるとしている。このように江戸時代には、砂糖を原料とする飴の登場に先駆けて、糯米(もちごめ)・麦芽を原料とする従来の麦芽飴でありながら、煮詰めるのみならず牽引して空気を混入させる技法を用いた堅飴が発明されたのである」とある。
菓子屋
絵は落雁を木型に入れて作っているところです
唐落雁の作り方か次のように記されています。
「唐落雁
一つ上餅米粉百目
一つ太白砂糖八十目
一つ煎じ砂糖
上記粉の製しようハ餅米を一粒づつ択て強餅に蒸よく干上がりて一粒づつはなれるを鍋にて白く煎り臼に挽いて羽二重にてふるひ遣ふなり。さて上に示した粉と砂糖に煎じ、砂糖を入れよく揉て粉合をまたよくもみ交ぜ種々の形に盛る也。色合いはいろいろにするべし」「古今新製名菓秘録」
饅頭屋
饅頭の皮には米と小麦とがあったようで、『古今新製名菓秘録」には、
「一 糀一升但し常の糀とハ別なり饅頭椛とて別にあり一 餅米極上白ニ升」
とあり、「古今菓子大全』には、次のように記しています
「まんぢう、小麦の粉をあま酒にてかたくこねやハらかにもみ丸ひろめ中にあんをつつみいろりに火を置夏ハ一時冬ハ三時程あたため其後こしきにならべむし申候」
その他の饅頭には、次のものかありました。
「蕎麦饅頭江戸近年ノ制ナルペシソバ粉ヲ以テ皮トシ般来霜糖ヲ以テ小豆餡ヲ製シ精製也形小ニテ貴価也
蕎麦饅頭ジャウョマンヂウト云京坂近年ノ製ナルペシ同前上製也山ノイモヲ以テ皮トス以上ニ品ハ茶客専用スル所ナレドモ奢侈ノ時ナル故ニ凡ノ時ニモ食ㇾ之」(『守貞謾稿」)
『伊勢町元享間記』には、寅(宝永七年)四月九日町寄合入目覚と記し、
「一、十五匁おぼろまんぢうニ色にして百五十
一、十匁うづら焼 百」
なお鶉焼については『日本の菓子』に元治年間の写本の説明として、次のような引用文が掲載されています。
「餅仕立玉子形焼目付常あん入、同、嵯峨饅頭、常のまんぢゅうの皮むき朧まんぢう仕立、赤白、黄の色、朧饅頭は皮を厚めにして蒸して薄皮をはいで餡が朧に透けてみえるもの。」
出典・料理本「鼎左秘録」嘉永五年 筆者不明