homewatchimagepaint2017pre


  現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。 青色の太字をクリックすると 、画像が表示される。

 江戸の職人 第三話「住」の部2020

人足
「手伝人足 京坂ニテ土木ノ雑務ヲ業トスルノ雇夫也江戸ニ云仕事師ト同ジ者也
一日雇銭皆必ラズ自食ニテニ百八十文ヲ定トス蓋朝出居残リ等ニテノ増銭スルコト此一
倍或ハ半倍スル也
 京坂ノ手伝人足火事場ノ外ニハ印半天ヲ着セズ平日生業ニ出ルニハ弊衣刺子等ヲ着シ腹
当ハ江戸風ノ物ヲ着ス
 又江戸ノ如ク町抱へ店抱へ或ハ半抱本抱ノコト無レ之」(『守貞謾稿』)
 絵は家を建築するところで、遠景に大工、木挽、石工が見え、事前には鋤、鍬を持った
人足が土を掘っています。
 絵の人足の使っているのは関東鋤で、材質は松、刃先は鉄で、台に釘で打ちつけてあります。
(出典・読本『白糸冊子』文化七年葛飾北斎画)

地形師(じぎょうし)
 地形は地ならし、地がため、胴付ききともいわれ、家を建てる前に地面をならし地固めする ことです。
 地形の前に上地の神を鎮めたり厄除けしたり、いわゆる地鎮祭を行います。地鎮祭が終わ ると大勢の職人衆による地形固めが始められます。地形はまず丸太で三階櫓に組み、その真 中に地盤固めの地形柱(絵の左の太い柱)を入れます。その柱の根元に綱をつけ、綱の片方を櫓のところの轆轤(現在は滑車という)に通してこれを大勢で引っぱり、柱を高く上げては綱を放して、ドスンと勢いよく上台石の上に落とします。柱の根元には「根取り」がいて音頭取りをし、柱を突く場所を決めてかかります。このとき綱を引く「引子」は地形唄を歌います。
出典の文に、
「いよいよ、じぞうどうこんりゅうはじまりきんむら江戸よりろうにやくなん女さんけいおびただしくおどうつきをしける。」とあり、また根取りが音頭をとる「ヨヲイサ、アレコレハノサ」もう一人は、「ヤアイ、しめろヤイ」とあります。
 つまり地蔵堂建立の地形の場面で、右に綱を引いている老爺、老婆は信者です。絵では轆轤が一個しか見えませんが、実際は四か所に取付けてあり、綱を四方から引っばるようになっています。根取りたちは釘貫つなぎの半天、腹掛に股引か脚半を着けています。この釘貫つなぎの半天は地が鼠色、紺の釘貫つなぎ形染めで、文化以前の火事場用のものでしたが、鳶、人足は平日でも着ていました。
 地形柱は、人家を建てるときのもので長さ約十五尺、太さは末口約六寸、材は主として松
です。絵では見えませんが、地形柱の上には鉋屑で作った御幣をくくりつけてあります
(出典・黄表紙『延命長尺出世米饅頭』天明頃勝川春好画)

大工その一
『頭書増補訓蒙図彙大成・人物』
 「エは百工とてもろもろの細工人の惣名なりエ匠ともいふ木工ハ大工なり」とあります。
この絵はは享保頃京都の絵師西川祐信が描いたものです。左の釿(ちょうな)を使っている大工は紋付の着物に菖蒲革文の軽袗(かるさん)をはいています。
「カルサン袴ハ百年前(元文ー寛保)武士旅行等ニ専ラ用レ之歟(ヨ)又百年前バカリノ画本ニ、 番匠等専ラ用レ之タリ。」とあります。
 絵中の中央の片肌ぬぎの大工は鉋(かんな)の刃を調整しているところで、「和漢船用集」に鉋のことを、「麁鉋(アラカンナ)中鉋上鉋麁鉋は釿の跡鋸の跡を削者、台の孔ロ広く明たる者なり。中鉋は其上を削ロ少し明たる者、上鉋は又其上を削者、台のロ髪毛のことく明たる者也。又精鉋と云、鉋刀の幅一寸二分、一寸四分、一寸六分、一寸八分、一一寸の者常也。其秀工に至ては三寸、四寸の者を用。」とあります。その他の鉋に短台、面取、丸鉋、反台、鈍丸、溝鉋、ヒプラク、蜈蚣鉋、台直台定木などがあります。現在使われている二枚刃の鉋は明治頃に考案されたもので、江戸時代にはありません。この大工の前にあるのは墨壺と差金(曲金)です。
 右の大工の使っている鋸は横挽きの先丸鋸で、この形の鋸は古くからあり、江戸時代も一 般の鋸として使われていました。
「摺鋸頭尖如ナル木葉者船造木工用之、といヘり。是すりのこきりのことを云なるべし。
つねの鋸にして大中小あり、木の合目を摺合す者也。」(『和漢船用集』)
 右の手拭のすっとこ被りに着物の着流しという姿は、京都に限ったことではなく、江戸で も、天明(1781~89)頃のものにも出てきます。印半纏に盲縞の腹掛け、股引姿の意気な大工の恰好は、幕末も明治に近くならないと見られません。(出典・絵本「士農工商』享保頃西川祐信画)

大工そのニ
 文政(1818~30)頃の大工で盲の腹掛けに絞りの浴衣、豆絞りの手拭を肩にかけています。この時代になると芝居などで見る意気な姿になります。女か頬杖をついているのは削り台で、この削り台の勾配は荒削りから仕上げになるほど緩くなり、最後の仕上げになるとほとんど水平になって、鉋の重さだけで削るものだといわれています。
(出典・合巻「士農工商梅咲分」文政五年勝川春好画)

左官
「左官墁(こて)匠ヲ云也左官ト云コト愚按ニハ昔時内匠寮或ハ木工寮等ノ属ナド墁エノ業ヲセショリ名トスル歟(よ)属ノ字サクワント訓ズ故ニ左官ノ字ヲ用フナラン」(『守貞謾稿』)
昔の弟子入りは三日目ぐらいまではお客様扱いでしたが、四日目からは子守り、飯焚き、
風呂焚き、ふき掃除と雑用に追い廻されます。次の新弟子かくるまでだいたい一、二年は雑
用にこき使われながら、その間に仕事を覚えます。仕事の手始めは才取り(土刺しともいう)
で、次が土こね、調合、鏝(こて)塗りの順序に上かってゆきます。
才取りは下にいて足場の上にいる親方に泥を渡す役です。絵の下にいるのがこの才取りで
す。足場にいて右手に元首鏝、左手に鏝板を持ち、才取りの差出す泥を受け取っているのが
親方です。この仕事は簡単なようですか、土を落とさぬようになるまでにはかなりの日数か
かかります。また受け渡す阿吽の呼吸がむずかしいそうです。次が「土こね」です。絵の右
下の箱が「ふね」と呼ばれるもので、これに「荒土(あらきだ)」(江戸で使う土)を入れ、裸足で土をこねます。凍りつく冬も素足ですから、足が痺れて紫色になるほどのつらい仕事です。こねた
土に藁苆(わらすさ)と角叉糊を入れ、鍬で力いつばい押さえつけるようにしてこねます。昔は専門のこね屋かいました。
土こねか馴れると鏝を持たされ、最初は押込みのなかの壁のような、余り見えないところをやらされます。 (天保14年 渓斎英泉)

漆喰師
 漆喰は消石灰か貝灰を水でこねて、布海苔、蒟蒻(こんにやく)、膠を混ぜ、~切は麻か紙を配合して塗りました。
 江戸の後期は、再三再四の火災から守るために土蔵が漆喰の塗籠式になりました。また店を土蔵のように塗籠めにする見世蔵もつくられました。
 漆喰は屋根瓦にもされました。これは瓦を固定させるためです。

瓦師
畳一畳に高さが三尺の粘土から、五百枚の瓦を取るのが一般たとされていました。九百
度ぐらいの温度で瓦を焼くのか普通です。絵の窯から黒い煙がもくもくと出ています。瓦を
焼く燃料は松と松の葉です。黒い煙は松の葉をいぶしているところで、こうして作った瓦を
ふすべ瓦といいます。焼き上かる五時間ぐらい前に松葉を入れていぶし焼きにすることで、
瓦独特の「いぶし銀」の色になります。
瓦屋の寄進に鬼の首ニッ(豊の蝉)
(出典・名所図会『摂津名所図会』寛政十年丹羽桃渓画)

瓦葺師
 絵の瓦葺きは寺院の屋根です。現在の屋根は、全部京風の引っ掛け桟の瓦葺きです。江戸時代は瓦の下に泥を塗り、瓦を釘でとめた葺き方でした。この釘は鉄釘だと錆びてふくれ上かって瓦を押し割り、水漏れの原因になります上物だと錆びない銅釘を使うそうです。大正の関東大震災のとき泥葺きの瓦は全部落ちて、その反対に引っ掛け桟の瓦は落ちなかったので、地震を境に東京も引っ掛け桟にかわりました。
 絵の右端に畚(もっこ)にのせた黒い泥か見えます。瓦の下に敷く泥は東京の芝浦でとれた「ネバ」という海の土だそうです。しかし現在ではほとんどが荒土を使っているようです。このあか土こねは手元の仕事です。そのほかに手元は、こねた土を屋根に運んだ り、それをのばしたりしました。手元は手伝いのことで、昔から「職人一人に手元一人」という決まりがありました。手元の上が「中葺き」そのまた上が「上葺き」で、ここまでくるには八年はかかるといわれています。
 鬼瓦、巴瓦は「役瓦」といって「上葺き」ぐらいの腕でないと扱わせてもらえなかったそうです。瓦は重ねて焼くので、上の重みで下の瓦に歪みができます。この歪みを合わせながら葺きます。葺き終わって凹凸に見えないようにします。
 危険防止のため鐶(かん:環状の金具)に命綱をつけています。左端とその右隣りと右端の男たちがはいているのは「かるさん袴」(一名伊賀袴)です。旅行のときの武士や、番匠などが着したものです。
(出典・黄表紙「芝全交智恵之程」天明七年北尾政演画)

柿葺(こけらぶき)師
『増訂工芸志料』に次のようにあります。
「板葺 柿葺 杉皮葺
◎板を以って屋上覆うこと其の始め詳かならず。皇極天皇ニ年一千三百零三年(643)天皇命じて板を以って皇宮を覆う。本邦に於いて板を以って皇宮の屋を葺くこと此に始まる〔当時板葺に用いる所の板は柿に非ず、木板なり〕。後世に至りては或は柿を以って屋を葺く者あり、是を古介良布岐(こけらぶき)という。柿を以って屋を葺くこと、其の始め詳かならず。延喜天暦の際、柿を以って屋を葺くこと往々書冊に見ゆ。
◎慶長五年一千二百六十年(1600)徳川家康、大政を奏決す。爾来家屋を葺く制漸く変じて、都下及び諸国の都会の地は多く柿を以って屋を葺き、而して板を用いす〔板は庇、或は仮舎に用いる〕。此の際又、杉皮を以って屋を葺く〔杉皮を以って屋を葺くことは其の始詳かならず〕。柿及び杉皮を以って屋を葺くことは今に至りて益(ますます)多し〔柿を葺くに竹釘を用いる者あり、又柿を葺いて其の上に竹を置き、銅線を以って(たるき)に結束する者あり、又其の竹上に石を置いて銅線を用いざる者ありて、営作の法一ならず」
(出典 ・浮世草紙「世帯仏語 渡世身持 談義」享保20年 筆者不明)

茅葺師(かやふきし)
「草葺は太古よりあり是を加夜布岐という。其の精巧なるを阿邇賀夜布岐という。業を伝えて今に至る。或は稲藁を以って草に代うる者あり、是を藁葺という。或は麦藁を以って草に代うる者あり、是を麦藁葺という。葺工並びに業を伝えて今に至る。」(『増訂工芸志料』)
 屋根葺きの材料には茅、葦、藁、小麦藁等があり、昔は藁が使われていましたが、今では もつばら最高の茅が使用されています。茅には野茅、蘆茅、草茅があります。茅は固い荒地 に育ったものがよいとされています。十一月の霜のおりる頃に刈り取ります。刈り取った茅は一本一本選んで十一通りくらいに選別します。これにはたいへん時間カかかるそうです。昔は村に茅場かあって、茅にはこと欠きませんでした。
 茅のはかり方は一しめ〆、二〆と勘定します。一丈の縄で足でぎっしりしめつけて縛ったのを一〆としました。一坪に四〆を使用します。一人前の職人で一日一坪を葺きあげました。
出典・実用本『民家日用広益秘事大全』嘉永四年 筆者不明 )

建具師
建具師は障子、襖の骨、囓間、格子、連子などを作る職人です。障子は古くは襖、衝立、
舁風などの総称でした。
「唐紙京坂ニテフスマ襖也江戸ニテカラカミト云古ハコレヲ障子ト云大内ニ賢聖障子俗
ニフスマ也フスマ衾也衾ノ形ニ似タルガ故ニフスマ障子ト云ガ本也又唐紙ト云ハ紙面有
紋他紙ト異ナルノ名ナリ凡物ノ異ヲ唐某ト云例多シカラカミハ唐紙障子ノ下略也
格子連子ノ事格子ト云ハ竪横トモ同寸ニ組タルヲ格子ト云今俗ハ是ヲ狐格子ト云又竪
多ク横少ク大略竪寸横尺ニ子ヲ用ヒタルヲ云今俗ハ是ヲ格子ト云」(『守貞謾稿』)
現在の障子は鎌倉時代に出来たといわれ、次のような戸や障子があります。
舞良戸 横桟の多い戸で、玄関に使われます。
帯戸 主として部屋と部屋との間仕切りとして用いられました。
網戸 主に土蔵、倉庫に使われています。
竪繁障子 竪子を特に多く、横桟を少なくした障子です。
中障子板戸 上下を板戸で中央を障子にしたものです。

指物師
  一作㈡櫃箱匣盆等器物ノ者名㈡旋物家㈠又云箱家」とあります。指物師は茶棚、衝立、莨(*煙草)盆、硯箱、半襟箱、火鉢、三味線箱等を作りました。
 指物の技術は江戸初期に上方から江戸に流れてきました。後に江戸指物といわれる独特のものになったのは文化、文政頃です。上方は紫檀、黒檀、鉄刀木(たがやさん)等の唐木細工が多かったのですが、江戸指物は木目などをそのままに、木地を生かした淡白な昧の丹念な仕事が特徴でした。材料は桑、桐、松、杉を好んで使いました。
  糠に釘煎て利かせる指物師(新柳多留)
 指物師はうつぎ(空木)の木釘を丈夫にするために、糠で煎って使いました。うつぎの木釘を作るのは見習いの弟子が焙烙(*ほうろく:素焼の土製の平たい炒り鍋)で煎りました。
 絵の台の寸法は幅一尺、長さ三尺五寸が基準で、厚さは二、三寸です。指物師の持っている金鎚は、軟かい材質の木を使うのでそれに合わせて金質を軟かく作られています。頭にさしているのは「墨さし」です。竹で作ってあり、線を引くために使います。
  やり損なひ出ぬ咳工面する箱屋(後の栞)
 指物師のことを別名箱屋ともいいました。話は余談になりますが、現在では箱屋といえば芸者の三味線箱持ちの男衆をさしますが、それは元治(1864~65)の時代の頃からのようです。江戸時代はこの男衆のことを、「箱廻し」と呼んでいます。
    (出典・職人本『今様職人尽歌合』文政八年北尾紹真画)

箪笥師
簟笥の言葉が使われたのは延宝(1673~81)頃、大阪の心斎橋で売られたというのが最初だそうです。したがって簟笥は、大阪が発生の地となります。それから京都、江戸の順に広がっていったようです。貞享4年(1687)刊の「女用訓蒙図彙」の女器財(おんなのうつわもの)の項目の最初に、小袖櫃の名でほとんど箪笥と同型のものが描かれています。ただしこれは一重です。
 正徳3年(1713)刊の「和漢三才図会」の家飾具の項には「廚子」とあり、幾段かの引き出しが描かれ、横に近世小袖廚子と記されています。これも一重です。
 箪笥が一般に普及したのは元禄以後のことでしよう。特に江戸では火事が多く、長屋住民の多数いた街では衣裳箪笥などを持っ余裕はありませんでした。せいぜい表通りの商人が衣裳箪笥の一棹も持つ程度だったろうと思います。
 箪笥にも都市によって性格があったようで、江戸のものは価が安く、粗末で、京都のものは最も美しく、大阪のものは頑丈に作られてあったといわれます。江戸が粗末なのは火災の多いせいで、その場の間に合わせからきたものだろう、と幕末の西沢一凰軒が『皇都午睡」の中で述べています。
 箪笥には、衣裳箪笥、帳箪笥、茶箪笥、薬箪笥、帯箪笥、野郎箪笥(刀箪笥)、鉄砲箪笥、 能面箪笥、菓子箪笥、下に車をつけて移動に便利な車箪笥があります。
 関東地方は周辺に桐の産地をひかえていたので、使われる木材は桐の木を第一としました。桐は湿気に強いことと軽いこと、それにその柔かい美しさは箪笥に最適でした。
 江戸の衣裳箪笥は桐の素木に鉄の金具を打ったものです。多くは二つ重ねで、上が観音開き、下の引き出しが二杯(杯とは引き出しの数)です。三つ重ねは江戸時代にはなかったようです。観音開きの金具に家紋をつけたものなどもあります。絵の簟笥は黄表紙、合巻によく描かれているものです。
 絵は箪笥師が金具の錠前の釘を打っているところで、この釘は頭のところが丸くなっている太鼓釘と呼ばれる釘です。一棹の箪笥に五百本から千本ぐらい使ったそうです。当時の釘は、釘専門の釘鍛冶屋が一本一本打ったものです。
  さりとハさりとハ
    漸と箪笥屋の奥二畳(明題選)
       (出典・番付『新板諸職人絵番付』年代不明筆者不明)

畳屋
出典の文に、次のようにあります。
「畳ハ備後表をよしとす備後国松永浦草深浦より備中国笠岡村浜まて備中国笠岡浜より大坂まて大坂より江戸三またまての運賃 宝永の比にくらふれは 享保の比にいたりて一倍にいたれりといふ」
 畳屋は畳を針で刺して縫うところから畳刺しともいっています。
 古くは藁莚(*わらむしろ)、蒲莚(*がまむしろ)、藺草(燈心草)と種類は多かったようですが、そのなかで藺草(*いぐさ)が一番よく用いられていました。
 最初に薄畳(薄縁:うすべり)が使用され、奈良時代には厚畳が出来ていました。平安時代の畳は一に貴族の座具でした。寝殿造の随所に厚畳が敷かれ、それを適宜移動して使用しました。主殿造では部屋の周囲にだけ畳を敷き並べていました。室町時代からは書院造となり、次第に小部屋かふえ、畳が敷きつめられるようになります。一般の庶民が床一面に畳を敷きつめるようになったのは、江戸時代になってからだといいます
 畳屋は畳刺しといわれるほか、床を作る人を「床師」、畳表の仕事をする人を「ツケ師」ともいいました。
 床を作るのは「床踏み」といわれ、藁は短いのか固くてよい床か出来るそうです。床作りは藁を三、四、五段と並べ、その上に薦(こも*水辺に生えるイネ科の多年草マコモの古名で、それを粗く編んでつくったむしろをいう)を重ねて縫います。この縫うことを「かけ縫いーといって、普通の畳は八通りですが、上物になると十一通りから十五通り糸を刺し通します。慣れないうちは裏糸かなかなかまっすぐに並ばないので苦労するそうです。
   畳刺し肘も道具の内へいれ
 この川柳は畳屋の動作をいったものです。縁を縫いつけて青苧(あおそ*麻の茎の皮をはいで白くさらし、細く裂いたもの)の糸を締めつけるとき、肘で強くトントンと畳を叩きます。一人前の職人になる頃は肘が固まって黒くなり、俗にいう「畳屋の肘」になります。
 備後の藺草が上物であるのは、冬暖かく、雨が少ないという気象条件に恵まれているからです。藺草は一気に刈り取って、染め上といって埴土(はにつち*きめの細かい黄赤色の粘土。瓦・陶器の原料。また、上代には衣にすりつけて模様を表すのにも用いました。赤土。粘土 (ねばつち) 。へな。はにつち)の泥の中へ漬け込みます。これによって藺草の張りと艶が出るそうです。
 畳職の秘伝は「一口、二はだ、三がまち」といわれ、「ロ」はつけのこと、「はだ」は全体の均整、「かまち」は隅の仕上げをいいます。畳の寿命は、手作りの床は三十年もち、昔の畳職人は一日二枚ぐらいを仕上げたといいます。
 畳を四畳半、六畳のように敷くのを廻し敷き、大広間のように並べて敷くのを縁敷きといっています。
(出典・絵巻物『職人尽絵詞」文化元年鍬形蕙斎画)

井戸掘
『風俗画報』八十八号に、井戸掘りを次のように説明しています
「〇井戸掘は専ら桶ゆひ職の営業に属し家々の依嘱に応して其地に至り数人にて之を穿つ
地盤の良否依嘱の如何によりて浅深の差あり其浅きは一二丈深きは数十丈に至るあり殊に
掘抜と称するは足代を構へ鉄錐(てつつひ)を聯接し地底の岩石を鑿(うが)ちて噴水せしむる者なれは最も手数を要す偖本図にあるは其職の者此所に新に井戸を掘むと思へは其地を清浄にして幣帛(幣帛)を樹て天気晴朗の夜地上に耳を接し地下の水脈の有無を験する所を写せるなり今は此の如きことを為さて地盤を択(えらび)て直ちに鍬を入るるなり〈略〉農政全書云井及ひ泉を掘に水の従て来る所を視て其土色を弁す赤埴土なれば其水の味悪く散沙の土は水の味稍淡なり黒埴の土は其水良し若沙中に細石子を帯る者は其水尤精良なり井底更に細石子厚さ一二尺を加れは能く水を清くして味美なり若し井大なる者は中に金魚或は鰤数頭を飼養し水の味を美ならしむ魚水虫及ひ土の垢を食ふの故なり」
京都と江戸では井戸の材料、呼び方に違いがありました。京都では地上に出る井筒を井戸
側といって、豊島石を掘り抜いたものです。瓦に竹の輪をはめたものを上中に埋め込みました。江戸では地上に出る井筒を化粧側といいます。地上の化粧側はひば材を使った桶で、土中に埋めるのも桶でした。(出典・実用本「民家日用 広益秘事大全」嘉永4年 筆者不明)

植木屋
絵の出典の文に、次のようにあります
「新撰百工図解植木屋山下重民
 植木やは。樹木を培養し。又は庭園を造るを業とする者にて。漢名花戸若くは園丁とい ふ。但植木やとは近世の通称にて。ふるくは庭作り花作りなといへり。〈略〉
 さて方今園丁の業務に於ける大部分をいへば。鉢物師苗物師庭作りの三とす。鉢物、師は松、蘇鉄、万年青(おもと)、蘭、牡丹等の盆栽を専らに作り。苗物師は。庭園に種。并に甁花に供する草木の苗木を養ふを専ら業とし。庭作りは。庭園を造るを以て専ら務とす。此の造りたる庭園は。絵画の山水と相左右し。数歩の庭地に於て。能く山水清曠の趣を寓し。
熱閙の市街紅塵万丈の間に在りて。人をして丘岳に遊ふの思あらしむ。其の亭樹の構造よ
り。籬笆、門塀、燈籠の制作排置に至るまて。各種の様式ありて。風流の看を具へざるは
なし。」
 絵は冬庭の手入れの様で、手桶の奥の松葉は敷松葉(霜よけのために庭に敷く枯れ松葉)、左の植木屋の持っているのは花鋏で、霜よけの手入れをしています。手桶の中にわらび縄(わらびで作った黒い縄)が見えます。
(出典・風俗本『風俗画報』百三十四号明治三十年尾形月耕画)

竈師
『守貞謾稿』に次のようにあります。
「京坂竈之図
 竈ヲ俗ニ『ヘッイ』ト云又訛テ『ヘッ、イ』ト云也。図ノ如キヲ『三ッペッ、イ』ト云竈ロ三ツアル故也家内人数三五ロノ家大畧用レ之多人数ノ家ニハ竈ロ五ロ七ロ九ロ等アリ五ッペッ、イト云也。
 竈土色黄色也黒ヌリ無レ之乂銅竈ヲ用ヒズ乂京坂ノ竈ハ場ヲ前ニ床ヲ背ニス江戸反レ之乂図(ア)ノ如ク鉄漿壺ノ座アルコトヲ必ズトセズ不レ製レ之者亦多有レ之又竈ロノ前及ビ竈底等平瓦ヲ敷ク竈ロノ周リモ亦瓦ヲ用フ又竈台多クハ杉材ナリ。
江戸竈図俗ニヘッ、イト云竈ヲ銅壺ト江戸ノ竈ハズ場ヲリ多人数ト雖ドモ竈ロ大略三ッ竈也。
 二十人許以下用レ之三四十人ニモ用レ之モアリ。京坂ノ如ク七九ロ等ノ竈アル者巨戸ト雖ドモ太ダ稀トス。以下略。上記文面にある複数の窯の挿絵も省略」
 絵の筆者川原慶賀は長崎の人なので、これは長崎地方の 竈です。同じ関西でも京阪とはすこし形が違っています。 手拭で片たすきをして鏝(こて)で塗っているのは左官で、竈塗り ではないようです。黒襟丸髷の女が一斗だきの釜を洗って います。
  へつついのけがは左官の小手療治(新編柳多留)
 (出典・肉筆『職人づくし・左官』文政頃川原慶賀画)




 

 
Copyright 2013 Papa's Pocket All Right Reserved.