元日とあって大勢の人がこの神社の初詣で賑わっていた。動画で見られるように山門前は長蛇の列ができ。整理の警備員の指示にしたがって、大鳥居をくぐって山腹の本殿に繋がる急な階段へと4列縦隊で進んでいくほどの混雑ぶりで、杖をついての撮影は困難を極めた。最初考えたのは初詣の模様を絵に収めるのが目的だったが、参拝者の列に加わらないと本殿に行く道がないことが分かり参拝者の仲間入りをした。周りを見渡すと意外と若い人が多いのに気が付いた。今どきの人は神離れしたのかと思っていたが、決してそうでなく、日本の伝統行事がこうして守られ引き継がれていくのだと一種の感銘を覚えた。「ニ礼ニ拍手一礼」だよなどと囁く声も聞こえる。
ここでこの神社の由緒について調べてみた(wikipedia)。
「本牧神社(ほんもくじんじゃ)は、横浜市中区に所在する神社である。同区本牧地域の総鎮守。 旧称、本牧十二天社。旧社格は村社。例祭の翌日に行われる神事であるお馬流しは神奈川県指定民俗文化財に指定されている。
由緒・歴史
創設時期については諸説がある。 本牧神社由緒書によると、建久2年(1192年)、鎌倉幕府を開設した源頼朝が、鎌倉から鬼門の方角である北東にあたる本牧の地の鎮護のために朱塗厨子を奉納したことが始まりであるとしている。 江戸時代に本牧神社の別当寺であった多聞院の由緒書によれば、弘長三年(1263年)元旦に本牧の海岸に漂着した大日霊女命の像を祭ったことが始まりであるとしている。 新編武蔵風土記稿では、永禄2年(1559年)1月8日に、本牧村の漁師松本次郎左衛門が漁をしていた際、網にかかった十二天の像を本牧に隣接する北方の若宮八幡宮に奉納し、後に本牧の総鎮守にしたとされている。
鎌倉時代には将軍惟康親王、室町時代には関東管領から寄進を受ける。天正19年には、本牧十二天に12石の寄進を受ける朱印状を徳川家康から与えられた。江戸時代には神仏習合によって多聞院の別当に入ることになるが、明治元年の神仏分離令によって、多聞院から再び分かれて独立した。
本牧神社は、元々は東京湾につきだした高さ30メートルほどの本牧十二天の丘(現・本牧十二天緑地)の麓に所在していた。太平洋戦争の際、本牧十二天の丘も空襲に遭い、社殿、境内を消失する。氏子によって仮社殿が造営されるが、戦後アメリカ軍は横浜に進駐し、昭和21年から本牧十二天を含む本牧地区はアメリカ軍の住宅地区として接収された。昭和29年には、氏子が結成した本牧神社復興奉讃会による寄付が行われ、本牧町へと仮遷座した。昭和57年、アメリカ軍から本牧地区が返還され、横浜市による区画整理事業が始まる。平成5年、所在地を本牧和田へと移し、社殿が完成した。
祭神
神仏習合時代には、日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大日財天、閻魔天、帝釈天、羅刹天の仏説十二天を祀っていた。 明治元年には神仏分離令によって多聞院と分かれ、明治5年から大日霊女命を祀っている。明治42年、本牧台にあった八王子神社(祭神:大山津見命)、宮原の八坂神社(祭神:建速須佐之男命)、間門の浅間神社(祭神:木花咲耶姫)を、大正7年には本牧台の日枝神社を併せている。明治42年には近隣の牛込の鎮守であった八王子大神を合祀、また八幡大神も合祀している。境内末社として、宇氣の稲荷社、熊野速玉社、本牧水天宮、本牧天神社を祀っている。
お馬流し神事
本牧神社例祭であるお馬流しは、茅を編み込んで作ったお馬と呼ばれる馬頭亀体の人形に厄災をのせて、根岸湾に流す 神事である。1566年から行われていると伝えられている。お馬は旧本牧六ヵ村と呼ばれる間門、牛込、原、宮原、箕輪、台にひとつずつ、計6体が「やぶ」という屋号をもつ氏子によって製作され、例祭初日のお馬迎え式と呼ばれる儀式と共に神社に奉納される。翌日、お馬送り式の儀式と共に奉戴車に乗せられたお馬は、本牧漁港から祭礼船に載せ替えられ、根岸湾の沖合で流される。お馬を流した祭礼船は、各船が競い合って港へと戻る」と少々長い文章になったがこの神社が先の大戦後紆余曲折をへて今日に至っていることがよく分かる。周囲はおしゃれな高級住宅街だが、かつては漁師町であったのであろう。そうした末裔たちと山門の大鳥居を寄贈したマイカル本牧の支えもあって今の姿があるのかも知れない。八百万の神が祀られているような神社だからこれからも多くの人たちが支えていくことだろう。2020.1.6