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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

  筆まかせ現代訳 第四十ニ話 言語の変遷

これ以降は筆任せ第2編(明治23年以降)に入る
 筆まかせ第一編において 帰郷中目撃事件の中に 私は松山語中に東京語のまじった事を言ったが、日本に方言が多いのは藩閥の余弊であるから、藩閥が終わって全国が統一され、殊に汽船、汽車の便がよくんなったことで、交通が頻繁になった。そのおかげで言語も追々一様になるの傾向があるが、そういうことだから何地方の語がどれだけ全国に流行するかということになると、どうしても首府である東京の語ということになる。何人でも一度や二度は出かける東京において地方言は通用しないから、多少東京語のまねをすることになってしまう。また地方に出ても東京語ならば見苦しいことはない。 イヤむしろ威張りたい位だから、いやしくも多少東京語を解する者は皆これを使用するのである。
 甲地の人が乙地にあって自分の故郷の方言を談じても通用しない。そこで、その地の方言を習うか或は東京語を話すニ用途があるだけである。
ここにおいて東京言葉がますます勢力を得るようになる。殊に東京語はいはゆる江戸ツ子の使用する簡略な早口でしゃべる、つまった言葉だから、いよいよ忙しさが増す、開明世界においては、ねばりづよき、なめんだらな上方語よりは東京語を使うことが「よい」とされる。
 上のような理由で、各地方の言葉は漸次東京語の方へ向って変遷するのを免ることのできない傾向にある。我が松山の老翁の話を聞いてみると、五十年前と今日とは談話の長短ただに一倍二倍のみだけの話ではない。即ち昔は道路で人に会った時には必ず立ちどまって天気の挨拶などをするだけでなく、且ツその挨拶はスラスラと言わないで、 一語一語の間にエーといふような言葉を入れて、極めて時間を取るわけである。
 私が記憶するものの中でも、段々に変わってきている言葉がある。私の幼少時には「マツチ」の事を「唐人つけぎ(または唐人つけだき)」といったものだが 数年の後に「摺附木」と改名し、今日に至っては三歳の小児から八十の老翁までもが「マツチ」といへばそれが何なのか分かるようになった。
 また汽車の事を岡蒸汽といっていたが、今は一般に汽車という。石炭を「ゴへダ」といったが、今は大方石炭という。 東京でいふ「ハタキ」を松山では「ボンデン」または「ゴミハライ」といったが 今は「ハタキ」といってもその意味位はほぼ通ずるようになったとか。また「大変」といふ語は東京では普通の言葉であって「甚だしき」の意味であるが、この頃は少し松山に入りこんでいるようで「よしにおし」というのが松山語であるが「およし」という松山人も出てきたり、松山では丁寧な返事は「へイ」のみだったのが 「ハイ」という言葉が殆ど普通になった。
 「故に」というのは、松山では「ケレ」という。今では東京語「カラ」をいう者が多い。松山語で小児の玩弄物(オモチャ)を「アソビモノ」といふ「オモチャ」という語が入ってきたのは十年ほど前なのだが、今は「オモチャ」といはぬ人はないまでになった。
 外国人の事は「唐人」外国の事は「唐」といってきたものだが「西洋人」「西洋」と女子供でもいう。「異国」といわないで「外国」というものもふえた。
 徒刑といわないで懲役といい、役人といわないで官員といい、飛脚といわないで郵便配達というなど枚挙に暇がない。またこれは言葉にあらわざれていないが、私が出京後著しく変っことが二つある。その一は帽子である。明治十六、七年頃は帽子をかぶる者は官吏に限っていたが、明治十八年帰省の時には最早書生が帽子をかぶっているのを見た。
 またもう一は五月の鯉である。松山でも昔は吹き流しなど立てていたところがあったが、私が覚えて以来殆んどないといってもいいくらいである。幟さえもニ、三間位立てているだけである。しかるに、この頃に至っては五月の節句には子供のある家には鯉を立てない家はないという。いつの間にかこんな風になるものか、実に不思議なことである。
2020.1.5

 

 

 

 

 

 

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