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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ現代訳 第四十四話 試験の「ずる」


 東京は東京である。都は都である。私は東京の学校に入って、いわゆる「ずる」の多さには驚いた。ズルとは何であるか。これは試験に際して自分の解けないことを隣の人に尋ねたり、あるいは隣人の試験用紙を盗み見たりすること。あるいは数学の答えを見て誤りを修正したりする類のものである。
あるいは他人とは関係なく、一人で書物または手帳を机の下で開いて答案を作るという手もある。
これは普通一般のことで、こうした行為(*カンニング)を見ても怪しむ者はいない。自分の知らないことを他人に聞くことを恥としない。人に聞かれたことに答えないのは恥とさえなっている始末だ。
 これらのことは私が郷里にいた時は非常に卑しむべきことであって、こんなことをするものは共に進級できないほどなのだ。
 私は初めは正直にやっていたが「朱に交われば赤くなる」とかいうように、半年もするうちにとうとうその仲間入りを命じられて、明治17年大学予備門に入ったころにはこれ(*ずる)を利用した。その後明治18年の暮頃のことだった、急に感ずることがあって前非を悔やんで、ふっと思い止まってから後は全く自分の力のみに頼ることにした。
 自分がこのように思い直してからは、上座(*自分の先輩)のそうそうたる人物が、ひそかにノートを盗み見るような行為を見て、ますます胸わるき(*胸糞が悪い)思いをした。それから去年の春までの間で、たった1回ちょと書物を見たことがある。もっともこの時は教師が教場を去った後のことで、生徒たちは皆わやわや(*ざわざわ)と話し合って、公然と書物を見ていた時のことである。教師もまたおそらく生徒にずるを許す下心があってのことだったのだろう。そうだと言っても書物(漢書だった)を見た後は実に不快な感じが起きたものだ。
 去年の春以降は病で欠席したので、学科上不都合な点が多く、従って時々友人の助言を頼みにしたことがある。やむを得ないことではあったが、面白くないことではあった。不正をして一番とか二番の違いを争う者にあっては、そんな心の卑しさはあってはならないことである。
 学問とは上席(*一番)を取るためだと思う人が沢山いるが、詐欺(*いかさま)をおかしてまで一番二番を争うというのは見下げ果てた・・・。こう考えて顔が赤くならない人が我が学校にも幾人いることやら。 2020.1.20

 

 

 

 

 

 

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