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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ現代訳 第四十五話 手習いの時代


 書生(*しょせいとは、勉学を本分とする者。 漢語本来は、勉学をする余裕のある者という意味合いだったが、日本では主として明治・大正期に、他人の家に住み込みで雑用等を任される学生を意味した)の広がりや現状から察するに、新しい時代の書生ほど学力が進歩し、知識も増しているのは大変大きなことだが、ただ劣っているのは漢字の力と漢字を書くことである。昔の子どもは読書をするよりは手習いが第一であるとされていたため、拙筆といってもかなり上手かった。私より六、七歳年上の者はすべて書くことが巧みであった。私よりも四、五歳年少の者は、私たち同年齢の者より下手である。
 私も六歳頃から佐伯叔父のところへ通って御家流を習い、八歳頃智環学校(*明治27年松山第一尋常小学校と改称)に入学したが、この頃は同校は宝竜寺にあって、課業は習字一辺倒だった。その後間もなく習字の専門は終わり、小学校を上下二分類とし、各八級(*クラス)編成とした。習字は毎日一時間となった。しかし、上下の上級では手本は自由選択で学べということになり、私は武智五友先生の手法を学んだ。
 その頃歌原大叔などのすすめがあって、毎日学校が終わると、中の町の山内氏のもとで習字をした。ではあるが、私は生来不器用で書も上手くないので、在京の加藤叔父などから貴様の手紙の字は飛んでいるようだなどと書き送ってきたり、私の従弟も私に習字をすすめる有様であった。
 私は十五、六の時も竹村、太田、松島、白方、森諸氏と共に書画会といって毎月一度各自の家に集まって会(*習字の)を開いたりもした。こうしたことが私の不味い字でも多少は上達させてくれた。それでも私がいまだかつて習ったことのない画(*絵)や洋字(*アルファベット)のようなものはとても下手くそで、普通の人並みにはとても及ばないものであった。 2020.1.28

 

 

 

 

 

 

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