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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ現代訳 第四十七話 悟り(1)


 私が猿楽町の下宿にいるときのことだから、明治19年の秋のことだった。金沢の人、米山保三郎氏が初めて私の下宿にやってきた。同氏(*彼)は同級(*同学年)の学友でしかも同組(*同じクラス)だったので、多少話をしたことはあるが、その多くは冗談を言い合った仲だった。彼は恐らく私がどんな人間だったか知らなかったであろう。私もまた思うに、彼の優れていることは数学だけ(彼の父は金沢では有名な数学者だという)で、その他は単なる子供に過ぎなかったと覚えている。その彼が突然私の下宿にやってくるとは思いの外であった。
 私は彼を案内して私の部屋に入って、談話(*よもやま話)をはじめて、私は一つ驚いた。何かというと彼の話は数学上の最も高位の部分、微分積分に話が及んだことだ。
 二つ目に驚いたことは、何となれば彼の話は数理より哲理に移ったことである。私は彼が哲学を知っているということは意想外(*思いの外)の出来事だった。
 三つ目に驚いたことはというと、彼はすでに哲学書の幾つかを読んでいたことで、少なくともスペンサーの「哲学言論」を読んでいたことだ。
 その上最後に最も驚いた四つ目の驚きとは、なんと彼の年齢が私より2歳も若かったことである。私が在郷の時は朋友中で(*友達仲間の中で)最も年が若かった。この若いことが私の最も自慢なことだった(知っている人の中で唯一園田重賢氏のみは私より数か月若かったと記憶している)。
 ところが私が東京に来ると共立黌(きょうりつこう)の時も予備門の時も常に年少者と机を並べた。ただ同学年生の中には郷里にいた時に期待したような優秀な生徒は見つからなかったので安心した。ところが米山氏は私より年下であるのに、その語るところは我らの夢想だにもしない高尚超越なことだったから、この時私の心は生まれてから知らなかったような刺激を受けた。
 この日の晩餐はは彼と一緒に松本楼の西洋料理を食べて、再び私の下宿に来てもらい夜半まで談話して、それでもまだ私は彼と別れたくなくて、「私の家に一泊していってくれないか」というと、彼はたやすく「泊まりますよ」と答えてくれた。翌朝彼は帰った。
 この日私は上級生とベースボールの試合をするはずだったが、この時はやる気がなかった。友達が来てすすめるので、渋々学校に断り(*欠席する)に行ったが、幸いにもこの日の試合は中止となった。それでもこの時の精神状態は二日ほど引きずったほどだった。 2020.2.14

 

 

 

 

 

 

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