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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ現代訳 第四十八話 悟り(2)


 その後細井氏との交際は親密に続いたが、彼は私より数歳年を取っていたのでその博学には驚かなかった。彼の話は理学的な談話でその学識の広さと熱心さは、彼の談話の口調と表現方法に表れていた。と言っても彼の学識の広さは昔から変わらないとしても、その幾分かは北尾次郎氏によって力を得たものである。そして、私が多少理学上の学識を広めることができたのは全く氏の力によるものである。
 このように簡単に刺激されるのは何故だろうか。これは私の学の無さによるものだ。見識が無いからだ。私の心が浮ついているからだ。しかしながらこれらの刺激は私のためになる大良薬であって、害にならないものだと確信している。
 明治21年の秋、私は始めて常盤会寄宿舎に入り、豊島氏、山崎氏と相部屋となった。その後豊島氏は退所して、その代わりに岡村氏が来た。ある時新海氏が私の部屋にやってきて小説について談話したが、彼の言うには「私は今まで好んで小説を読んできたが、未だ小説について何らの見識も持っていない。雲烟過眼視(*うんえんかがんし:物事に過剰に執着することがないこと。または、物事にとらわれすぎずさっぱりしていることの中国の言葉。「漫然として読んでいる」の意)するだけである。今君の話を聞いて始めて小説の何たるかを知った」云々と、終には彼は岡村氏に頼み込んで座席を変えてもらって、その後は長く新海、山崎の二人と一緒に机を並べたということだ。
 新海氏は神経過敏で簡単に物事に刺激をさせられる性(しょう*たち)なので、一事の起こるたびに、一言を発するたびに、或いは喜び、或いは怒り、或いは感じ、或いは泣き、その挙動は半狂乱の人に似ていた。彼は議論が始まるや、その語気には怒りが含まれ、その酣(たけなわ)に及びては(*議論が最高潮に達すると)精神状態はいよいよ激昂(げきこう)し、議論が支離滅裂になり、終いには議論が始まる時にはつとめて始めからこれを避け「最早これにて終了」と言えば、彼は「人を馬鹿にしている」ということでその怒りは一様でない。私もこれにはほとほと困り果てた。
 ある日、上野に行く道すがら何かの議論が始まったのだが、追々激論になり、一時間余りも教育博物館内の庭園で論じ合った。私は何分にもうるさくなり、どうにかやめたいと思ったのだが、彼はますます迫りくるので、仕方なくつづめ(*簡単にまとめる)をつけ一緒に帰途についたが、道すがら私が話しかけても彼は一言も発しなくなった。と言ってもこれは一日か半日の事であって、翌日になれば全く後を残さないで交際はますます親密になった。
 私もはじめのうちはかれから議論を吹っ掛けられ、ある時は腹を立て、ある時は怖くなり、ある時は嫌になったが、かれの議論好きも追々減ってきて、私の気持ちも追々平穏に傾いていった。
 私が思うに、釈迦は提婆(*提婆達多<ダイバダッタ>は数々の悪業をし、そして最後には自分の指に毒を塗って釈迦さんを亡き者にしようとしたが、それが為に自分が無間地獄へ堕ちてしまった)のために幾度も困苦を受けたのだが、釈迦が心を練る事については提婆は関わりを持って貢献しているといえよう。
 私は今自分を釈迦になぞらえ新海氏を提婆になぞらえるわけではないが、私が想を練る上においては実に新海氏の力が大きかった言える。 2020.2.21

 

 

 

 

 

 

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