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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ現代訳 第五十三話 六歌仙の比較(2)



 殊に今夜は時間がありませんから、それを口実として批評は全くお預かりといたしまして、失礼ですが戯れに諸君を六歌仙に比較して見ようと思ひます。 先づ1番目の佐々木君を喜撰法師に対比することは全く縁のない事でもあるまいと思はれます。 貫之はこれを評して 「言葉のはじめ終りたしかならず 」と言いましたが、佐々木君のも幾分かその趣があるように見えます。 我々の目から見ると 「我庵は都の巽巳(たつみ*南東)」云々と分りきった事を言ったようだが、 君の今夜の議論も多少このそしりを免れまいと思はれます。
  次(*2番目)の喜多村君を在原業平に対比しましよう。 『古今集』にはこれを評して 「心余りて言葉足らず 萎める花に香残れるが如し」 と言っております。 君は懸河(けんが)の弁(*水を上から流すように、とどこおりなく弁舌を振るうこと)を振って愉快に雄壮に説き及びました。 その言葉の巧なる 古鋒(*筆先)が鋭いのには誰も感服しましたが 、その言い回しのところは少し足らないように思はれました。
 3番目の高田君を僧正遍昭に対比いたしましよう。 貫之はこれを評して 「言葉巧なれども誠少し」 と言いましたが 高田君の演説は実に巧妙ですけれども、 時々諧謔(かいぎゃく)を入れられる処は、いわゆる誠少きものに相当しましよう。 貫之は悪く言ったように聞えますが、私が見ては遍昭の歌は誠少き所が面白い所であります。 君の演説もその諧謔をはさまるる所が面白い所だと思はれます。
 4番目の菊池君を私は文屋(ぶんや)の康秀と対比してみます。 これは「その言葉つきいやし、 商人のよききぬ着たるが如し」と評してあります。 今菊池君が腕の力を以て鬼神を挫(くじ)かるるとも 諸君は別に驚かれますまい。しかし、菊池君が筆の力を以て目に見えぬ鬼神をも泣かしてしまうような三十一文字(*みそひともじ五七五七七)を論ぜらるるまでに及んだので、 実に諸君には意外に思われたことでしょう。ここが即ち商人のよき衣をきたる所です。 これも悪くいったやうですが 、一方から見るとそうでもありません。 たとえ商人たりともよき衣を着るのは それだけの働きがあるのです。 即ちその着る所がえらいのです。
 5番目のの石井君を残り物ですから小野小町に対比してみましよう。 しかし、その理由がないではありません。 君の演説は小町の如く、実に巧にしてしかもやさしい所があります。
 そこで、まだ一人残っていますから、少し越権の所為(*行為)ですが 、私は自分を大伴黒主(おおとものくろぬし)に対比しましよう。 黒主は御承知のように六歌仙の中でも下等なやつでありまして、草紙洗(そうしあらい)などと言って小町の歌を盗んだといふ位ですから随分ひどいやつですが 、丁度、私が今晩、 諸君の演説を盗んでいい加減にしゃべるのと似ております。続く 2020.3.31

 

 

 

 

 

 

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