これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。
明治23年1月23日、人々が止めるのを振り切って、とうとう故郷を出て、東京へ旅立つことになった。この日は平穏丸という大阪商船会社では最下等の船だという話だったが、思い立った日に旅立たなければまた差しさわりが出るかも知れないので、松山停車場へと急いだ。停車場に「強風が起こる虞(おそれ)あり」という警報が出ていたが、そんなことは一向に構わないことだった。黒煙の中に松山城が見えた。
松山の小町(*小野小町)もあとになり平(*在原業平)や
きせん(*喜撰法師)のらん風に大伴(*大伴黒主)
正午になって三津で降車したが、船は中々来ない。新浜のいけ巣へも暇乞いに行き、塩湯に入り晩飯を食い、久保多に帰ったが船は姿を見せない。
{抹消 これではいつ神戸に着くのか覚束ないので一句
松山をたつとすぐきつ三津か浜
いつ多度津へはつく都合かや}
見送る人も皆帰って、ひとり問屋で寝ようかと思っている時に、汽船が入港した。飛び起きて時計を見ると12時だった。2時頃出航したが、船足が恐ろしく遅かった。船が波を蹴立てるとは言えず、白い波が立つこともなく、ただ波の輪ができるだけだった。今治を経て新居浜に着いた時はもう翌24日正午であった。昼飯を取り、船は出帆するやいなや、急に風が出てきた。この2-3日は腹具合が悪いせいか、また食事の消化が悪いせいか、船に揺られて気持ちの悪さは言葉にできぬほどになり、4時頃には益々ひどく船酔いになり、私は一人早く着いてほしいと念じた。「時は明治、船は揺れていない、私は平気、金比羅大明神、帰命頂礼(きみょうちょうらい)、六根清浄、南無アーメン」と祈ったのだが、遂にむかむかとするのに耐えかねて、頭を窓から出して、ゲロゲロゲロゲロとやってしまった。
平穏と祈りしかひもあら海や
金毘羅さまへあげし小間物
便たづね乗りて野暮流や丈鬼船
まま吐き出して泣いた正岡
2020.4.18