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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ現代訳 第五十六話 上京紀行(2)


 なお時々は胸がむかつくので、頭を角窓から出して風にあたりながら、前に吐き出した反吐をつくづくと拝見すると、飯は山のように、しかも葡萄酒のために薄紫に染まっていた。昼に食べた牛肉はそのままの姿で飯山に点綴(*てんてい ところどころに散らばっていること)していた。
 紂王(ちゅうおう)の 飲む無道酒は 池をなし
           昼の牛肉 はやしたるまま
 午後6時多度津に着いた。船は碇をおろしてからも益々強く揺れ動くため、胸の悪さは倍増した。頭を再び窓の外に出して・・・しばし・・・ゲロゲロ・・・私はここから上陸しようとするのだが、取り散らした荷物をまとめることもできない。そんな時ボーイが私の部屋に入ってきた。「・・・ボーイ、そこの・・・ゲロゲロ・・・荷をしまってくれ・・・ゲロゲロ・・・その風呂敷に一処に・・・ゲロゲロ・・・」終に勇を鼓して端舟(はしけ)に乗り移った。
 小舟はようやく蒸気船を離れたのだが、大波のためにゆりあげゆりおろされ、いまにも引っくり返るのではないかと思われた。楫子(*かこ 船頭)も自由には舟を漕ぐことができない。波のひまを窺って時々一こぎ、こぐばかり、ようやく埠頭の内に入り、桟橋より上陸した。私は明治20年夏に遠州灘でかなりの風に見舞われたが、それでさえ吐くようなことはなかった。自分の腹の中にあるものをだして魚の腹の中に与えたのは今回が始めてだ。 
 三津よりは 四十里足らぬ 海上を
      にくさも二九し 十八時間
 多度津の汽船問屋「多組屋(*たくみや)」に入った。人を待つこと雲助同様だった(漱石の筆法を用ゆ*本文中には漱石からの書簡が多数掲載されているが割愛した)、私は鶴の間というところに導かれた。この間は汚なくて、騒々しい部屋で唐紙に下手な鶴がごてごてかいてあるので、一見してまたぞろ反吐を催すほどであった。「部屋を変えてくれ」と言ったのだが、なんだかんだと言って部屋を変えてはくれなかった。腹だたしさ限りなし。
 さぬきなる 海より深き 多くみ屋は
       巧みな口で 人をつるの間
               2020.4.23

 

 

 

 

 

 

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