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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ現代訳 第六十八話 賄征伐(8)


 このような状況下で退舍を命じられても最初から恐れるはずもない。かくして私が一人残って仲間たちが退舎するという事態は如何とも気分のよかろうはずがない。さりとて運が良かったにせよ、これでもう退舎の厳命に合わずに済むと決まった現在、よく自分の感情を見直せば、心の底に一点の喜びがあるのを自覚した。これは果たして私の不人情によるものなのか、それとも普通一般の人情なのか、答えて欲しい世間の常識ある人たちに是非とも。
 退舎停学の厳命を受けた者たち11人、即ち塩屋、川路、菊池謙、石井八万、池田、木村、比企、岩岡、清須、恒藤、佐々田、の諸氏である。中でも比企氏は温順な人で、征伐の当日はわざと災いを避けてか外出中だったから何の関係もなく、池田氏は謀反人の張本人であるが、征伐の時間には寝室にいて昼寝していたので、何も知らなかった。これらの人が退舎させられ、私や高松、加藤縫諸氏の残っているのを見れば、我らは間違いで網を逃れたのである。
 私は大嶋氏に向かい「池田や比企のような無実の人が退舎させられ、私のような者が残るのは変てこですねー」と言えば、大嶋氏は笑いながら「池田さんなんぞは普段がふだんだからいけない。しかし君らは退舎させられてもいいのだ、俺が舎監だったら君や高松さんは退舎させるのに」と言った。
 この日は不愉快だったので、私は学業も手につかず、塩屋、恒藤の二氏は皆牛込の我が家に帰り、石井氏は叔父の家へに行った。比企氏もまた同様だった。残る七人は皆猿楽町の某下宿の一室に同居した。この頃は丁度退去騒動の最中だったので、この退舎を退居と名づけて猿楽坊の下宿屋を太田村と渾名をつけた。思うに太田村とは横浜の近くにあって退去した猛者たちが多く集まっている場所である。この日午後数氏と共にかの太田村を訪れ、それからは毎日毎日これが慣例となった。この一件があったために友達同士の交流は非常に親密となった。
 数日が経って皆と相談して比企氏の無実が気の毒だということで、その弁明書を作り十数人の名前を連署して学校に提出した。池田氏のことも一緒にと言う者もあったが、このままの状態で比企氏と池田氏を同一の見るのは考えが纏まらずに、池田氏は後程対処すべきと言うことで一致した。
 比企氏はその結果十日余りを経て停学を解かれ、また入舎することになった。皆はもうそろそろ赦免状が出る頃だと待ち受けていたのだが、存外遅く、一ケ月経って許された。その中で塩屋氏のみ、まだ赦免状を受けることができず気の毒で哀れでもあった。これこそ友経、康頼に別れた時の俊寛の心境に似ていた。
 以前から言合せていた事があって石井、木村、岩岡、清須、池田の諸氏は入舎の際に頭髪を剃り落とした。塩屋氏はその一、二週間を経て赦免されたが、これも剃髪した。後で聞いてみると学校ではこの所業を大変憎んで、警察に訴えようという者もあったとか。
 2020.8.6

 

 

 

 

 

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