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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ現代訳 第七十一話 詩文可否の標準(2)



 この話は一場の笑い話に過ぎないけれど、私がシナ(中国)語で書かれた本を日本語に翻訳した本の注解を見ると、多少はこんな感じ無きにしも非ずである。例えば「論語」のようなものですら、はじめ孔子がこの語を発する時はもとよりそれほど深い意味もないが(それだけは前の詩と違う)後の世の人がこれを注釈するような時には、その意味を演繹し推究し蛇足を添えて光輝を増すことは並外れていた。故に孔子もこれを察していて後世可畏(こうせいおそるべし)とか言ったとか(これがシナ風の解釈法である云々)孔子はもとより聖人である。すなわち性行正しく道徳心が高い人であったはずだ。ところが「論語」にある言葉は何も珍しいものではない。「珍しくないところが聖人の道である」とあるのは儒者の腐説(陳腐な説)であるが、もしそれが名言であるとするならば、「論語」を捨てて子供の話を聞くことだって「名言」となる。乞児(浮浪児?)に教えを乞うということも「名言」になる。
 この論は結局のところ負け惜しみに過ぎないけれど、わが師ムルドック先生曰く「聖人はみんな書を著(あら)わさない。ところがその人の道(教え)を書物にするのは、必ずその弟子たちである。例えばギリシャのソクラテスなども書を著わさなかった。しかるにその門人プラトン、アリストートルなどには大著がある。キリストも釈迦もまたしかり、その弟子が書物にしただけである。シナの孔子もこれと同じである」と。
 私は実にこの説に説得させられた。故に「論語」をもって孔子の力を尽くしたとするような書を尊敬すべきだとする論は笑止千万である。
 2020.9.6

 

 

 

 

 

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