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これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。

 筆まかせ現代訳 第七十四話 和歌と発句



 私はかつて和歌と発句( 和歌,漢詩の第1句。たとえば和歌の5・7・5・7・7の最初の5の句)の二つを琴と三味線に対比させた。これというのは和歌と琴は上流社会で行われて、深閨( しんけい 奥にある寝室。婦人の寝室*「深窓」)の女子もまたこれを学んだ。発句と三味線は下流社会で行われて、九尺二間(*貧乏長屋住い)の八公なんかもこれを良く手掛けている。和歌と琴はその起源は古い。一方発句と三味線が広まったのはより新しいことだ。
 和歌と琴は長くて優美に、そして発句と三味線は短くて奇俊(きしゅん*ヒネリを利かした表現)である。和歌と琴とは三十一文字と十三弦である。発句と三味線とは十七文字と三弦である。和歌と琴とは婉柔(えんじゅう*美しくて柔らかい)悲哀(*物悲しい)であるけれども千篇一律(*単調で代わり映えしない)で陳套(ちんとう*きまりきっていて古くさいこと)を踏み、無味に陥るという弊害がある。発句と三味線とは変幻極まりないけれども巧を弄して(*やたらテクニックを使って)かえって失点し、奇をてらって俚(り*俗っぽいこと)に陥る弊害がある。
 私は以前聴いたことがある。琴は入り易い。三弦は入り難い。そうではあるが、それが上達した後においては、琴に妙を得ることは難しく、三弦に巧を弄することはかえって易しいという。和歌と発句においてもまた大いに似た所がある。普通の人は歌を読んでその意味を理解するが、発句を見てその妙を味わうことはできない。三十一文字の腰折(こしおれ* 和歌で腰の句(第三句)と第四句とがうまく続かない歌)をひねる(*趣向を凝らす)なければならない。十七文字の俳句に手を出すことは難しい。だがそれがやや手に入ってからは、和歌の方は却って作り難い。俳句は却って作り易い。 
 見てみよ!俳句は今や人の作であっても見るべきものが多い。しかしながら、和歌に至っては大家の作と言っても、真に一笑を博する(*自作の詩文などが人に読まれることを謙遜して言う言葉)には及ばないものだ。
 私はこのことを山本忠彰先生の所で話したところ、先生が言うに「我もかつて歌と発句を以って琴と三弦に比せしことあり、或いはまた碁と将棋に比したることもありたり」と
  2020.10.9

 

 

 

 

 

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