これから話す物語は明治の文豪正岡子規が、青年時代から書き始め25年間も書き綴った随筆を、勝手に現代風に変えて読んでもらおうという不遜な試みである。
明治25年(1892年)9月19日夜3時頃まで俳句の分類の仕事をしてやっと眠りに就いた。翌朝7時頃目が覚めたのだが、その日は一日中頭が痛く我慢できない程だった。前日の晩飯は我が根岸庵の定食は内容が悪かったので食わなかった。勝田明庵が来訪したのを潮に同氏を誘って本郷枳殻(からたち)寺の後ろにある豊国へ行って牛肉を食い、ニ、三杯の酒を飲んだりした。
さて、20日の昼飯は陸(くが)に馳走になった。午後は下谷郵便局にいって為替を受け取り、本郷台町一丁目林イヨ方に竹村錬卿(*竹村鍛 (錬卿 ・黄塔) は河東碧梧桐の三番目の兄)を訪ね、雨の中を錬卿と共にまた豊国へ出かけた。
これは錬卿が近日中に兵庫の師範学校の教員として赴任することになったので。それを送るための微意(*ちょっとした気遣い)である。もっとも同学年の発起に関わる送別会(数日前既に切通上島又において開催したもの)ここで夕食会を終え、本郷枳殻(からたち)寺の向かい側の川崎屋でフラネルのシャツ及び靴下を買った。
そうして錬卿と一緒に破蕉翁を訪ねようということになって、その道すがら錬卿の注意により足駄一双を新調した。その前部は皮付きだった(私が足駄を買ったということは、数年来絶えて無かった事である)。
翁の内(*家)で俳話を上下(じょうげ*短歌の上の句は5・7・5、下の句は7・7の部分をお互いに詠み合う連歌を楽しんだのではないか)して、その後鶯横町の寓居(*下宿)に帰ったのは11時頃であった。それからまた発句類題全集の分類に従事(*仕事に取り掛かる)、1時過ぎ頃寝に就いた。
翌21日目覚めてみれば雨戸1,2枚明けたばかりなので室内はとても暗く雨はなお降りしきる様子である。枕元に寄せてある今日の『日本新聞』(*陸羯南(くがかつなん)が明治22年(1889年)に創刊。文芸欄は正岡子規を中心とする短歌・俳句の革新運動の拠点ともなった)及び天外生の端書=序文(*(啄木の日記の序文に「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり。とある)などを一見しつつ(下宿の)婆々に声をかけて何時頃だと聞くと、はや12時を過ぎていると言う。大変驚いてよくよく睡眠の時間を数えてみると11時間の長眠で、しかもその間一度も目を覚まさなかった。私はいまだこのような長寝をしたことはなかった。
真昼まで燈の残りけり秋の雨
2020.10.22