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2021.10.2 諺集に見るわが人生(24)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していくことにする。
 「一目置く(いちもくおく)」自分よりすぐれた者に対して一歩譲って敬意を払うこと。囲碁で、実力のない者が先に一目または何目かの石を盤の上に置くことから出たことば。
 私は囲碁を楽しむために深層学習するAI囲碁をパソコンに入れており、たまにやるのだが初段相手に設定すると勝てない。このソフト八段の実力を持つという売り込みで、初段の段階でも助言なしでは負けてしまう。そうした状況が続き、今では挑戦する気も失せ、宝の持ち腐れになっている。この諺に関しては若い頃は一目置く立派な先輩もおり、敬意を払っていたものだ。
 碁の実践では互先(たがいせん)と言って、黒番先手で6目半の込み(ハンデ)を付けて戦うのだが、これも負けると悔しくて、相手に敬意など払うどころか石をぶつけたくなるものだ。こんな所に負けず嫌いが顔を出す。努力しないで同等以上のものを求めるのは、自分の顔に泥を塗るようなもの(恥の上塗りとも言う)だから、先を読んで戦を回避することが無難である。
 「一目瞭然(いちもくりょうぜん)」一目見ただけではっきりわかるさま。瞭然とははっきりしているさま。今台風16号が千葉県沿岸を襲っているが、このような台風や大きな地震などの後には必ず広い地域で災害の爪痕が一目瞭然に見て取れるとでも表現するのか。はたまた先の囲碁のように勝負が終わると石を並べ替え形勢判断する。これで勝ち負けは一目瞭然である。どうも使い方は限定されるようだ。
 「一も二もなく」異議なく、無条件で、とやかくいわずに、即座に同意するさま。私などはどちらかというと「とやかくいう」方なので、簡単にこういった決心をすることはない。これには強権に屈するイメージが感じられる。「否(いや)も応もなく」させられる経験なら沢山ある。 次回に続く。

2021.10.6 諺集に見るわが人生(25)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していくことにする。
 「一葉落ちて天下の秋を知る」一枚の葉が落ちるのを見て、秋の訪れを察すること。ほんのわずかな予兆から後の大きな動きを察知することを意味する表現。「淮南子」に由来する故事成語。原文とその読みは以下の通り。
 見一葉落、而知歳之將暮、睹瓶中之冰、而知天下之寒。以近論遠。
 一葉(いちよう)の落)つるを見て、歳(とし)の将(まさ)に暮れなんとするを知り、瓶中(へいちゅう)の氷を睹(み)て、天下の寒きを知る。近きを以(もっ)て遠きを論ずるなり。
 これは丁度今時の政局に似ている。人心は一新されたが、約束が果たされるのは何時になるかは予測がつかない。幸い第5波のコロナ禍は急速に収束しており、このままいけば、経済も右肩上がりの回復を見せるのは明らかだ。しかし未だにマスクを外し、大声で騒ぐこともできないのは度重なる波の襲来を恐れてか。多くの人がこのコロナ禍でPTSDに陥っている。ワクチン接種を2回受けてもブレークスルー感染が恐い。人のうろたえる様は、この諺が人の心に響くようだ。
 これに釘を刺すような諺「一葉目を蔽えば泰山を見ず」目の前にある大きな山も、一枚の木の葉が、目にかぶさると、見えなくなることから、一点の私心におおわれて大きな道理を見失うこと。岸田総理にはそんなことが起こらないよう安寧の道に導いてもらいたい。
 続いては明るい諺「一陽来復」これは易の用語で陰気のきわまる陰暦十月のあとに、陽気の生じる陰暦十一月(復の卦)・冬至が来る意から『易経』。もう少し詳しく説明すると「易で、陰暦十月に陰気が極まり、十一月の冬至(新暦2021年の冬至は、12月22日(水))になって陽気が初めて生ずることから出たことば。落ち目の者が回復することや、回復の運がまわってくることにもいう。
 ということはコロナ6波は起こらず、日本全国津々浦々元気な新年を迎えることができるんだと信じましょう。 次回に続く。

2021.10.10 諺集に見るわが人生(26)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していく。
 「一粒(いちりゅう)万倍」わずかなものから多くの利益を得るたとえ。また、わずかなものでも粗末にしてはいけないという戒め。一粒の種から一万倍もの収穫を得られるという意から。一つの善行でで多くの良い結果を得るたとえとしても用いる(報恩経)四から。いかにも仏教の教えらしい表現だが、何か活力剤のCMのような響きがある。私は一目見た時は「一粒」を「ひとつぶ」と読んでしまった。あまり広く知られていない諺だと思っていた。ところが事業を経営する人たちなどには大安など暦の六曜のように、この「一粒万倍」を暦に当てた日を「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」と言う。「一粒万倍日」は「一粒万倍」の意味通り、物事を始めたり、仕事やお金にまつわることに向いていると言われている。一粒万倍日はどうやって決められているかというと、二十四節気と、一日ごとに割り振られている干支との組み合わせによって決まる。
 ちなみに 今年の10月は「3日(日)、13日(水)、16日(土)、25日(月)、28日(木)」となっている。
 「一輪咲いても花は花」小さな目立たない存在であっても、本質的には変わらりがないことの喩え。単なる数量よりも、実際の質を重視するといった意味合いもあることわざである。これに対応する諺に「量より質 質より量」がある。人によってはまたは困窮時には「質より量」が優先する場合もあるという逆説でもある。
 「一結杳然(いっけつようぜん)」文章を締めくくった後に、匂うように余韻が残るさま。漱石の『吾輩は猫である』から「主人は一結杳然というつもりで読み終わったが、さすがの名文もあまり短すぎるのと、主意がどこにあるのかわかりかねるので、三人はまだあとがある事と思って待っている」
 同じ物書き(自称)でも私などにはとても見果てぬ夢の業である。 次回に続く。

2021.10.14 諺集に見るわが人生(27)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していくことにする。
 「一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」最近は躾がいいせいかこういう現象はあまり耳にしないが、私が子どもの頃は一匹の犬が遠吠えすると、それに呼応するように、あちこちから犬の鳴き声が起こった記憶がある。どうやらこれは犬の本能のせいだということである。
 この諺の意味は「一人がいい加減なことを言い出すと世間の人がそれを本当だと思い、言い広めてしまうことの喩え」で、その出典は「一犬形に吠ゆれば百犬声に吠ゆ。世の疾(やまい)これ固(もと)より久しいかな(世の中の騒ぎというものは、ずっとこのようなもので、まことに困ったものだ」とある。これを今選挙前の騒ぎとして捉えて見ると「10月4~5日の世論調査で、岸田内閣の支持率は59%だった。不支持率は25%。2002年以降、衆院選直前の調査で自民党と野党第1党の支持率の差は今回が最も大きい。自民党は支持政党がない無党派層を引き寄せ続けられるかを懸念する」とあるように内閣が変わっただけで政局は大きな潮目をみせる。現政権が大舞台から金をばら撒くことは「一犬影に吠ゆれば・・」に等しく、野党がやれ森友だ、桜を見る会だと「揚げ足取りばかり」しているのは「一猫ニャーと鳴けば他の猫和せず」といったようにポンチ絵をみているようだ。しっかりしろ野党といいたい。
 この諺を政治と結びつけたのは間違いか。「眞子さまのご結婚」問題の方が相応しいかもしれない。
 口直しの諺を「一刻千金」僅かな時間が千金にも値すること。時間の貴重なことのたとえ。大切な時間や楽しい時間が直ぐに過ぎ去ってしまうことを惜しんで言うことば。また、時間を無駄に過ごすのを戒めることば。
 HPの11日休刊は友人たちと1年半ぶりに再会したためだった。今はもう3日も経った。本当に楽しくて大切な時間は直ぐに過ぎてしまうものだ。
 出典の詩は有名で「春宵一刻値千金、花に清香(せいこう)有り、月に陰あり」 次回に続く。

2021.10.18 諺集に見るわが人生(28)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していくことにする。(「」の前後の句読点は省略)
 今どきの時世を象徴するような諺「一災おこれば二災おこる」コロナ禍の最中に大きな地震が起きるといったように災難は往々にして再び起こるものだということ。で被災者にとっては「泣き面に蜂」ということになる。こうした災厄は避けようがないから始末に悪い。
 似たような諺には「一度あることは二度ある。二度あることは三度ある。朝にあることは晩にある」と悪いイメージのある諺がある。災厄が重ならないように身を引き締めよという戒めにもみえる。
 「一視同仁(いっしどうじん)」一発変換できたから、かなりよく知られている諺と言えよう。その意味するところは「すべての人を平等に慈しみ差別しないこと。えこひいきがなく、同じように人を遇すること。また、身分・出身・敵味方などにかかわらず、すべての人を平等に慈しみ、禽獣(きんじゅう:鳥、獣)にも区別なく接すること」などの博愛主義をいう。なかなか実現不可能で、各地でいがみ合い、紛争は絶えないのが現実。出典は韓愈-原人(韓 愈(かん ゆ、768年- 824年)は、中国唐代中期を代表する文人・士大夫である。古文復興運動は、彼の思想の基盤である儒教の復興と表裏をなすものであり、その観点から著された文章として、「原人」「原道」「原性」などが残されている。波乱万丈の人生を過ごした。この諺は彼の人生のパラドックスである)。
 「一瀉千里(いっしゃせんり)」文章や弁舌が明快でよどみなく出てくることのたとえ。また、物事が一気にはかどることのたて。水が一気に千里もの距離を流れる意から。類義に「立て板に水」今イメージできる人物に『橋下徹』氏がいる。もしかしたら岸田総理もその部類に入るかも知れない。 次回に続く。

2021.10.21 諺集に見るわが人生(29)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していくことにする。(「」の前後の句読点は省略)
 「一知半解」一発変換できたが、私は知らなかった。その意は「ほんの少し知っているだけで、十分には理解していないこと。なまかじりの知識や理解しかないこと。一つの知識があるが、その半分しか理解していないということ」「半知半解」「半可通」なども同じ意味のたとえ。もっと平たく言うと「知ったかぶり」
 私なども押っ付け仕事が多いせいかそういう傾向がある。十分に理解するには記憶に大きく負うところがある。年と共に覚えにくく忘れやすくなるようになった。
 「一朝一夕(いっちょういっせき)」この諺などは誰でも知っているだろう。語呂がいいので覚えやすいのだろう。言葉の意味は「極めてわずかな時間。非常に短い時間のたとえ」下に打消しのことばを伴って「一朝一夕には・・・・できない」という形で使われることが多い。私の場合「コロナ禍で家に閉じこもっていたので、運動不足になり、足の筋肉がおちてしまったが、これを元に戻すのは一朝一夕でできることではない」と書いてみた。
 「一夫関に当たれば 万夫も開くなし」要害堅固な場所のたとえ。たった一人が関所を守れば、万人が攻めても打ち破ることはできない。このことばどこか思い出がある。小学唱歌「箱根八里」の中に潜んでいた。昔は小学生にこんな難しい歌を教えたもんだ(前にも紹介したが)、滝廉太郎作曲の名歌で、我々80歳世代は誰でも歌えるほどに覚えていることだろう。内容を説明しようとすると、それこそ「一知半解」であるに違いない。参考までに歌詞を紹介する「作詞:鳥居忱「箱根八里」
「箱根の山は 天下の険 函谷関(かんこくかん)も 物ならず  万丈の山 千仞の谷 前に聳(そび)え
後(しりえ)に支(さそ)う  雲は山をめぐり 霧は谷をとざす  昼猶闇き 杉の並木 羊腸の小径は 苔滑か
一夫関に当るや 万夫も開くなし
天下に旅する 剛毅の武士(もののふ) 大刀腰に 足駄がけ  八里の岩ね 踏み鳴らす 斯くこそありしか 往時の武士」
 ところが馬子唄で「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川(山田耕筰)」とくる。
 次回に続く。

2021.10.24 諺集に見るわが人生(30)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していくことにする。(「」の前後の句読点は省略)
 「一片の雲も日を蔽おう」ひとひらの雲でも太陽を覆い隠す意から。わずかな邪魔物でも、ときには大事の原因となることがあるので、侮りがたいということ。
(類義)一指もまた明を蔽う。一葉日を蔽えば泰山を見ず。失敗には何らかの原因がある。ちょっとした迷いで行く先を見失うことがある。世の中は一枚の葉が積み重なり、全くお日様が暮れた状況で混沌の情勢になっている時だってあった。
 「いつまでもあると思うな親と金」親がいつまでも面倒をみてくれるとは限らず、お金も使えばなくなるという意味の諺。 相手の自立と倹約をうながす時に使用する。 倹約とは、無駄を省き、節約すること。
 また、「いつまでもあると思うな親と金」は、大きく分けると、他に二つの意味がある。 一つ目は、親から早めに自立をしておいた方が、後に楽になるという意味。 また、親のそばでその恩恵を受けている時は、しっかりと倹約するのがよいという戒めの意味もある。
 順調とはいえない人生を歩んだ私には貧しさゆえの「モノ欲しさ」で倹約などしなかった。その時々で大金を投じ買い揃えたオーディオセットなどは、技術の進歩のため粗大ごみとなり、金をかけて処分してしまった。今はスマホひとつでその機能は何でもできる。
 「いつも柳の下に泥鰌はおらぬ」柳の下で泥鰌が捕れたことが一度あったからといって、柳の下に行けば必ず泥鰌がいるというわけではない。
 転じて、幸運なことがあったからといって、その後もまた幸運があるとは限らないということ。「いつも柳の下に泥鰌はいない」ともいう。
 宝くじの話をする。30数年以上前に私は初めて宝くじを10枚(連番)買った。そしたらその中に5万円の当たりくじが入っていた。ビギナーズラックというやつだ。すっかり気を良くした私は、それからというものジャンボ宝くじの度に3.000円投資し続けた。さっぱり当たらないまま30年ほど過ぎ、やっと諦めて買わなくなった。一匹の泥鰌のために30年間無駄遣いすることになってしまった。今でもジャンボ6億円などという看板を見ると心が疼くが、じっとこらえている。 次回に続く。

2021.10.28 諺集に見るわが人生(31)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していくことにする。(「」の前後の句読点は省略)
 「居ても立っても居られない」説明するまでもなく、こういう立場を経験した人は多いだろう。ソワソワ、ワクワク、立っても座っても落ち着かないことをいう。
 「井戸の端(はた)の童(わらべ)」最近は井戸など都会ではほとんど見かけない。同じ危険なたとえとしては「マンションのベランダの柵の幼児」などが思い付く。子どもは少し目を離すと危ないことをする。未知への好奇心が旺盛なせいだろう。
 「井に坐して天を見る」出典の文(韓愈・原動)は井に坐して天を観て、天は小なりと曰(い)う者は、天の小なるに非(あら)ざるなり」その意味するところは「井戸の中に座って天を仰ぎ見て、天は小さいというのは、自分の視野が限られているからで、天が小さいのではない」類義に「井の中の蛙大海を知らず。井中に星を視る」があり「井の中の蛙大海を知らず」の部分が広く知られている。物事を大局的に視るのは難しく、長い時間をかけ結果から判断することが多い。
 「犬が西向きゃ尾は東」冗談でよくこの諺を口にする。当たり前のことを目新しく言ったもの。類義に「雨の降る日は天気が悪い。北に近けりゃ南に遠い」私は方向音痴なので北と南の区別もつかない。 よくチラシに載っている地図に東西南北の方向表示があるが、サッパリ分からない。勘のいい人は頭の中に磁石が入っているかのように方向を間違えない。昔免許を持っていた頃、車で外出するとよく方角を見失い反対方向にいってしまうことがあったことを思い出す。
 もう一つ犬に関わる有名な諺「犬も歩けば棒に当たる」江戸いろはかるたの一番で「犬も歩けば棒に当たるとは、でしゃばると思わぬ災難にあうという戒め。また、じっとしていないで、何でもいいからやってみれば思わぬ幸運にあうことのたとえ」故事ことわざ辞典によれば「「棒に当たる」とは、人に棒で殴られるという意味。本来は、犬がうろつき歩いていると、人に棒で叩かれるかもしれないというところから、でしゃばると災難にあうという意味であった。
 現在では、「当たる」という言葉の印象からか、何かをしているうちに思いがけない幸運があるという、反対の意味で使われている。 次回に続く。

2021.10.31 諺集に見るわが人生(32)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していくことにする。(「」の前後の句読点は省略)
 「命あっての物種」何事も命があってこそ初めてできる。だから命の危険にかかわることは避けるべきだということ。いかなるときでも命は大切にすべきだという戒め。「物種」とは、物事の元になるもののこと。根源。
後に「畑あっての芋種」と続けて語呂を合わせた言い方をすることも。
「命が物種」「命こそ物種」ともいう。
 この年になると、どう自分の健康を維持するかが「物種」なのだが、分かっていても、思うようには動けないものだ。
(類義)「死んで花実が咲くものか」「命の過ぎたる宝なし」「命は法の宝」「身有りて奉公」命は法の宝といのは「ありがたい仏法を聞くことができるのも、命があればこそであるということ」
 「命長ければ恥多し」荘子の天地篇に「男子則懼多、富則多事、寿則多辱、」という言葉がある。 長生きすれば何かにつけて恥をかくことが多い。 長生きすれば恥多しなのだという。 漢文お読みは「男子多ければ則ち懼れ多し、富めば則ちこと多し、寿ければ則ち恥多し」長く生きれば生きるほど恥をかくことは多い。似たような諺に「生き恥を曝す(いきはじをさらす)生きながらえたために恥をかくこと」がある。どうもマイナス思考だが、このコロナ禍の世の中でも高齢になっても、医師や看護師、介護士、その他ボランティアで人のために尽力している人は沢山いる。こういう人たちを例えるならば「命は義によりて軽し」といって「けがえのない命も義のためには少しも惜しくない」と称賛したい。
 「命より名を惜しむ」これは最初の「命あっての物種」とは相反する諺で「命より名を惜しむ」自分の命より名誉を大切にするということから、恥をかくよりは命を捨てたほうがよい」ということ。「命惜しむな、名こそ惜しめ」という鎌倉武士の思想を象徴する逸話から来ている。平時に生きている現代人には通用しない諺かもしれない。 次回に続く。