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2021.12.2 諺集に見るわが人生(41)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。(「」の前後の句読点は省略)
 「右次左次物言わず」文字変換に苦労した。それほど耳にしない諺なのだが、中々含蓄がある。意味は「あれこれ文句を言わないこと、転じて、まったく口をきかないこと」少々長文だが出典を紹介する「欽明天皇のとき、百済から二人の僧が戒律をもって(脚注:戒律をもって暮すこととは、
仏教では在家の人が守るべき五戒がある。
①殺生をするな
②盗みをするな
③邪婬に溺れるな
④嘘をつくな
⑤酒を飲むな
というもので相当ストイックな生活が強いられる)
渡来したが、廃仏主義の物部尾輿(もののべのおこし)は二人を播磨(兵庫県)に流し、還俗させ、一人を右次郎、もう一人を左次郎と名付け、獄舎につないだ。しかし二人とも戒律を破らなかったため、さらに厳しく取り扱った。そこで右次郎も左次郎も、今後は何を言うまいと口を固く閉ざしてしまったという」由来がある。
私のように齢八十四歳ともなれば、この戒律に沿った生活をすることは日常であるが、酒を飲む人には一生かかっても守れない戒律だろう。大体世の中、口うるさい老人と寡黙な老人とに色分けされるものだ。
 「牛に経文」いくら言い聞かせても、何の効果もないことのたとえ。子を持つ親にとって反抗期の子どもは大体親の言うことなど聞きはしない。類義に「犬に論語、馬の耳に念仏、馬耳東風」があり、こちらの方がよく聞く。
 「牛に引かれて善光寺参り」これもよく聞く諺だが、意味が分からない人も多いだろう。
  その意味は「思わぬ他人の誘いで、物事が良い方に向かうこと。また他人から誘いがあって、したいと思っていなかった行動をとった場合に使う言葉」とある。
 何故善行寺なのかというと、出典には「昔、信濃(長野県)善光寺の近くに住みながら信仰心の薄い老婆が、晒していた布を、隣家の牛が角に引っ掛けて走るのを追いかけていくうちに、善光寺に着き、金堂前で、ふと足元を見ると、見つけた布に牛のよだれが垂れており、そのよだれが文字のように見えます。書かれていたのは「うしとのみ、おもひはなちそ、この道に、なれをみちびく、おのが心を(牛とのみ、思い過ごすな、仏の道に、汝をみちびく、己が心を)」という文字で、それからは度々善光寺に参詣し、深く信仰するようなったという話」めでたしめでたし。 次回に続く。

2021.12.6 諺集に見るわが人生(42)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。(「」の前後の句読点は省略)
 「氏より育ち」人間を形成するのに大切なのは、家柄よりも育つ環境であるということ。 「氏」は、「先祖代々引き継がれるもの」とか「家系」という意味。 つまり、「氏より育ち」は、「家系よりも、どのような環境で育ち、どのような教育やしつけを受けてきたかということが人格形成に大きな影響を与える」ということを意味する。 また、人間というのは本人の努力によって出来上がっていくという意味でもある。
 今回の皇族の結婚が示すように。家系が大きくものを言う。一般の結婚でも育ちより氏を重視する親もおり、そう簡単に育ちがよくても越えられない壁となる氏という存在が未だに日本では残っている。似たような壁は英国等にも見られる。
 かつて里子に出されるという習慣があった日本でも、躾次第で子どもは素直にすくすく成長し、ひとかどの人物になった事例は文献などでも見ることはできる。
 15~6歳ぐらいの多感な時の家族関係がうまくいっていることが、将来大きな資産として子どものには残される。
 「後ろ髪を引かれる」「心残りの心境から、なかなか思い切って進めないこと」を後頭部の髪の毛をつかまれて、なかなか前に進めない状態を例えた言葉。類義に「未練がある」「踏ん切りがつかない」「割り切れない」などがある。
 誰でも長い人生においては、こうした気持ちを味わったことだろう。
 戦時中疎開させられ父とは遠く離れた別の場所で生活していた。たまに父が疎開先に来て食物などを置いて、とんぼ返りで帰浜して行ったが、きっと後ろ髪を引かれる思いだったに違いない。
 「後ろ指を指される」周囲の人から悪口を言われる・非難されることを意味する。 自分のした行動や発言に対して否定的な意見を言われる状態をあらわすため、良いフレーズではなく悪いフレーズとして用いられる。
出典は「義経記」という南北朝時代の争いについて述べた巻物に由来している。元々は当人のいない所でその人の悪口を言うという陰湿な意味が込められている。厳しい環境の中で成功した者には、こうした影の指の存在が付きまとうものだ。 次回に続く。


2021.12.12 諺集に見るわが人生(43)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。(「」の前後の句読点は省略)
 「薄紙を剥ぐよう」昔の人は乙な表現をしたもので、このように「病気など悪い状態が、日ごとにわずかずつよくなっていく様子。また、隠れていたものが表面に現れること。表面の薄い紙を少しずつはぎ取っていくようだということから。闇が少しずつ明るくなることにも言う」イメージすることができる表現を生み出している。
 先日毛筆用に和紙の便せんをネットで買ったのだが、非常に薄く、おまけに表紙付きであるため上部は糊で固めてあった。プリンタで印刷するためにはバラさないといけない。薄紙を剥がすではないが、紙が破れないように慎重に剥がしていった。印刷できるか試し刷りをしたところ、どうやらできあがった。その中で剥がした糊面を上にしたところ、見事に紙詰まりを起こしてしまった。これを取り除くに一苦労。
 こんなに薄い紙(和紙ならでは技)にも裏表がある(表には光る柳の葉のようなデザインが施されていた。裏面は少しザラザラした感触があった)。これも間違ってはいけない。HP「江戸の職人(紙漉師」でも紹介したように和紙の製造には多くの手間がかかる。薄紙一枚に伝統技術が光るいうお話。
 ところで紙の裏表はどうしてできるのか調べて見た(tcpc.co.jp)「紙に裏表が生じる最大の理由は、紙の製造工程においてワイヤーとよばれる網を使って水平方向にパルプと水を流している事です。
 一般的な長網抄紙機の場合、紙料を水に分散させて希釈した後、ワイヤーに載せて脱水しています。
 このとき、微細繊維や裏抜け防止のために配合される填料(クレー)がワイヤーを通して抜けていくため、ワイヤーに接している面は網の跡(ワイヤーマーク)が残って凹凸が出来やすくなるのです。
 見た目も粗く、印刷適性も低いため、こちらが紙の裏面になります。
 一方、ワイヤーに接していない方は流出の影響を受けにくいため、平滑性が高く、なめらかな状態に仕上がります。こちらが紙の表面になります」ということになる。何か今回は話が大きく脱線したようだ。次回に続く。

2021.12.16 諺集に見るわが人生(44)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「有象無象」は1つ目の意味は「数だけ多いが、一貫性がなく、くだらない集まり」というもの。原義から派生した意味ではあるものの、現在ではこの使われ方がメイン。ただし、プラスな意味ではない
「有象無象(うぞうむぞう)」は、仏教用語である「 有相無相 (うそうむそう) 」が由来している。「有相無相」は「この世には姿形のあるもの (現象)と、それによって表現されるもの (真理)が存在している」という意味。 これは「有象無象」の2つ目の意味である。「この世の全てのもの」の意味に通ずるものがある。 この有相無相をよりわかりやすくするために、「象」の字を用いて表現されるようになり、意味も少しずつ変化していったことが、今の「有象無象」につながったと言われている。 なお、現在は二つ合わせて「数は多いが、種々雑多なくだらない人や物。ろくでもない連中のこと。多くの人々を卑しめていう。また、形があるものも、ないものもすべて。有形無形のすべてをいう。
 (例)有象無象のやから。イメージできるのはテロ集団や暴走族など。場合にもよるが、デモ集団なども含まれる。そうしたやからは世に仇するだけで、何の益にもならない。
 「嘘から出た実(まこと)」江戸いろはかるたの一つで「嘘で言ったこと、冗談で言ったことが、結果として偶然にも本当のことになってしまうことを言う」
 たとえそれが嘘でも、何かを言い続けていると言った本人もそれを聞いた人たちも、本当にそうかもしれない、という気になってしまいがちである。
 また、冗談でさらりと言ったつもりのことが、実は本人も自覚することなく心の中で思っていたことだった、ということだってありうる。そうした結果として「嘘」が「実=真実」になるということもある、ということの喩(たとえ)である。
 時と場合によるが私も嘘をつく。その結果すべてがハッピーになれば嘘も真になる。そうならない場合も多いので、嘘は何時かバレることになる。
 これらの諺は中国伝来に孔子や孟子の教えと江戸の文化が融合して出来上がったものが多い。次回に続く。

2021.12.19 諺集に見るわが人生(45)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。 
 「嘘つきは泥棒の始まり」子どもの頃よくこう言われて.戒められて育った。嘘は誰でもつくのにどうして泥棒に結びつくのか調べると「平然と嘘を言うようになれば、良心がなくなって盗みも平気ではたらく人になるから、嘘はついてはいけないという戒め」類義として「嘘つきは盗人の苗代/嘘と盗みは互いに隣同士/嘘は盗人の始まり/嘘は盗みの基」  対義として「嘘つき世渡り上手/嘘は世の宝/嘘も重宝/嘘も追従も世渡り/嘘も方便/嘘も誠も話の手管/嘘をつかねば仏になれぬ」とある。こうしてみると嘘も満更悪いことでもないように見える。政治家などはいつも資金管理で追及され挙げ句の果てに職を辞することがある。これはまさにこの諺にぴったり合う。
 「嘘をつかねば仏になれぬ」とは、嘘をつかないと成仏できないように聞こえるが、その実態は「時と場合によっては、嘘をついても地獄に落ちるようなことはないという意味」で、仏になれぬという表現が強いので、嘘をつかないと成仏できないような印象を与えるが、積極的に嘘をつくようにすすめているわけではない。このことわざは、仏の悟りの世界を教えるために、必要な嘘もあるということから生まれたことわざである。
 次の諺「うだつが上がらない」とは「地位や生活がさっぱり向上しない」という意味。 「うだつ」の漢字は「梲」が一般的。 「梲」はもともと建築用語で、その語源には二つあり、一つ目は、梁の上に立てて棟木を支える短い柱を「うだつ」といい、このうだつが棟木におさえられているように見えることから、頭が上がらない(出世できない)という説と、二つ目は、商家などで隣の家との境に設ける防火壁のことを「うだつ」といい、そのうだつを高く上げることを繁栄のしるしとしたことからとする説がある。
 この諺の使い方は「目の前の相手に面と向かって投げかけるには少々強すぎる表現なので、多くの場合、自分や自分の身内を謙遜して形容したり、その場にいない第三者に対して使われる」
 まあ私なども「梲が上がらぬ」人生の部類に属すると言えよう。一般的にこの世の中のパワーバランスから見ても、「梲が上がらぬ」人が大半であると言えよう。と言うのは言い過ぎか。次回に続く。

2021.12.22 諺集に見るわが人生(46)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。 
「内で蛤、外では蜆(うちでまぐり、そとではしじみ)」これは「小心で、家ではいばっているが、外では小さくなってしまうたとえ。蛤のほうが蜆よりも大きく、格が上のことから」
(類義)内弁慶の外地蔵。内広がりの、外すばり。私は「内で蜆、外でも蜆」と丸で意気地ない。
 「内に誠あれば外に形る(うちにまことあればそとにあらわる)」出典は『大學』
心の中に誠があれば、必ず外形に現れる。心の中は隠すことはできないということを、よい面から表した言葉。【小人間居して不善をなす】の説明の後に出ている。
  小人閒居爲不善、無所不至。
  小人 間居して不善をなす、至らざる所なし。
 つまらぬ人間が一人でいると、どんな悪いことでもしてしまう。君子に会うと、あわてて不善を隠して、善を見せようとする。
しかし他人がその人を見る時は、腹の中まで見通してしまうもので、隠しても何の役にも立たない。
 此謂誠於中形於外。
  これを、中(うち)に誠(まこと)あれば外に形(あら)わる、という。これを、心の中に誠があれば、かならず外形に現れる、というのである。
 故君子必慎其獨也。
  ゆえに君子は必ずその独を慎しむなり。
 そこで君子は、一人でいる時にも身を慎んで修養するのである。
 『大学』(だいがく)は、儒教の経書の一つ。南宋以降、『中庸』『論語』『孟子』と合わせて四書と 呼ばれている。
 私はこういう教えを読むとつい本文を読みたくなる。早速kindle版の「大学・中庸」を購入した。いつもの積読で済まされないことを念じている。
 さっそくその本の「はしがき」を読むと次のようの書かれている「朱子学の伝播とともに『 大学』と『 中庸』は その一環として 特別に重視された。『大学』は「初学入徳の門」として「四書」 の中でも まず第一に学ぶべきものとある。金谷 治. 大学・中庸 (岩波文庫) (p.3). 株式会社 岩波書店. Kindle 版」と書かれている。次回に続く。

2021.12.26 諺集に見るわが人生(47)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「移れば変わる世の習い」時代が移り変われば世の中も変わっていくのが当然だということ。「移り変わるは浮き世の習い」ともいう。特にこのコロナ禍での非日常の生活も3年を経過し、世の様は異常である。マスクと消毒が世の常と言うのはまことに変てこりんだと思う。(類義)有為転変は世の習い(ういてんぺんはよのならい)「この世で起きる様々の出来事は、常に激しく移り変わり、とどまることなく変化する儚いものだという意味。 単に物事が転変の運命をたどることだ」とこちらの方が手厳しい。
 「器と名とは以って人に仮すべからず」 孔子の政(まつりごと)の重要さを説いた言葉の一節である。その器(うつわ)でもない者に、地位や爵号等の名称を与えてはいけない。これを間違えると社会の秩序を守る事は出来ないと言う意味。出典は「『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん、旧字体:春秋左氏傳」孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』(単独の文献としては現存しない)の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の魯国の歴史が書かれている。通称『左伝』。『春秋左氏』『左氏伝』ということもある」
 どの国でも、民衆の支持を得ないで支配者の地位を得た者は独裁者(暴君)となり、人の言葉には耳を貸さず、国民は塗炭の苦しみを味わうことになる。日本は幸いにして民主主義国家であるので、国民は安寧の内にある。
「烏兎怱怱(うとそうそう)」あまり聞いたことがなく、漢字ばかりなので難しそうなイメージがあるが、その意味は、月日が経つのが慌ただしく早い様子のこと。「由来」 古く中国で 「金烏 (きんう) 」「 玉兎 (ぎょくと )」と称し、太陽の中には三本足の烏(からす) 、月の中には兎(うさぎ )の象(かたち)があるとしたところから、太陽と月、転じて年月、 歳月の意 となる。「匆匆」は慌ただしい。忙しいこと。
 私などは80歳を過ぎてポンコツになり、あちこちの部品を手入れをしている間に「烏兎怱怱」だと感じている。確かにいきなり「烏兎怱怱」では通じないだろう。今度手紙を書く時にこの四字熟語を使ってみることにしよう。 次回に続く。