2021.6.2 ライス物談義(2)
今回はライス物談義第2弾をお送りする。
先ずオムライスから入ると、これは子供などには人気の高いライスもので、そのレシピは「オムライス は、調理済みの 米飯 を 鶏卵 で オムレツ のように包んだ 日本 の 洋食 。 英語 の omelet (あるいは フランス語 の omelette )と rice を組み合わせた 和製外来語 である。 溶き卵を フライパン で薄く焼き、味付けされたライスを包む」とある。まるで洋風の親子丼と言ったところか。
Wikipediaではこのように説明している「溶き卵をフライパンで薄く焼き、味付けされたライスを包む。チキンライスを代表とするケチャップライスが用いられることが大半だが、ケチャップを用いないピラフやチャーハン、バターライスなどが使用される例もある。紡錘型に成形し、トマトケチャップやデミグラスソース、ベシャメルソースなどをかけるスタイルが一般的である」と説明するとイメージが明確になる。
次に紹介するのはハヤシライスで、私はこれも好きである。このハヤシは明治初期創業の上野精養軒で、当時勤めていた林さんというシェフが作ったのがはじまりという説。牛肉の切れ端と余った野菜をデミグラスソースで煮込み、ライスにかけた従業員用のまかない飯を、シェフの名を冠してお店で提供するようになったといわれます。他にもハヤシライスの名前の由来として、ハッシュドビーフが起源という説もよく知られている。その「ハッシュドビーフ・ウィズ・ライス」を省略してハッシライス、ハイシライスと呼ぶうちに、ハヤシライスとなったとする説が有力だ。ハヤシライスは、薄切り牛肉とタマネギをドミグラスソースで煮たものを米飯の上にかけた料理だが、レシピのバリエーションがとても広い。
我が家ではこれをサチコライスと呼んでいる。サチコさんが考案したハヤシライスのレシピを女房が受け継ぎ命名した。たまたま苗字のハヤシが重なったので名前の方を取ってこう呼んでいるという経緯がある。
次のメニューはチキンライスで日本発祥の洋食のひとつとされており、味付けには大抵の場合においてトマトケチャップが用いられる。基本的な具材としては鶏肉、玉葱、マッシュルームなどがあげられるが、これらをみじん切り、あるいは小さな賽の目切りにして米飯と合わせた料理である。一般的な作り方はフライパンで調理し、最後にトマトケチャップを加えて仕上げる。デパートなどのお子様ランチには欠かせないライス物である。
カツライスは割愛(カツアイ)させていただく。これでライス物は終わり。
2021.6.6 ググる
『ググる』という言葉を知っているだろうか。これは「《「ググ」は「グーグル(Google)」の略》俗に、グーグルのサーチエンジンを使って言葉や画像を検索する。転じて、他のサーチエンジンで検索することにもいう」私が今『ググる』の定義付けに使ったのもGoogle検索を使った。
以前は言葉を正しく知るためには国語辞典をよく使った。今はインターネット検索に頼ることが多くなって、紙の辞典・辞書の役目は私に関しては過去のものとなった。
内容はともかく便利だからだ。必要な事柄をより正確に伝えるのは書き手の義務であるから、浅学非才の輩である吾輩には『ググる』ことは文章作成上の大きな武器となる。
簡単にその歴史を『ググる』と次のようにある。
「ラリー・ペイジはグーグルを立ち上げた1998年9月の2カ月前に、すでにこの動詞を使っている。ペイジはサーヴィスにアップデートを加えたあとで、仲間たちに「楽しんで、ググりまくろうぜ!(Have fun and keep googling!)」というメッセージを送った。それがこの言葉の発祥とされている。
言葉を『ググる』と「Google」からwikipedia(電子辞書の最大サイト)にリンクが張られ事柄を見つけてくれる。他にもweblioやgoo辞書なども役に立つ。
何が便利かと言うとカット&ペースト(切り張り)を使って検索から得られた情報をメモ帳に移すことができるからで、これを貯めておいてコラムを書く時などに文章作成の助けにするのである。浅学菲才の輩故千文字の短文を書くのさえ、すべて自分オリジナルの表現で書くのは難しい。そこでこうした援軍が必要になるのである。
とはいえこのように他人の言葉を借りるのには限界があり、日常細事のモットーである日頃身の回りで起きる出来事を俎上に上げるようにしなければならない。そうしないと知らないことが多すぎて、下手をすると引用だけに終始して自分の言葉が生きないものになってしまう。
『ググる』が『グチる』になってしまいそうなので、今回はここまでとする。
2021.6.10 もったいない
最近ユーチューブでもったいない / Mottainai アニメ CM(NHK含む)を見たが、どこがもったいないのかさっぱりわからない。これには異論反論はあると思うが、企業イメージのCMとしか思えない。もったいないを標榜するnpo法人「もったいないジャパン」では、未使用の不用品から骨董品に至るまで段ボール単位で受け付けている。もちろん現金の寄付は一番喜ばれている。寄付には郵送費を負担しなければならないから、只で引き取ってくれる回収業者を使った方がましのような気がするがどうしたものか。
もったいない(勿体・物体ない)とは、元来は仏教用語で、元々「不都合である」、「かたじけない」などの意味で使用されていた。現在では、それらから転じて、一般的に「物の価値を十分に生かしきれておらず無駄になっている」状態やそのような状態にしてしまう行為を、戒める意味で使用される。
そこで私だが、もったいないモノが一杯ある(話の市「モノ好き第1-2弾」)。捨てきれないで山を成す書籍類。少し前に辞典。辞書・事典・図録の類は概ね処分した。今は本は値段が付かない。引き取りがただというだけだ。その中に歴史書全三巻は、今ネット上では1万7千円台で取引されている。仕入れ値が只だから、他のを合わせれば想像もつかない高値で売られていることになる。坊主丸儲けならぬ高額買取とは名ばかりの古本回収業は結構儲けているかもしれない。
そういったわけで、それこそ勿体ないのでそれ以降売るのは止めた。多分死蔵の形で私が生きている限り残ることになるだろう。
他にも履けなくなったズボンや、買い継いできたYシャツなどがハンガーに掛かったまま部屋の壁を埋めている。年を取ったら痩せると思ったのだが、栄養がいいから中々痩せない。むしろ太った。サイズの合わないズボンなど捨てればいいと思うだろうがそれができない。女房の一声があれば多分整理するだろう。下着やシャツ・靴下なども買い足しても捨てないから、いつの間にか引き出しからはみ出しそうだ。これは女房に捨てるものを選んで出してくれと言われている最中だ。
メガネなども20本ほどの老眼鏡がある。度が進む連れ購入したもの、白内障手術で視力が変わり買い揃えたものなどで、ごちゃごちゃになってケースに入っている。半分は捨ててもいいだが、これも中々実行に着手できない。
前のも書いたことだが、私は捨てられない男である。こんなことを続けているとその内女房に私も含め十把一絡げ(じっぱひとからげ)で捨てられてしまいそうな危機感を持っている。
モノ好きは もったいないから 捨てられず
2021.6.13 面倒くさい
これは変な話なのだが、前回の「もったいない」で捨てられないのは、つまるところ面倒くさいからなのだ。私は外面(そとずら)はマメで用意周到に見られているのだが、家の中ではその反対で丸でだらしない。縦のものを横にもしないほどの怠け者ぶりである。原因として考えられることは、加齢のせいか昼間でも眠気が消えない。そこで間歇的に昼寝するのだが、そんなものでは収まらない。仕事はもとより好きな野球観戦の最中にも眠気が襲い、まるで眠り病にでもかかったのかと疑うほどだ。
私は生活習慣病である糖尿病患者であるので、慢性的な睡眠不足状態に陥りやすいのは医学的に理解している。
2012年に発表された研究によると、加齢により次のような影響を受けてしまうことがわかった。・「睡眠時間の減少」・「レム睡眠の回数が減る」・「途中で起きてしまう回数が増える」。そのことから「 睡眠時間は年齢とともに少なくなり、レム睡眠の時間も少なくなってしまう。 レム睡眠の減少は、深い睡眠の時間が少なくなることに繋がるので、体力回復にも影響を及ぼす」としている。
体力が衰退すると、物事に集中できなくなる。そうなると何事も面倒くさくなる。では、体力を温存するために気を身体に蓄えるにはどうしたらよいのだろうか。
ヨガや気功のような鍛錬法があることは広く知られている。気功と言うのは「中国では中医学の経絡理論などと結びついて、健康法として太極拳と同様公園などで広く行なわれてきた。それまで呼び名が様々で統一されていなかったところを今の中国建国後の1957年に北戴河の国営気功療養院院長だった劉貴珍が『気功療法実践』を著し、これが各国で翻訳されて「気功」という統一された名が世界的に定着した」と wikipediaには記されている。実際私には到底できそうにない鍛錬法である。
私のホームページの「write」において「老いて後に(禅に学ぶ6)」が掲載されており、そこでは座禅を組むことを細かく記述している。これもある意味で気を集中する鍛錬法で、誰でも簡単にできる。その気さえあればだが。
怠け癖から脱する法は今までも何回もこのHPで掲載した事を、このコラムを書いていて思い出した。
そこで浮かんできた解決法の第一は、誰でもできる散歩である。思い返せば元気な頃は実に多く散策し、それを記事にしたものだ。矢張り健康維持の原点は散歩にある。
こうして何度「散歩に出よう」と自分に活を入れたことだろう。
ああそれなのに何故か「面倒くさい」が立ちはだかる。
2021.6.16 縁
人が何かの拍子でめぐり逢い、引き合って結ばれる。これは何かの縁である。よく考えるとこの縁と言うのは良きも悪しきも常に身の回りで生まれている。
人は生まれ付いた時から親類縁者という血縁で結ばれる縁を持っている。近頃は少子化が進みこうした関係の輪は狭まりつつあるように思える。
そこで今回のテーマ「縁」について少し詳しく調べてみた。
先ず言葉の定義を『ことバンク』で調べると、「縁」とは仏教用語で広い意味を持っていることが分かった。簡略化してまとめると次のようになる。
「巡り合わせ」という意味とか「結果として何かを生じさせる原因となるもの」という意味を総称して縁と言う。「縁は異なもの味なもの」という諺がある。これは「男女の縁はおもしろいもので、どこでどう結ばれるか予想がつかない」という意味であったり、「人の出会いは非常に奥深く、味のあるものだ」という意味であったりする。
これが縁の始まりであるが、冒頭示したように、こうしためぐり逢いで生じた縁は次第に拡大・消滅していく。30代、40代、50代と縁の輪は大きく拡大する。名刺ケース数個分の人が名を連ねる。
それが60代定年を迎えると同時に激減する。300枚ほどあった年賀状が100枚となり、80歳を過ぎると自ら縁切りをして50枚ほどになっている。これは血縁者であったり、深い仲の知人に限られる。それが毎年櫛の歯が欠けるように消えていく。知人の殆どが同年代だから仕方のないことだが無常を感じる。古人も「秋かけていひしながらもあらなくに木の葉ふりしくえにこそありけれ」(伊勢物語)風雅に詠っているが、そこはかとなく寂しさが伝わってくる歌である。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「縁」の解説では「仏教用語」仏教ではあらゆる存在に固定的実体を認めず,諸条件の寄集ったものと考えるが,その因果関係において,因を助成する間接的原因を縁という。
ここで因縁という言葉が浮かんでくる。仏教ではすべての生滅はこの二つの力によると説いている。
中国や日本では「八宗の祖師」と尊敬されている龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は「この「因縁」というのが因果の道理のことで、因果の道理は仏教の根幹である。因果の道理に立脚して教えを説かれたのがブッダである。では因果の道理とは何かというと、この世のすべては、因と縁が和合して生じている」としている。
今回は人と縁について主に仏教的解釈でまとめてみた。
2021.6.19 気
「お元気ですか」とか「気になる」といった「気・氣」を含む言葉は多い。
今回はこの言葉について検証してみる。
これらをざっと状態別に示すと(goo辞書)「①くうき。すいじょうき。「気化」「気体」「大気」 ②天地間に生じる自然現象。また、一年を二四に分けた一期間。「気候」「気象」「磁気」 ③いき。呼吸。「気管」「気息」「呼気」 ④ようす。けはい。おもむき。「気運」「気品」「景気」 ⑤におい。「香気」「臭気」 ⑥心のはたらき。意識。性質。「気力」「気分」「短気」などが上げられる。
非常に多くの言葉として使われているが、そもそも「気」そのものはというと、上記の説明からも精神的なものと、物質的なものとに大別される。
精神的なものとして、古代より中国では「気」とは自然界に存在するすべての物質の最も基本的な構成単位であり、エネルギーの元であると考えられてきた。これは宋代におこった儒学の一派宋学の大成者『朱熹』理論で「宇宙は理・気の二元からなるとし,人性の本質をこれによって説明したのが最初である。2021.6.13『面倒くさい』で気功について述べたが、これなどは人の気を生命力を与えるエネルギーとして体内に蓄える術である。日本で広く普及している合気道などもその流れの中から派生したものであろう。
一方、③にあるいき(息)や呼吸などは物理的に生命を維持するために必要な物質的存在だと考えられる。
今回「気」をテーマに選んだのには私の思い入れがある。それはこのHPに如何に気力を注ぎ続けることができるかということである。7月はHPは後期に入る。殆どのファイルが振出しに戻って白紙にして始める。ここで大切なのは細かいリンクなどを維持するためにいかに気持ちを集中できるかにかかっている。その結果に関して訪問者(visitor)は微妙な誤りすら見逃さない。リンクミスは避けられないが、速やかに修正しないと、このHPから離れてしまうことを数字で見せつける。
「継続は力なり」という諺があるが、それを成し得るために「気力」は不可欠なエネルギーである。気合いだ・気合いだ。気合いだと叫んだのはどこぞの御人だったか。
2021.6.22 ワクチン接種2回目
今回は「2021.5.6 ワクチン接種」の2回目接種の報告である。
1回目の接種後は2日ほど打った肩の筋肉が痛んだが、それ以外は何もなく3週間が経過し、そして2回目の接種に臨んだ。6月19日は折あしく土砂降りの雨の中会場(大規模接種会場)に入ったので、傘が大分濡れていた。会場の入り口にはビニール袋が置いてあり、私はそれに傘を入れて水雫が外に出ないようにしたが、そのまままで傘を持ち込む人も多く、床が滑りやすくなっていた。整理員がマメにモップで床を拭くのだが、追いつかないほどひどい雨が降っていた。
接種会場の中は入口付近が待合コーナーになっており、15分単位で10人1ブロックで、3ブロック合計30人が打つ順番を待つ仕組みなっており、それを15分単位で書類審査の席へ誘導していた。やがて私の順番が回ってくると、係員の誘導(一人につき一人で)4つある審査席の1つに案内された。そこで接種券と自己申告書(チェック項目にチェックを入れる)、身分証明書(私の場合はマイナンバーカード)、おくすり手帳などを提示した。名前確認と生年月日などを聞かれ無事そこを通過できると、首からつるす認識番号(私は199番だった)を2本かけてくれた。そして、会場奥のホールへと誘導された。距離を置いて要員が待機して何かの時の備えも十分だった。無論の事だが会場の要員は全員マスクと使い捨て手袋をしていた。「この人達は医療従事者だからもうワクチンは接種済みなのかな」などとふと思った。
接種会場に入ると今度は看護師(大きく看護師と裏表に描かれたビブスを着用していた)がサポートしてくれた。先ず順番待ちのホール1番下の椅子(1人分づつ離して座る)に誘導された。そこで医師の問診の順番を待たされた。しばらくして看護師がやってきて、問診ブースに案内してくれた。そこで型通りの質問に答え、最後に医師から「何か質問があるか」と聞かれたので「2度目のワクチンにはどのような効能があるのか」と質問したところ「1度目のワクチン接種は時間とともに効果が減衰する。2回目はそれを復旧し最高度の効果維持できるようなる」との回答だった。そこを出ると直ぐに注射ブースに案内された。その時首からつるした1本目の認識番号票が外された。注射は前回経験済みだったので、上着を脱ぎ半袖の着衣で左腕の最上部の筋肉に注射をした。これでワクチンの接種は終わりである。それから15分は待機時間で何も起こらないのを観察する。無事何事もなく、時間が経過すると看護師がやって来て、首から2本目の認識番号票を外し「お帰りになって結構ですお疲れ様でした」
こうして2回目ワクチン接種は、その後の副反応も出ずに、安心してこの経過報告を書き上げることができた。
2021.6.28 とぼける
人はよく本音は隠してとぼける事がある。ボケとは違うもうちょと知恵を使う、「 シラを切る. 知らんぷりをする。 わざと知らない振りをする。しらばっくれる」などとも言える行為である。これは年の功とでも言える処世術の一つで、自分本位で世渡り上手という側面がある。人に腹の内を見せない人はまるで悪人扱いされるが、そうなると腹の探り合いをする政治家は皆悪人になってしまう。
weblio辞典でその使用例を上げるなら、次の3つに大別される。「肝心な点になるととぼける」「とぼけた味がある」「ぼけて我が子の顔も知らぬ」などと例示されている。
さて、「とぼける」ことは悪なのかということに関し、古典が認めるとぼける技術(www.megurilab.com/)に、中国の古 典、五経の一つ『易経』には次のように記されている。「箕子之明夷。利貞:箕子(きし)の明(めい)、夷(やぶ)る。貞(ただ)しきに利(よ)ろし」これだけではさっぱり意味が分からない。次のような話がその内容だ。
「殷の時代、箕子(きし)という賢者が紂王(ちゅうおう)という暴君にあらぬ疑いをかけられ、捕らえられた。これに際して、箕子はあれこれと尋問を受けるのだが、この時、「とぼける」を使う。狂人のふりをして、おとぼけをかまし、その場を丸く収めたと」いう記述が残っている。易経に残された古人の知恵「「めんどくさい時にとぼける事は良い事なんだよ」と言っている。
世の中には「黒白はっきりしろ」「お前は黒か白かどっちだ」と二者択一を迫られるケースも多くある。そこを無理にどちらかの判断をしてひどい目に合うこともあるだろう。
今回のオリンピック・パラリンピックを開催するか中止にするか。開催しても有観客にする無観客するかで現在大論争が行われている。コロナ禍での開催は中止となれば、これは一つの見識と言えよう。私には話がもう実際には開催ということになっている風にも見える。
このケースの場合は、おとぼけのままどんどん既成事実を積み上げて、その間にワクチン接種を急拡大して罹患者を減少に向かわせることで、いつの間にか五輪は終わっているという事になるというのが私の観測である。
という話になれば、この五輪は「壮大な『おとぼけ』の中で箕子(きし)の例を上げ、粛々と競技が行われた」というような記事を報ずるような新聞社も出てくることだろう。