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2021.7.2 身から出たサビ
 最近あまり聞かれなくなった諺に「身から出たサビ (錆)」というのがある。これはどういうことを意味しているのだろうか。この諺は古く「江戸いろはかるた」の中にも取り上げられている。この「身から得た錆」とはどうやってできた言葉なのだろうか調べてみた(語源由来辞典)。
 まず、身から出た錆の「身」とというのはもともと刀の鞘に収まっている部分である刀身のことを指している。刀を適切に手入れしていないと、刃は錆びが出るようになる。するといざ刀を抜かなければならない大事な時に役に立たず、相手に切られてしまい命を落とす=(身)を落とすことになる。
 また、刀身から出たサビが刀自体をだめにしてしう。このことから「自分の悪い行いや過ちが原因で自分自身が苦しんだり、不利益をこうむること」という意味で使われるようになったといわれている。よく映画などでは武士が刀の刀身を外し錆止めの粉を打っているシーンをみかけるが、これが武士の魂と言われる刀をよく手入れしている絵である。
 我が身を振り返って見ると、若い時から年を取るまで心身の管理に無関心だったからきっと今や錆だらけで抜き差しならない状態になっているに違いない。
 身の錆とはその時は気づかないが取り返しのつかない段階で露見することになるから始末が悪い。働いている時(仕事している時)に周囲に気配りしていれば、錆の防止になる。私などは仕事に好き嫌いが多かったから、その分錆も多く溜まったことだろうと今にして思う。
 仕事に集中している時は錆は出ないが、刃こぼれは酷かった。真剣勝負の世界だけに人との軋轢が強かったからだ。
 せめて残り少ない余生は、今を生きるだけだが、気を引き締め直して、さびを生じがちな心の中の刀を、さびさせないよう普段の心掛けが大切だ。
 『平家物語』出だしの文「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)を表す。驕(おご)れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」(話の市:老いて後に「禅を知る」2.道元禅より)。

2021.7.6 諺集(あ行~か行)に見る人生(1)
 誰でも知っている諺と自分の人生を比べて見て、どのように反映されてきたか話したい。今回は諺集(あ行~か行)を開いてまとめてみた。
 この仕事を始めたのが2013年だからやがて丸8年になる。最初の諺は「 石の上にも三年」である。何を意味するかというと「冷たい石の上にも、三年すわり続ければあたたかくなる。つらくてもがまんして続ければ、必ず成功する」といった意味である。
 ところが最近それが危ういもののように思える 。この仕事のサブタイトルは「風を楽しむ」で市内の公園を散策してリポートすることが中心で、元気にあちこちを探訪した。その内容は本ページの「過去のINDEX」をクリックしてその当時まで遡れば閲覧することができる。
 その当時を振り返ると「敬老パス」をフルに使って市内をくまなく散策できた。楽しい時代だった。まさに風を 楽しんでいたのだ。ただそれには絶対条件として歩くことができる体力が必要だということを齢をとる毎に感じるようになった。今では散策リポートは廃版となってしまった。そうしたことを勘案するとこの諺を言い換えると「石の上に三年も座りつ続けると足が弱って歩けなくなる。従って成功に終わるわけではない。これにはタイムリミットというものがある。動けなくなればThe End」ということである。
 私はこのHPのプロバイダーとの契約を今月1年延長した。これは最低限あと一年は頑張り続けたいという意思表示である。
 次の諺は「朝(あした)に夕べを謀(はか)らず」この意味は「朝には夕刻のことまで考えない。長い先のことは考えない( 朝に夕べを慮(おもんぱか)らず)」これなどは今の私にはピッタリな諺だ。
 ついでに身をもって知った諺を3種ほど上げておく。
「後の祭り(祭の済んだ翌日。時期が遅(おく)れてしまって、後悔しても間に合わない。時期を失すること、手遅れの意)」
「後は野となれ山となれ(目の前のことさえ片づけば、後はどうなってもかまわない)」これなどはかなり投げやりで反省はするが「 命長ければ恥多し(あまり長生きをすると、恥をさらすことも多くなる)」である。
 今回の〆はこのコロナ禍に相応しい「昨日の淵(ふち)は今日の瀬(世の中は変転きわまりなく無常であるということ)」といったところか。

2021.7.9 諺集(さ行)に見る人生(2)
 今回は諺集(主にさ行を中心に)から選んで、自分の人生に準(なぞら)えて、回顧してみた。
 諺というものはwikipediaによれば「ことわざ(諺)は、鋭い風刺や教訓・知識などを含んだ、世代から世代へと言い伝えられてきた簡潔な言葉のことである。俚諺(りげん)ともいう。ことわざは、観察と経験そして知識の共有によって、長い時間をかけて形成されたものである。その多くは簡潔で覚えやすく、言い得て妙であり、ある一面の真実を鋭く言い当てている」とあるように、自分が生活して来た上でも「さ行」だけで、1回分のコラムを書く作業の骨格を成しているから驚く。
 先ずは「歳月人を待たず」という諺だが「時間は人の都合とは関係なしに刻々と過ぎていくものであり、人を待ってくれることなどないという意味」で「盛年重ねて来たらず、一日再びあしたなり難し、時に及んで当に勉励すべし」というように結んでいる。私などはたいしたこともせず、ただただ年を取っている。これを「馬齢を重ねる」などという。
 「去る者は日日に疎し(うとし)」という諺なども実感として、最近とみに感じることで、親しい知人と永久(とわ)の別れをし、暫くは哀しみが続くが、時の流れがいつの間にか癒してくれる。この諺の意味は「死んた人は、月日がたつにつれ次第に忘れられるもの。親しかった者でも、遠ざかれば次第にその人への情が薄れるもの」ということで、もしそうでないと悲しみは日々重なり精神的に持たないことになるだろう。この諺の由来には「来たる者は日に以て親し」と続きがあり、日々顔を合わせている内に親しくなるものだとしている。
 次の諺は何かほのぼのする「三人寄れば文殊の知恵」で、これは「凡人がひとりで考えても、良い考えや案は浮かばないが、三人集まって相談することで、文殊菩薩という知恵を司る神様のようなよい知恵が出るということ」と最大限の褒めようだが、文殊菩薩のような神様の助けがないと、それほどの知恵は出ないだろう。これは「 苦しい時の神頼み」と同じで神様・仏様頼りと言っても的外れではない。
 人生いろいろ経験を積むと用心深くなる。これを諺で言うと「触らぬ神に祟りなし( 神様と関わりをもたなければ、神様の祟りを受けることはないという意)」が相応しい。この語源は「しなくてもいい余計な手出しや、ロ出しは控えたほうがいいというたとえ」で「亀の甲より年の劫( こう:きわめて長い時間)」がモノを言う。

2021.7.12 諺集に見るわが人生(4)
 今回からは振出しに戻って諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」から選んで、自分の人生に準(なぞら)えて、回顧していくことにする。
 人と人が惹き合って不思議な縁で結ばれる。そして新し家族ができる。これが人の巣作りである。これを諺で言うと「合縁奇縁」といって特に人と人と特に男女の間柄についていう。「合愛奇縁」とか「愛縁奇縁」「合縁機縁」などとも言う。
 結婚式には普通仲人が立つがこれを「時の氏神」などと言い、その元は「挨拶は時の氏神」で、争いごとの時仲裁してくれる人がいたら、その仲裁に従うという意味。「時の氏神」も同じ。
 「愛は小出しにせよ」この諺の意味は、激しい愛は長続きしない。少しずつ長く持続するのがよいということ。私などは激しい愛もなければ小出しの愛を少々と言ったところか。
 ここのところr高齢者の知り合いが相次いでこの世を去り、身に染みて「会うは別れの始め」ということを感じている。法華経の四字熟語に「愛別離苦」がある。この世の定めで仏教でいう八苦の一つ。「八苦」とは生・老・病・死の四苦に、愛別離苦(愛する人と生き別れる苦)・怨憎会苦(おんぞうえく)(うらみ憎む人と会う苦)・求不得苦(ぐふとくく)(求めるものが得られない苦)・五陰盛苦(ごおんじょうく)(心身のはたらきが盛んである苦)を加えた、八つの苦しみ。合わせて四苦八苦などという類語もある。
 青春時代には異性に惚れた経験は誰にでもあることだろう。これを纏めて「相惚れ自惚れ片惚れ岡惚れ」などいう。相惚れは相思相愛。自惚れ(うぬぼれ)は独りよがり。片惚れとはあ片思いのこと。岡惚れは密かに憧れること。大概の場合は「相惚れ」を外した惚れ方に終わってしまう運命にある。
 家系に関する諺に「上がって三代、下がって三代」がある。これは血筋のつながりや親類などで縁が深いのは前にも後にも三代までということ。それ以上になると他人と変わらない。一度家系調べで祖父の代までの消息は掴めたが、それ以上は知ることはできなかった。
 まだまだ先があるが今回はこの辺にして次回に譲ることにする。

2021.7.16 諺集に見るわが人生(4) 
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」から「秋」から始めて、回顧していくことにする。
 人の人生を四季に例えれば我が年代は秋または冬に相当する。大体想像がつくとは思うが、下り坂の兆候を示す。
 「秋の入り日と年寄りは、だんだん落ち目が早くなる」私は初めて目にするが、読んで字の如し。
 「秋の日は釣瓶落とし」この諺は良く知られている。秋の日が急速に暮れる様子を表したもので、秋に日は井戸の中へつるべ(釣瓶・釣る瓶『つるべ』とは、井戸において、水をくみ上げる際に利用される、綱等を取り付けた桶などの容器をいい、後に、それを引き上げる天秤状の釣瓶竿や滑車など機構の一切を指すようになった)を落とすように一気に沈むことを喩にしたもの。
 次は「諦めは心の養生」失敗や不運は、思い切ってあきらめるのが精神的によいということ。精神的によいと分かっていても結構引きずるものである。
 「悪法もまた法なり」これは古代ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉として伝えられている。このコロナ禍において政府は飲食店に関する取り締まり法案で大揉めして、結果詫びて撤回するという醜態をさらしている。現下のような緊急事態時には誰もが納得できるような法案など野党ですら出せないだろう。こういう時は腹を括って「悪法も法なり」を実践してはどうか。
 「挙げ句の果て」少々耳に痛いことわざだが、挙げ句とは俳諧では七、七の句でとどめの句である。その意とするところは「結果、結局。紆余曲折を経て、その結果。あまり好ましくない結果に至った場合に用いることが多い」とあり、先程の諺の行く末を指しているようなものだ。
 「上げ禅(に)据え膳」何から何まで女房任せの私のような 不精者の天国。その先は地獄まっしぐらを覚悟せねばなるまい。
 「顎で背中を掻く」到底できないことをいう。私は背中にポチポチができていて時々痒くてたまらない時がある。そこで伸び縮みする孫の手を購入して掻いている。そうするとかえってかゆみが広がって収まりが付かなくなる。次回に続く。

2021.7.19 諺集に見るわが人生(5) 
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」から「朝」から始めて、回顧していくことにする。
「朝起き千両、夜起き百両」という諺がある。入力では素直に変換してくれない忘れ去られた諺だ。これは「早起きは三文の徳」と同じである。小さい頃そう躾けられて育ったが、どうも早く起きないと片付かないからだったと今にして思う。大家族が小さな家で生活するということは、今のように小さい時から自分の部屋を与えられているのとは訳が違う。だから三文の徳になるというのは疑わしい。
 ネットワーク網が拡大するAIの時代は、ライフパターンを確実に変えている。リモートワークでは自分の時間を自由に使える。朝型の人間も夜型の人間も変わりなく自分の好きなようなスタイルで仕事ができる。
 時代が変わると「諺」も生活の中で、その存在意義を失うものの方が多いことに気づく。
 「朝曇り昼日照り」これは朝のうち曇っている夏の日は、日中になってひどく暑くなるということ。これなどは梅雨明けしてから、ここ2.3日そっくりで日中は出かけることもできないほどだ。部屋の中も暑いがまだ我慢してエアコンは入れていない。私はエアコンの冷たさはどうも苦手である。今は扇風機で十分足りている。水分補給は十分で、毎日冷蔵庫の中で冷やした麦茶や清涼飲料水を1リットル近く飲む。
 これからは引用文「古今和歌集」の「底ひなき淵やは騒ぐ(底知れない深い淵は波立って騒ぐだろうか、いや静かなものだ)山川の浅き瀬にこそあだ浪は立て」から出た諺に「浅瀬に仇浪」というのがある。この意味は「思慮の浅い人ほどよくしゃべり、あれこれとうるさく騒ぎ立てるということで、これは川の浅瀬には、いたずらにさざ波が立つ」ところからきている。
今は亡き古い知人にそれに近い者がおり、仲間でいる時は面白くて付き合っていたが、そんな調子で地位が上がると見向きもしなくなり、苦い思いをしたことがある。「君子豹変す」と似た諺だが、結局周囲からの嫌われものになったと聞いている。
 口直しに「朝の来ない夜はない」今苦境にあっても、いつか事態は好転するという意味。当面直面している最大の国難、五輪開催とcovid19の関わりがある。いかに感染者を少なくし、五輪を多くの人が楽しめるようになるためには、ワクチン接種のスピードを上げることと多くの人が接種を受けることが必要不可欠な条件である。

2021.7.23 諺集に見るわが人生(6) 
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「朝」から始めて、回顧していくことにする。
 「朝風呂丹前長火鉢」朝から風呂に入り、丹前(くつろいだ時に着る。防寒用の和服。広袖で綿入れの衣服)を着て、長火鉢の前でくつろぐこと。気楽な生活のたとえ。これは冬の景色を描いたものだが、私が子供の頃を思い出せば、父親も祖父もそんな姿でくつろいでいる姿など見た記憶にない。
 私は今隠居だからこのような真似事をしようと思えばできる。ちょっと普通の御隠居とは違い仕事を持っている(HPの作成)から長火鉢ならぬパソコンの前で頭をひねっている日常だ。仕事さえなければ昔風なご気楽なライフスタイルもやってやれぬことはない。
 せかせかしたご時世だから、同僚の御同輩たちも似たようなもので、何かと忙しく毎日を過ごしているようだ。
 「朝飯前のお茶漬け」物事が簡単にできることの喩。朝飯の前の空腹時に食べるお茶漬けはさらさらと簡単に食べられることから。昔の人は日の出とともに起きたから、早起きだったのでしょう。
 私などは朝起きたらすぐ朝飯だから、朝飯前には何にもできない。前にも出た諺に「早起きは三文の徳」というのがあった。まさに昔の人の日常は朝飯前に仕事ができる余裕があったのだろう。
 「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」孔子『春秋時代の中国の思想家、儒教の始祖で(紀元前552~前479)』の論語からの言葉で「もしも朝、人の生きる道を聞くことができたら、その夕方に死んでも心残りはない」名句には多くの解釈や諸説がある。その中の一つ「この一句が、孔子が死を前にして弟子を励ました言葉か、それとも飽くことのない学問追求の態度を表す言葉かはっきりしないが、いずれにせよ道を求めることを強く主張しているものであることには変わりがない」これらのルーツを探っていると難しくて肩が凝る。「論語読みの論語知らず」とか「明日は明日の風が吹く」という楽天的な諺の方が私には向いているのかも知れない。
 今回の〆となる諺は「味も素っ気もない」何の面白さもない、無味乾燥のこと。何と身につまされる言葉か。 次回に続く

2021.7.27 諺集に見るわが人生(7) 
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「明」から始めて、回顧していくことにする。
 「明日ありと思う心の仇桜」人の世の無常、はかなさをいうもの。明日も桜は咲いているだろうと安心していると、夜のうちに散ってしまうかもしれないという意から。仇花とは散りやすくはかない桜花のこと。類義に「諸行無常」「世の中は三日見ぬ間の桜かな」。
 話の市の中で「老いて後に禅を知る」で特集しているように、私にとって生きるということの意義を追及する中で、予期せぬ人との別れが重なることが多くなり、人の世の無常を感じている。
 そう悲観することもない。「明日まだ手つかず」明日はまだ手つかずで残っているのだから、あわてることはないということ。明日は明日、今日は今日というのが似たような諺。
 「畔から行くも田から行くも同じ」私は初めて目にした諺だが、この内容が中々意味深い。「手段や方法は違っても結果は同じだということ。畦道を通って行っても田を踏んでいっても、行き着くところは同じという」。私は方向音痴だから田から行っても、畔から行ってもどちらも全然別の所に行ってしまう。今にして思えば「よく道を踏み外さなかったものだ」と思う。
 「頭隠して尻隠さず」これは江戸いろはかるたにもある諺で、誰でも知っているだろう。だがその意味を知っている人はどれほどいるだろうか。類義に「雉の隠れ」というのがある。
 意味は同じで「悪事や欠点などの一部だけを隠し全体を隠したつもりでいることのたとえ。雉は追われると草むらの中に頭を突っ込むが、長い尾が外に突き出て丸見えになっていることからこう言われている。わたしなどもカミさんに小さな言い訳から全てを見抜かれてがんじがらめの状態になること屡々である。 次回に続く