2021.8.3 諺集に見るわが人生(8)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「当」から始めて、回顧していくことにする。
「当たるも八卦当たらぬも八卦」占い(八卦のこと)は、当たることもあれば当らないこともある。悪い卦が出たとき、気にするなということ。だからやってみよという意味。
大体、人生こんなシーンに出会うことは多いものだ。私は占いを信じるわけではないがゲン担ぎはするから、結構迷信に弱いところもある。
類義には「当たるも不思議当らぬも不思議」「合うも不思議、合わぬも不思議」「合うも夢、合わぬも夢」がある。
次は「彼方(あちら)立てれば此方(こちら)が立たぬ」物事を両立するのはむずかしいということ。続けて「双方立てれば身が立たぬ」とくる。人間関係とはややこしいことも多く、こういう局面に立たされることは誰でも経験していることだろう。今東京オリンピックは後半を迎え、各種競技の決勝戦が行われている。これなどは勝つか負けるかであるから結果ははっきりしている。
こと人間関係を秤にかけるということが避けられない場合もある。「とかくに人の世は住みにくい(夏目漱石)」ものなのだ。
これは誰でも知っている諺で「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」失敗に懲りて必要以上に用心することのたとえ。熱い吸い物で口をやけどしたした者が、それに懲りて冷たい膾までも吹いて冷ますこと。失敗に懲りずに失敗を重ねる懲りない男が私である。長い人生を振り返ると数えきれない失敗をしたが、そうした苦い思いをすることが、チャレンジ精神に火をつけ人を逞しくしていくのではないだろうか。反面教師のような諺だ。
今回最後に上げるのが「後は野となれ山となれ」後のことは自分の知ったことではない。という開き直りの気持ちを表す言葉。人には後に引けない行動が避けられない時がある。そうした時は後のことなどどうでもいいことなのじゃないか。次回に続く。
2021.8.9 諺集に見るわが人生(9)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「穴」から始めて、回顧していくことにする。
「穴があったら入りたい」ご存知「失敗などをして、穴があったら入って人目を避けたいほど、恥ずかしくてたまらない様子」。若い時などはシャイだったので、よくこういう思いをした。しかし、次第に面の皮が厚くなり、古希を過ぎるころには穴を探すほどのの穴はない恥知らずになっている。
「危ない橋を渡る」目的を達成するために、あえて危険な手段を用いて物事を行うことのたとえ。いつ落ちるか分からない危険な橋を渡ることから。その反対は「石橋を叩いて渡る」私は臆病者だからどちらかというと石橋をたたく方。
ここに中々奥深い諺がある。私には始めてみる諺で「脂(あぶら)に画き氷に鏤(ちりば)む」苦労しても効果のないことのたとえ。骨折り損。脂肪に絵を描き氷に彫刻しても、直ぐに消えてしまうところから。その出典には「内にその質無くして、外にその文を学ぶ。賢師良友ありと雖(いえど)も、脂に画き冰(こおり)に鏤むが若(ごと)し。日を費やし功を損す(自分に素質がないのに、表面的に学問をする。これでは、賢い先生や良い友人がいたとしても、脂肪の塊に絵を描き、氷に彫刻するように、すぐにあとかたもなく消えてしまう。日数を費やしても成果が上がらず、無駄になってしまう」とある。
先日「そごう横浜」で開催された『春の院展』を観に行ったが、出展された三百点余の作品は流石に傑作ばかりで、ただただ目を奪われるばかりであった。その中でも私の好みの関係で特に印象深い作品も数点あった。それらに共通する特徴は微細な点にも強い拘りを示すもので製作期間も数か月か1年あまりはかかったと思われる作品ばかりだった。審査員ではないので作品の評価はできないが匠の技を感じさせる魅力ある作品だったことに間違いはない。
思うにこうした場に展示される作品はその道の高みにあるものばかりで、その下には数千点もの選出されなかった作品があったに違いない。残念ながら「日を費やし功を損す」作品だったかもしれない。いくら頑張っても何の価値も認められないモノがあるのもこの世界である。
私も雑文を描き、江戸文化の伝承の真似事をしているが、「骨折り損のくたびれ儲け」にならないよう精を出していくつもりだ。残念なことは時間勝負の作品作りなので粗雑さは免れないところがある。次回に続く。
2021.8.12 諺集に見るわが人生(10)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「雨」から始めて、回顧していくことにする。
「雨だれ石を穿つ」小さな力でも根気よく努力すれば、いつかは成果が得られることのたとえ。出典 『漢書・枚乗伝』には「泰山の霤(あまだれ)は石を穿(うが)ち、単極の航は幹を断つ」(擦り切れるまでになった井戸の釣瓶の縄も長い間井桁をこすっているうちに、井桁をすり減らしてしまう)。参考までに英語の諺「Constant dripping wears the stone.」(絶えず垂れ落ちる雫は石にさえ穴を開ける)。と長々と説明してきたが、私のHPのモットーは「継続は力なり」である。その意味するところは、この諺と同じである。
「飴と鞭」しつけなどをするときに、甘やかす面と厳しくする面との両方を備えていることのたとえ。原典はWikipediaによれば、ドイツ帝国の「鉄血宰相」ビスマルクによる為政者の人民懐柔策で、一方では弾圧法規を制定すると共に、一方では生活に役に立つ政策を実施することである。鞭を前者に、飴を後者に例えた言葉である。今の時代ではハラスメントなどの問題が社会化したため、飴の部分だけが強調され、これもまた課題が多くあり、両者のバランスを世間がどこまで認めるかに注目している。私は高校時代柔道部に属していたが、飴はなく鞭ばかりであまりいい思い出はない。
ちょうど今高校野球たけなわだが、応援者はスタンドに入ってメガホンを2つ持って打ち付けて音で応援している。声は出してはいけないというルールがあるからだ。おまけにNHKの放送によれば飲食は禁止だと言っている。食は分かるが、飲む方は炎天下35度を超える中で水分補給しなければ、熱中症にかかること必至である。まさか本当に水分補給も認めないことはないとは思うが、これぞ鞭の最たるものになるだろう。昔の江戸っ子に言わせれば「コロナ禍、コロナ禍と野暮なこと言うんじゃねーよ。べらんめえ」と聞こえるようだ。次回に続く。
2021.8.16 諺集に見るわが人生(11)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「過」から始めて、回顧していくことにする。
「過ちを改めざる。これを過ちと謂う」過ちがあったのに、それを改めようとしないのは、これこそ本当の過ちというべきものだ。過ちと気づいたら即座に改めよという教え。君子たるものの心得を述べた孔子の言葉。私は君子ではないので、よく過ちを繰り返す。その最たるものが「安物買いの銭失い」で、結局より質の良いものを高い値段で買うことになる。何か損した気がする。色々過失を犯すが、そういうことは比較的覚えているもので、思い出すたびに苦い味がする。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というように、いったん過失を犯すと、それは消すことはできない。そう悲観することもない。「過つは人の性(さが)、許すは神の心」人は過ちを犯すものであり、それを許すのは神である。神様が助けてくれる。日本には八百万神がいるので、探せば状況にあった神はいるはずだ。
次の諺は「嵐の後には凪がくる」今は状況が悪くても、あせらず待っていれば、いつかは幸運が訪れてくれるということ。
この「類義」に「待てば海路の日和あり」「石の上にも3年」「果報は寝て待て」「雨の後は上天気」がある。まさに今はコロナ禍、デルタ株がまん延し強い「嵐」にさらされており、凪の気配は見えない。収束までは遠く「天気」になる予測が立っていない。そんな中で東京オリンピックは終わった。無観客という異常な光景は痛々しかった。直ぐにパラリンピックが始まるが、これも今の環境下では寂しい大会になるだろう。テレビの向こう側でいくら応援しても、選手たちにその思いが伝わるとは思えないのが残念だ。
ワクチン接種は進んでいるが、年内には全国民に接種されても、変異を繰り返しより強力になる変異株にどれだけ効果を発揮するかは未知数である。全国民がかつて経験したことないこの疾病が地球上から消え去るのはいつになるのだろう。今は祈るしかない。子どもの頃下駄を飛ばして「あ~した天気になぁ~れ!」と遊んだことを今の子供たちに伝えたい。次回に続く。
2021.8.19 諺集に見るわが人生(12)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「有」から始めて、回顧していくことにする。
「有りそうで無いのが金、無さそうで有るのが借金」人の貧富は外見から判断するのは難しいが、裕福な人は意外と少なく、借金をしている人は意外に多いようだということ。最近我が家の周囲には次々に新築家屋が建つ。殆どが庭なしの3階建てと決まっている。駐車場には高級外車(ベンツ・アウディー・BMWなど)。いかにも裕福に見える。その実態はローン漬けだったりしてと、下種の勘繰りの一つもしたくなる。私のような隠居老人は、私は例外だが「有りそうで有るのが暇、有りそうで有るのが財産」無いのは余生ぐらいか。
次は「歩く足には泥がつく」今はインフラが整備され、泥の道などは山にでも行かないと見られないが、私の子どもの頃は我が家の周囲は泥道だった。さてこの諺の意味は、何かを行うとわずらわしいことが生ずるということ。類義語は「犬も歩けば棒に当たる」「歩く足には棒あたる」「犬も歩けば棒に合う」などがある。 どれも「行動を起こせば、思いも寄らない幸運がある」という意味で使われる言葉だ。「最初に行動ありき」とでも言ったところか。
そのまた次は「合わせ物は離れ物」何かの縁で会った者や結ばれた者は、いつかは分かれるときがくるということ。合わせて作ったものは、いつかは離れる時がくるという意から。特に、男女や夫婦の仲についていう。「類義」夫婦は合わせ物、離れ物。会うは別れの始め。夫婦は他人の集まり。など多くある。日本の仏教感に根付いているように見える。ある種の諦観(諦め)を感づる。特に年をとればとるほど実体験でそれを身に染みて感じる。
「合わぬ蓋あれば合う蓋あり」人間にも物にも適材適所のあることのたとえ。今回のオリンピックを見ていても、卓球やバドミントンのダブルスはペアの息がピッタリ合って金メダルを手にしている。これなどはピッタリ合った蓋なのだろうが、必ずしも人としての相性があっているとは限らない。人生の勝負にも厳しい練習とピッタリ合った呼吸を続けることができれば、自然に合う蓋が育まれていくのかも知れない。次回に続く。
2021.8.22 諺集に見るわが人生(13)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「有」から始めて、回顧していくことにする。
「安石出でずんば蒼生を如何せん」出典は「世説新語」(『 世説新語 』(せせつ しんご)とは、 中国 南北朝時代の南朝宋の臨川王 劉義慶 が編纂した、 後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた文言小説集。いわゆる「竹林の七賢」に代表される老荘思想に基づいた哲学的談論が、当時の貴族サロンでもてはやされたことを裏付ける資料ともなっている)私ははじめてみる諺だが、相当有名な諺のようだ。その意味は「偉大な政治家の出馬を待望する場合などに用いられることば。▷安石=晋の政治家謝安の字(あざな)。蒼生=万民のこと」
予想ではパラリンピックが終わった頃には任期満了後の解散総選挙の時期に入る。私には偉大な政治家の出馬は出現しないと思う。その頃にこの新型コロナウィルスを封じ込めることを達成した政治家がいれば、それが偉大な政治家になるだろう。
次は韓非子(『韓非子』(かんぴし)は、中国戦国時代の法家である韓非の著書。内容は春秋戦国時代の思想・社会の集大成と分析とも言えるものである。韓非子の思想は、皮肉なことに韓非子の出身国である韓ではなく、敵対する秦の始皇帝によって高く評価された)の言葉から「闇(あん)を以って疵(きず)を見る」暗い所から明るい所を見れば、よく見えるように、虚静(虚心で平静であること)な態度で自分の身を人から見えないようにして人を見れば、自然と人の欠点が見えてくるということ。
補説によると本来は君主が臣下を観察する方法を説いたもので、常に本心を知られないようにして虚静に臣下を観察することをいう。
虚静という言葉ははじめて見た。当然この諺を見るのも初めてである。しかし内容を見ると、現在のリーダーシップをとる者たちにも要求される資質と言えよう。常に本心を隠すリーダーとは孤独なんだなと思う。私は残念ながらそういう経験のない臣下の立場で現役時代を終わらせた。次回は「い行」に入る。
2021.8.26 諺集に見るわが人生(14)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していくことにする。
「いい後は悪い」いい事があった後は、とかく悪いことが起こりがちであるから、調子に乗ってはいけないということ。似た諺に「好事魔多し」ものごとがうまく行きそうなときには、とかく邪魔が入るものだ、ということ。禍福(吉凶)は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし)とは。幸福と不幸は、より合わ縄のように交互にやってくるということ等がある。まだ探せばあると思うが、これほどに似たような意味を持つ諺はそうはないだろう。それだけ人の運不運は、誰の人生の旅路の中では起こることなどだろう。
今までずっと元気だった人が突然病気にかかり、軽傷で退院できた。今流行りの新型コロナウィルスなどはこの例にぴったり合う状況といえよう。人にはいろいろな人生があるが、質素で堅実な生き方をすれば、大きな幸福や不幸は病気を除き波が無い平凡な生き方ができるだろう。まあ私などはこんな生き方をしていると思う。
次は「言いたいことは明日言え」言いたいことがあっても、十分に考えた上で言えということ。思ったことをすぐに口に出すと、失言したり相手を傷つけたりしがちだから、一晩冷静に考えて明日になってから言えとういう意から。と言うことだが、家族内の話なら兎も角、即刻即断が迫られるせっかちな世の中、悠長に明日までは待てない事情がある。そこに色々な軋轢が生じ野党は足を引っ張る。これは政治の世界の話。
次は「言うは易く行うは難し」説明は不要な諺。何事も口で言うほどやさしくはない。類義に「口では大阪の城も建つ」そこまで大風呂敷を敷くまでもなく、「歳はとっても針の穴に糸を通すぐらいのことは簡単だ」程度の法螺は吹ける。次回に続く。
2021.8.29 諺集に見るわが人生(15)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「い」から始めて、回顧していくことにする。
「怒りは敵と思え」これは徳川家康の遺訓にある言葉で、怒りは慎むべきだという戒め(いましめ)。怒りは必ず相手の怒りや恨みを招き、結局は自分の身を滅ぼすことになるという意味。流石に「鳴くまで待とう時鳥」と喩えられた家康らしい言葉だ。私も80歳を過ぎて怒るという感情は表に出ることはない。昔は怒りで分別を失い人前で恥ずかしい姿を晒したこともある。
似たような諺に「意見三両、堪忍五両」というのがある。これは「他人の意見をよく聞き、じっと忍耐すべきだということ。他人から受ける意見や忠告には三両の価値があり、自分自身がじっと我慢する態度には五両の価値がある」という意味。それだけ我慢することが大変なことなのだということか。
人の意見や忠告をよく聞くことは三両の価値があるというのと同じ意味を持つ諺に「意見と餅はつくほど練れる」というのがあり、餅はつけばつくほど練れて美味しくなる。同様に人間も他人の意見に従えば従うほど人格が練れて円満になる。個性や人との差別をなくす方に重きが置かれる現代では、このような儒教的考えはむしろ嫌われる傾向にある。
現在パラリンピックたけなわだが、勝負に臨む者は「意気軒昂(いきけんこう)」だが、敗者は「意気消沈(いきしょうちん)」し、勝者は「意気揚々」と引き上げる。「読んで字のごとし」言葉の意味は必要ないだろう。
「石が流れて木の葉が沈む」一般大衆の無責任な言論が、道理に反して威力を持つたとえ。水に沈むはずの石を浮かせ、水に浮くはずの木の葉を沈めるという意味。あってはならないことが起きる。
9月末頃から政局に入る。SNSなどのような無責任な言動が横行する中、確りとした目で日本の未来を託せる政治家を選ぶことが肝要だ。次回に続く。