絵物語 復刻版 江戸の職人(22-31)
2019.9.29から江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを作者が筆で書き写したものを、彩色するとともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。今回は22番~31番までで食文化の豊かさが読み取れる(2020.3.1~5.19)。
22料理人
天保5年(1834)刊『早見献立表』に料理人の心得として、次のように記されている。
「料理方に四季の心得あり。先ず春冬はいかにもふっさりと見ゆるように庖丁の心得あるべく、夏秋はすんがりと見ゆるように為べし。さればとて淋しく少なきはあしく、たとえば魚菜とも平目にすれば盛かた賑やかなり。竪目なれば清冷(すんがり)と見ゆる。爰(これ)を以て考ふべし。あながち竪目平目と一概にいふにはあらじ。煮方加減熱きかげんの物は至極暖かにて、冷なるものはひやかなるべく必ず夏日なりとも煮物のさめたるは甚だ不馳走になるなり。冬の日もこれに准ずべし。」
絵は町屋の台所で、料理人が七輪で火を起こしています。絵の左に見える御膳籠の上に雨戸を置いて急造の棚を作り、その上に黒塗膳、鉢、燭台をのせているところから、冠婚葬祭いづれかの台所の様子と創造されます文久2年 歌川国盛画
23米搗屋
玄米を白米となすに当たり大道春とて臼杵を持ち起こし、それを家々に往きて玄米を搗くを業とするものあり、その形様図の如し。熟練した米搗きが一日どれほど搗いたか分からないが天保11年、桑名藩士、渡部半太夫の「桑名日記」に「米搗きがくる。まだつき習いの米搗きと見えて暮合までかかり一俵やっと搗く」とある。
絵の米搗き屋は紺木綿の腹掛股引を着ていますが、その服装はまちまちで、ただ一つ共通しているのは、杵の柄が当たる股の所に、小さな座布団を下げていることです。
手の平で諸国見分ける搗米屋 (出典 慶応2年松川半山画)
24鮨屋
「江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の阿武松のすしを略して松の鮓と云う。天保以来は店を浅草第六天前に移す。また呉服橋外に店を出す。 東両国元町与兵衛鮓
この両国の与兵衛が握鮓の元祖だと言われています。握り鮓が現れてから押し鮓は影を潜め、京阪だけになったようです。
文政十年頃は、切鮨(押鮓)であったようです。
絵は上方の風俗で柿(こけら)鮓の「こけら」(鮨の上に置く玉子焼きと椎茸、鯛を薄く切ったもの)を切っているところでまな板の上に玉子焼きと椎茸などが置いてあり、酢を入れた鉢も見えます。
料理人の前の大鉢は、切った鮨を盛りつけたものです。
25鰻掻師
鰻掻きは水底にいる鰻をとる道具で、 絵の鰻師が肩にしている二股になった曲鉤のついた長柄がそれです また鰻掻きといえば 鰻をとる人もさします。
歌舞伎狂言『東海道四谷怪談』の三幕目、砂村隠亡彫りの場には鰻掻きの直助権兵衛が出て、そこのト書きに「向こうより直助権兵衛、鰻掻きの拵(こしらえ)らへ、誂えのやすを担ぎうきと樽を持ち川のあたりを見やり見やり」とあります。
絵の左下に、 裏に釘を打ちつけた下駄が置いてあります。 川底が泥沼だったので、 これを履いて滑りどめにしたようです
(出典·合巻 『逢見茶관入小袖』 文政11年 歌川豊国画)
26鰻割師(うなぎさきし)
絵は蒲焼屋の店の内で、料理人が鰻を割いているところ。
寛永二十年 (1643)刊の『料理物語』に「かばやき」とあるので、江戸初期以前かあったようで、一説には始まりは室町時代だろうといわれています。
「鰻屋 古八鰻蒲焼ト云名ノアルハ鰻ラ筒キリニシテ串ニサシ焼キシ也形蒲穂ニ似タル故ノ名也今世モ三都トモ名ハ蒲焼ト称スレドモ其製異ニシテ名ニ合ズ
京坂ハ背ヨリ裂テ中骨ヲ去リ首尾ノマ、鉄串三五本ラ横二刺シ油二諸白酒ヲ加へタルヲツケテ焼」之其後首尾ヲ去リ又串モ抜去リヨキホド斬テ大平椀二納レ出ス
鰻蒲焼小器銀二匁 中三匁
鰻飯 京坂ニテ『マブシ』江戸二テ『ドンブリ』ト云鰻丼飯ノ略也京坂ニテ兼売ㇾ之江戸ニテハ右ノ名アル鰻屋ニハ不ㇾ売ㇾ之中戸以下ノ鰻屋ニテ兼ㇾ之或ハ専ㇾ之」
(出典:黄表紙「栄花男二代目七色合点豆」享和4年 北尾政寅)
27蕎麦屋(そばや)
古いそばの食べ方は、 そば練り (そばがき)、 蕎麦焼餅等であって、現在のそば屋の料理法は近世になってうどんの製法を真似たものだといわれています。
俗にそばは江戸、うどんは大阪といわれていますが、江戸幕府の開設当時は、むしろうどんがそばより先行していました。寛永 (1624~1644) から元禄 (1688~1704) 頃までは そば切りといって、うどんとともに菓子屋で拵えて売られていたものです。江戸初期の庶民の親しんだものにはそば切りのほか「けんどんそば」がありました。
「寛文辰年 (4年1664) けんどん蕎麦切といふ物出来て下々買ひ食ふ。貴人には食ふものなし。是も近年歴々の衆も喰ふ。結構なる座敷へ上るとて、大名けんどんというて拵へ出す」 天明7年 北尾政美画
28蒲鉾屋(かまぼこや)
『本朝世事談綺』にはこうあります。
「魚肉を磨りて細き竹に塗り、これをやく。そのかたち蒲の穂に似たるゆゑに名付く。今竹輪と云ふなり。近世は小板に貼すといへども、むかしの、名を呼ぶなり」
『守貞稿』 には次のようにあります。
「今製の竹輪右ノ図 (略) ノ如クス蓋シ外ヲ竹賽ヲ以テ巻包ミ蒸ス故二小口下ノ如キナリ(省略 蒲鉾円形)。
今製ハ図ノ如ク三都トモニ杉板面ニ魚肉ヲ堆ミ蒸ス蓋京坂ニハ蒸タルマ、ヲシライタト云板ノ焦ザル故也多クハ蒸テ後焼テ売ルコト無之皆蒸タルノミヲ売ル(以下略)」
嘉永2年 葛飾北斎
29杜氏師(とうじし)
まず今世間に取あつかふ酒の造りやう、凡源というは、上白米3斗をよく洗い酒めしにむして、筵に広げてよくさまし、上白のかうじ壱斗、右の酒飯と一所にして水弐斗壱升入但米壱斗に水七升の割り也。(以下略)
酒の作り方を示した絵。年を経て熟成する酒は古酒と言われる。新酒はその年の新米を七月中旬から下旬にかけて仕込んだもので、味は古酒に比べて淡白だと言われている。
絵の上の文は「もろみを拌(か)く、袋に入れて醡(ふね)に積(つむ)、酒げ、すましの図」とあって、それぞれの下の図を説明している。
寛政11年 法橋関月画
30徳利印付師
ここに図する所のものは東京にては俗に貧乏徳利と通称するものにして多くは小売酒屋にて用ふるものなり其大小は凡二合入、 三合入、 五合入、 一升入、 二升入、 三升入等まてにこれを瀬戸物屋より買入れば適宜の桶に水を充分に入其中へ徳利を入て息を力一 ぱいに吹込て水漏の有無を調べたる上にて得意先へ酒を注ぎたるときに間違はぬ為に其酒屋の屋号成は商標を先の尖りし鉄槌或は古鑿にて彫付るものにて手馴ぬ者のなすときは刃先は辷りて思ふやうには出来得ぬもの又強くすれは徳利に破損を生ずされど老練の者がなせばなかく手際なるものにて随て其彫上も速かなるものなり又仕出料理屋成は遊廓の台屋の皿小鉢の裏にはみな屋号等を彫付あるものにて此皿に彫ときには水上に浮してなせば損ぜぬよしを聞きたるかいまだ実験せざれば其信偽は保し難し。 明治25年尾形月耕
31醤油師
「醤油は葛飾郡野田海上銚子等より出すこと夥し小麦を炒り大豆に和してをつくり塩を和して大桶にいれて熟せしとき布の袋に包ミてメ器に入て搾り樽に詰て諸国に出す就中野田の (萬)八上品にして八升六合入を一 樽と定む」
と出典の文にあり、 『守貞謾稿』 には、 次のように記されています。
「醤油 昔八無v之足利氏ノ包丁大草家ノ書等二醤油ト云コト無v之垂味噌ヲ用ヒタリ垂味噌ハ今世田舎二テ用フタマリノコト也溜也味↑溜ノ上略也味噌ノ上ヲ凹ニシラ納レ置キ溜ル所ヲ汲取ル故二名トス <略>
豆油ト訓ゼリ今モ尾三遠濃等ノ国八溜ヲ専用シ醤油ヲ用ヒズ」
奈良朝にはすでに豆、麦、塩から醤が使われていたことが文献に記されており、この醤が醤油の母体であろうといわれています。
明治10年 三代歌川広重画
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