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   絵物語 復刻版 江戸の職人(32-41)

01gaihuhkaisei 江戸の職人 第二話「食」の部2020-2
『えがく』の「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを、彩色(もとは線画)しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。
 今回の絵物語は32-41を紹介する。
sankahakuu 味噌師(32)
『守貞謾稿』には、このように記されています。
「味醤 今俗味噌の字ヲ用フハ非也味醤ハ三代実録二見へ又延喜式神名帳斎宮寮ノ条ニ味醤一斗二升云々
 和名抄ニ高麗醤ハ美蘇云々俗用味醤二字味宜ㇾ作ㇾ未何則通俗文ニ有㈠未楡莢醤🉂末者搗末ノ義也
 今世京阪ノ市民毎冬自制スル者多シ其法大豆一斗 米麹 塩 升早春ヨリ食之盛夏後ノ食料ニハ塩 升ヲ多クス租ニ搗製シ桶ニ雷盆(すりばち)ニテ摺テ汁トス
 絵は味噌師が杵で味噌の材料を搗いているところで、後ろに見えるのは麹を入れた箱です。
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麹屋(33)
 麹は酒、味噌、醤油、香物を造るのに必要で、物によって材料を異にします。例えば、米:麹は殆どが清酒を造るのに用いられ、他に甘酒、味噌、酢にも使われます。醤油麹は小麦、大豆を材料とし、 夕マリや三州味噌は大豆麹で造られます。
 米麹は、白米を一夜水に浸してから蒸してさまし、麹室に入れて麹種(もやし)と混ぜ合わせ(白米一石のときは麹種二升の割合)、一升の麹蓋(浅い木の箱、絵の麹師が持っている箱)に盛り、摂氏25度位の温度を保って40時間もすると出来上がります。麹種を入れるのは、確実に純粋の麹菌を生えさせることが出来るためです。
yuhdati_no_fuji 寒天屋(34)
 寒天はテングサを材料として作られ、夏、水に冷やして食用にします。
 出典の文にこうあります。
「造法
次の法ハ古法ながらも冱寒の地ならずして造るべし〔日用料理集〕に寒の内に藻の白きばかりをよく洗い大釜に入れ泔汁(しろみず)の三番をひた々多く入れ煎じ右の藻とけ申す時水嚢にてこし申し桶に入れ置き候へば固まり候(ところてん)以下略」
 絵は、寒天の煮汁を方(かく)盆に満たし盛るところです。
 寒天の長方形のものを方寒天、細く方なるものを細寒天蘇芳を入れて赤くしたものを赤寒天と言います。
06  飴屋(35)
 江戸時代の飴の種類と製法
 江戸時代の飴がいかなるものであったかについては、正徳2年(1712)序の『和漢三才図会』の飴の項によれば 、「飴ハ麦ノモヤシ或穀ノ芽ヲ諸米と同ク熬煎テ而成ス」 とあり、糯米(もちごめ)等の米に糖化酵素として麦モヤシを加えた従来の水餅(麦芽水餅)が紹介されている。(以下略)
 糯この『和漢三才図会』にはこの絵の記載が見られる。
 引飴といって「白飴」は二人がかりで何度も牽くことによって空気を含ませた飴であるとしている。このように江戸時代には、砂糖を原料とする飴の登場に先駆けて、糯米(もちごめ)・麦芽を原料とする従来の麦芽飴でありながら、煮詰めるのみならず牽引して空気を混入させる技法を用いた堅飴が発明されたのである」とある。
akatuki_no_fuji 菓子屋(36)
絵は落雁を木型に入れて作っているところです
唐落雁の作り方か次のように記されています。
「唐落雁
一つ上餅米粉百目
一つ太白砂糖八十目
一つ煎じ砂糖
上記粉の製しようハ餅米を一粒づつ択て強餅に蒸よく干上がりて一粒づつはなれるを鍋にて白く煎り臼に挽いて羽二重にてふるひ遣ふなり。さて上に示した粉と砂糖に煎じ、砂糖を入れよく揉て粉合をまたよくもみ交ぜ種々の形に盛る也。色合いはいろいろにするべし」「古今新製名菓秘録」

murasame_no_fuji 饅頭屋(37)
「古今菓子大全』には、次のように記しています
「まんぢう、小麦の粉をあま酒にてかたくこねやハらかにもみ丸ひろめ中にあんをつつみいろりに火を置夏ハ一時冬ハ三時程あたため其後こしきにならべむし申候」
その他の饅頭には、次のものかありました。
「蕎麦饅頭江戸近年ノ制ナルペシソバ粉ヲ以テ皮トシ般来霜糖ヲ以テ小豆餡ヲ製シ精製也形小ニテ貴価也
 蕎麦饅頭ジャウョマンヂウト云京坂近年ノ製ナルペシ同前上製也山ノイモヲ以テ皮トス以上ニ品ハ茶客専用スル所ナレドモ奢侈ノ時ナル故ニ凡ノ時ニモ食ㇾ之」(『守貞謾稿」)
『伊勢町元享間記』には、寅(宝永七年)四月九日町寄合入目覚と記し、 「一、十五匁おぼろまんぢうニ色にして百五十 一、十匁うづら焼 百」
 なお鶉焼については『日本の菓子』に元治年間の写本の説明として、次のような引用文が掲載されています。
 「餅仕立玉子形焼目付常あん入、同、嵯峨饅頭、常のまんぢゅうの皮むき朧まんぢう仕立、赤白、黄の色、朧饅頭は皮を厚めにして蒸して薄皮をはいで餡が朧に透けてみえるもの。」
  出典・料理本「鼎左秘録」嘉永五年 筆者不明
07 餅屋(38)
 「江戸にて餅屋といひて、売餅の根元は、芝三田町鶴屋というものぞはじめなりけれ」
 歳末の餅搗きについては、こう記されています。
「十ニ月ニ十六七日 此頃迄にもつはら餅つきあり、賃銭にて餅屋に搗(か:臼で餅などをつくときに、杵  (きね) がぶつかり合う意)せるを賃餅といひ、釜を持あるきて搗を引づり餅といふ、是等は町家にて便利にしたがふ事なり、引すり餅は通夜の業なれば、深夜の街上、寒月の下に餅つきの音をきくは、昌平鼓腹の光景なり。」
(『東都遊覧年中行事』)
餅。」(『反古染』)
(出典・職人本『職人尽発句合』寛政九年梨本祐為画)
26enoshima 煎餅屋(39)
煎餅は平安時代にもありましたが、この時のものは小麦粉を水で練り、油で揚げたもので 後世にいわれる塩煎餅とは製法を異にしていました。
「〔雍州府志〕に云煎餅は六条にて製する故六条せんべいといふまた其辺醒井にて製する片餅も同し類にて近江国醒井にて作るものに傚ひたるなり煎餅は火を経る故面鬼面のごとく膨脹たり故に鬼煎餅と呼」(『人倫訓蒙図彙』)
「むら松町団十郎煎餅、吹屋町にかめ蔵せんべいと云あり。何れも美味にして形まろく、さしわたし七寸ぐらゐ。団十郎せんべいは、三枡に裏には舞づるをつけ、かめ蔵せんべいは、橘とうづまきを付け、価一枚十文づつなり。亀蔵せんべいは、箱せんべいといふ。照降町親父橋〈現在中央区日本橋〉の角にあり。今におきなやと云ふ見世あり」(『明和誌』)
 その他に味噌煎餅、亀甲煎餅、瓦煎餅、玉子煎餅、葛煎餅等があります。現在もある草加煎餅は糯(もち)米と粳米(うるち)の粉を蒸してつき、うす板に延ばして丸形に抜き取り、両面に生醤油を塗って炭火で狐色に焼いたもので、もともと金町、千住、草加近辺の農家が自家で余った米を熬(い)り、蒸して塩味をつけて食用としていたのか商品化したものでした。
(出典・職人本『人倫訓蒙図彙』元禄三年蒔絵師源三郎画)

チューリップ 香煎屋(40)
「京名物其一宮嶋春斎祇園香煎
香煎は大唐米、蒼苡仁(はとむぎ)、蜀椒(さんしゃう)、陳皮(ちんび:蜜柑の皮)、茴香(ういきょう)等を、細末になせる物にて、湯に焼塩を合せ入れて呑むなり。其香気と味ひの美なる。茶に優れて佳く鬱気を散す。京都の通家皆之を賞し。遠近の旅客も是を求めて家土産とせり。 今祗園町に残れる家は一軒乃ち原了郭、藤原某なれど昔時は四五軒もありしと覚ゆ。こは正徳三巳年祗園広小路の田圃なりしを。新家と号して。花街となせる以前よりありしとぞ昔時は香煎とは云はずして古賀志と称し、祇園社頭の水茶屋などは必す是をくみ出せり。今も各青楼中。有名なる所謂大茶屋には其余風を存す。酒酔の後には。格別に味ひ美にして。薬ともなるなり。売るには竹の筒。或は風雅なる陶器の徳利に入れ。其製元の名を張付けしが現今美を好むやうになりしより。桐の箱に入れふり出しの如く製して売れど韶士(しょうし)雅客は昔の分を好めり。紫蘇の葉を製して商ふは近年なり。是も紫蘇煎と名付けて佳味なれど香煎には劣れるが如し。之を商ふ両家は木綿白張暖簾を釣り。今も尚ほ古風の姿あり」
 香煎師が手にしているものは薬研で、漢方薬などを細かにする金物の道具です。
 (出典・『人倫訓蒙図彙』元禄三年蒔絵師源三郎画)
90yamayuri 塩田浜師(41)
 江戸時代の塩田には、揚浜(あげはま)塩田と入浜(いりはま)塩田の二つがありました。
 揚浜塩田は、海より高い地盤に粘土と砂を置き、それに汐水をかけて踏み固め、厚さ三寸三分(約10センチ)の水の浸透しない層をつくります。その上に細砂をまき、汲み揚げてきた汐水を幾回か撒布して天日乾燥し、塩のしみついた砂をかき集めてそれに汐水をかけて濃い塩水をつくり、その塩水を釜屋で煮つめて塩をとります。
 入浜塩田は遠浅の砂地の沖に堤防を築き、満汐を利用して汐水をこの堤防の取入れ口から導き入れ、塩田内の幾筋もの溝(潮廻し)に通します。溝の汐水は塩田の地に自然に滲透してゆき、地面にまかれた砂に付着し、太陽と風によって水気は蒸発して濃い汐水のついた鹹砂(かんしゃ)かできます。その間に人(浜子)が柄振(棒の先に板をつけたもの)で掻きおこしを幾回もして砂に塩が蓄積したところで砂を集めて沼井(絵の塩田の中の箱形のもの)の中に入れ、上から汐水をそそぐと濃い鹹水(かんすい:塩水)は沼井の莚と竹の簀の子を通って下穴に向かって流れてゆきます。
濃厚の鹹水は釜屋に運ばれ石窯で煮つめられます。昼夜二十四時間の釜焚きで、十三石の塩が生産されるのか普通でした。この燃料費が製塩費用の大半を占めていたといわれます。安永七年(1778)から石炭焚きか試みられ、薪焚きより経費か安くあがることから次第に全国に普及してゆきました。
 絵は入浜塩田です。汐汲みの男女が腰につけているのは腰蓑で、右の藁葺が釜屋です。
(出典・肉筆『職人づくし』文化頃 川原慶賀画)







 
   


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