|
江戸の職人 第三話「住」の部2020
「えがく」の「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを、彩色(もとは線画)して、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。今回の絵物語は42-51までを紹介する。 |
|
42人足
「手伝人足 京坂ニテ土木ノ雑務ヲ業トスルノ雇夫也江戸ニ云仕事師ト同ジ者也
一日雇銭皆必ラズ自食ニテニ百八十文ヲ定トス蓋朝出居残リ等ニテノ増銭スルコト此一
倍或ハ半倍スル也
京坂ノ手伝人足火事場ノ外ニハ印半天ヲ着セズ平日生業ニ出ルニハ弊衣刺子等ヲ着シ腹
当ハ江戸風ノ物ヲ着ス
又江戸ノ如ク町抱へ店抱へ或ハ半抱本抱ノコト無レ之」(『守貞謾稿』)
絵は家を建築するところで、遠景に大工、木挽、石工が見え、事前には鋤、鍬を持った
人足が土を掘っています。
絵の人足の使っているのは関東鋤で、材質は松、刃先は鉄で、台に釘で打ちつけてあります。
(出典・読本『白糸冊子』文化七年葛飾北斎画) |
|
43地形師(じぎょうし)
地形は地ならし、地がため、胴付ききともいわれ、家を建てる前に地面をならし地固めすることです。
地鎮祭が終わると大勢の職人衆による地形固めが始められます。地形はまず丸太で三階櫓に組み、その真中に地盤固めの地形柱(絵の左の太い柱)を入れます。その柱の根元に綱をつけ、綱の片方を櫓のところの轆轤(現在は滑車という)に通してこれを大勢で引っぱり、柱を高く上げては綱を放して、ドスンと勢いよく上台石の上に落とします。柱の根元には「根取り」がいて音頭取りをし、柱を突く場所を決めてかかります。このとき綱を引く「引子」は地形唄を歌います。
出典の文に、
「いよいよ、じぞうどうこんりゅうはじまりきんむら江戸よりろうにやくなん女さんけいおびただしくおどうつきをしける。」とあり、また根取りが音頭をとる「ヨヲイサ、アレコレハノサ」もう一人は、「ヤアイ、しめろヤイ」とあります。
つまり地蔵堂建立の地形の場面で、右に綱を引いている老爺、老婆は信者です。絵では轆轤が一個しか見えませんが、実際は四か所に取付けてあり、綱を四方から引っばるようになっています。根取りたちは釘貫つなぎの半天、腹掛に股引か脚半を着けています。この釘貫つなぎの半天は地が鼠色、紺の釘貫つなぎ形染めで、文化以前の火事場用のものでしたが、鳶、人足は平日でも着ていました。
(出典・黄表紙『延命長尺出世米饅頭』天明頃勝川春好画) |
|
44大工その一
『頭書増補訓蒙図彙大成・人物』
「エは百工とてもろもろの細工人の惣名なりエ匠ともいふ木工ハ大工なり」とあります。
この絵はは享保頃京都の絵師西川祐信が描いたものです。左の釿(ちょうな)を使っている大工は紋付の着物に菖蒲革文の軽袗(かるさん)をはいています。
「カルサン袴ハ百年前(元文ー寛保)武士旅行等ニ専ラ用レ之歟(ヨ)又百年前バカリノ画本ニ、 番匠等専ラ用レ之タリ。」とあります。
絵中の中央の片肌ぬぎの大工は鉋(かんな)の刃を調整しているところで、「和漢船用集」に鉋のことを、「麁鉋(アラカンナ)中鉋上鉋麁鉋は釿の跡鋸の跡を削者、台の孔ロ広く明たる者なり。中鉋は其上を削ロ少し明たる者、上鉋は又其上を削者、台のロ髪毛のことく明たる者也。又精鉋と云、鉋刀の幅一寸二分、一寸四分、一寸六分、一寸八分、一一寸の者常也。其秀工に至ては三寸、四寸の者を用。」とあります。その他の鉋に短台、面取、丸鉋、反台、鈍丸、溝鉋、ヒプラク、蜈蚣鉋、台直台定木などがあります。現在使われている二枚刃の鉋は明治頃に考案されたもので、江戸時代にはありません。この大工の前にあるのは墨壺と差金(曲金)です。
右の大工の使っている鋸は横挽きの先丸鋸で、この形の鋸は古くからあり、江戸時代も一 般の鋸として使われていました。
「摺鋸頭尖如ナル木葉者船造木工用之、といヘり。是すりのこきりのことを云なるべし。
つねの鋸にして大中小あり、木の合目を摺合す者也。」(『和漢船用集』)
右の手拭のすっとこ被りに着物の着流しという姿は、京都に限ったことではなく、江戸で も、天明(1781~89)頃のものにも出てきます。印半纏に盲縞の腹掛け、股引姿の意気な大工の恰好は、幕末も明治に近くならないと見られません。(出典・絵本「士農工商』享保頃西川祐信画) |
|
45大工そのニ
文政(1818~30)頃の大工で盲の腹掛けに絞りの浴衣、豆絞りの手拭を肩にかけています。この時代になると芝居などで見る意気な姿になります。女か頬杖をついているのは削り台で、この削り台の勾配は荒削りから仕上げになるほど緩くなり、最後の仕上げになるとほとんど水平になって、鉋の重さだけで削るものだといわれています。
(出典・合巻「士農工商梅咲分」文政五年勝川春好画) |
|
46左官
「左官墁(こて)匠ヲ云也左官ト云コト愚按ニハ昔時内匠寮或ハ木工寮等ノ属ナド墁エノ業ヲセショリ名トスル歟(よ)属ノ字サクワント訓ズ故ニ左官ノ字ヲ用フナラン」(『守貞謾稿』)
昔の弟子入りは三日目ぐらいまではお客様扱いでしたが、四日目からは子守り、飯焚き、風呂焚き、ふき掃除と雑用に追い廻されます。次の新弟子かくるまでだいたい一、二年は雑用にこき使われながら、その間に仕事を覚えます。 仕事の手始めは才取り(土刺しともいう)で、次が土こね、調合、鏝(こて)塗りの順序に上かってゆきます。
才取りは下にいて足場の上にいる親方に泥を渡す役です。絵の下にいるのがこの才取りです 。足場にいて右手に元首鏝、左手に鏝板を持ち、才取りの差出す泥を受け取っているのが親方です。この仕事は簡単なようですか、土を落とさぬようになるまでにはかなりの日数かかかります。また受け渡す阿吽の呼吸がむずかしいそうです。次が「土こね」です。絵の右下の箱が「ふね」と呼ばれるもので、これに「荒土(あらきだ)」(江戸で使う土)を入れ、裸足で土をこねます。凍りつく冬も素足ですから、足が痺れて紫色になるほどのつらい仕事です。こねた土に藁苆(わらすさ)と角叉糊を入れ、鍬で力いつばい押さえつけるようにしてこねます。昔は専門のこね屋かいました。
土こねか馴れると鏝を持たされ、最初は押込みのなかの壁のような、余り見えないところをやらされます。 (天保14年 渓斎英泉) |
|
47漆喰師
漆喰は消石灰か貝灰を水でこねて、布海苔、蒟蒻(こんにやく)、膠を混ぜ、~切は麻か紙を配合して塗りました。
江戸の後期は、再三再四の火災から守るために土蔵が漆喰の塗籠式になりました。また店を土蔵のように塗籠めにする見世蔵もつくられました。
漆喰は屋根瓦にもされました。これは瓦を固定させるためです。 |
|
48瓦師
畳一畳に高さが三尺の粘土から、五百枚の瓦を取るのが一般たとされていました。九百度ぐらいの温度で瓦を焼くのか普通です。絵の窯から黒い煙がもくもくと出ています。瓦を焼く燃料は松と松の葉です。黒い煙は松の葉をいぶしているところで、こうして作った瓦をふすべ瓦といいます。焼き上かる五時間ぐらい前に松葉を入れていぶし焼きにすることで、瓦独特の「いぶし銀」の色になります。
瓦屋の寄進に鬼の首ニッ(豊の蝉)
(出典・名所図会『摂津名所図会』寛政十年丹羽桃渓画) |
|
49瓦葺師
絵の瓦葺きは寺院の屋根です。現在の屋根は、全部京風の引っ掛け桟の瓦葺きです。江戸時代は瓦の下に泥を塗り、瓦を釘でとめた葺き方でした。この釘は鉄釘だと錆びてふくれ上かって瓦を押し割り、水漏れの原因になります上物だと錆びない銅釘を使うそうです。大正の関東大震災のとき泥葺きの瓦は全部落ちて、その反対に引っ掛け桟の瓦は落ちなかったので、地震を境に東京も引っ掛け桟にかわりました。
絵の右端に畚(もっこ)にのせた黒い泥か見えます。瓦の下に敷く泥は東京の芝浦でとれた「ネバ」という海の土だそうです。しかし現在ではほとんどが荒土を使っているようです。このあか土こねは手元の仕事です。そのほかに手元は、こねた土を屋根に運んだり、それをのばしたりしました。手元は手伝いのことで、昔から「職人一人に手元一人」という決まりがありました。手元の上が「中葺き」そのまた上が「上葺き」で、ここまでくるには八年はかかるといわれています。
鬼瓦、巴瓦は「役瓦」といって「上葺き」ぐらいの腕でないと扱わせてもらえなかったそうです。瓦は重ねて焼くので、上の重みで下の瓦に歪みができます。この歪みを合わせながら葺きます。葺き終わって凹凸に見えないようにします。
危険防止のため鐶(かん:環状の金具)に命綱をつけています。左端とその右隣りと右端の男たちがはいているのは「かるさん袴」(一名伊賀袴)です。旅行のときの武士や、番匠などが着したものです。
(出典・黄表紙「芝全交智恵之程」天明七年北尾政演画) |
|
50柿葺(こけらぶき)師
『増訂工芸志料』に次のようにあります。
「板葺 柿葺 杉皮葺
◎板を以って屋上覆うこと其の始め詳かならず。皇極天皇ニ年一千三百零三年(643)天皇命じて板を以って皇宮を覆う。本邦に於いて板を以って皇宮の屋を葺くこと此に始まる〔当時板葺に用いる所の板は柿に非ず、木板なり〕。後世に至りては或は柿を以って屋を葺く者あり、是を古介良布岐(こけらぶき)という。柿を以って屋を葺くこと、其の始め詳かならず。延喜天暦の際、柿を以って屋を葺くこと往々書冊に見ゆ。
◎慶長五年一千二百六十年(1600)徳川家康、大政を奏決す。爾来家屋を葺く制漸く変じて、都下及び諸国の都会の地は多く柿を以って屋を葺き、而して板を用いす〔板は庇、或は仮舎に用いる〕。此の際又、杉皮を以って屋を葺く〔杉皮を以って屋を葺くことは其の始詳かならず〕。柿及び杉皮を以って屋を葺くことは今に至りて益(ますます)多し〔柿を葺くに竹釘を用いる者あり、又柿を葺いて其の上に竹を置き、銅線を以って(たるき)に結束する者あり、又其の竹上に石を置いて銅線を用いざる者ありて、営作の法一ならず」
(出典 ・浮世草紙「世帯仏語 渡世身持 談義」享保20年 筆者不明) |
|
51茅葺師(かやふきし)
「草葺は太古よりあり是を加夜布岐という。其の精巧なるを阿邇賀夜布岐という。業を伝えて今に至る。或は稲藁を以って草に代うる者あり、是を藁葺という。或は麦藁を以って草に代うる者あり、是を麦藁葺という。葺工並びに業を伝えて今に至る。」(『増訂工芸志料』)
屋根葺きの材料には茅、葦、藁、小麦藁等があり、昔は藁が使われていましたが、今ではもつばら最高の茅が使用されています。茅には野茅、蘆茅、草茅があります。茅は固い荒地 に育ったものがよいとされています。十一月の霜のおりる頃に刈り取ります。刈り取った茅は一本一本選んで十一通りくらいに選別します。これにはたいへん時間カかかるそうです。昔は村に茅場かあって茅にはこと欠きませんでした。
茅のはかり方は一しめ〆、二〆と勘定します。一丈の縄で足でぎっしりしめつけて縛ったのを一〆としました。一坪に四〆を使用します。一人前の職人で一日一坪を葺きあげました。
出典・実用本『民家日用広益秘事大全』嘉永四年筆者不明 ) |
|
|
|
|