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   絵物語 復刻版 北斎江戸歌舞伎絵

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11風流男達八景綱五郎の帰帆
江戸時代は、社会基盤の確立、消費文化の成立により、新たな文化が創造された時代である。中でも歌舞伎、呉服、浮世絵は、町人文化として隆盛を遂げた。このような社会背景のもと、歌舞伎、呉服屋、浮世絵の三者は、人々のニーズにあったものを常に提供するという点で類似した性質を備えていたことから、広告に
おいて連携をとっていた。そのような背最のもと、歌舞伎と呉服屋が生み出したものが役者模様、役者色であり、歌舞伎と浮世絵が生み出したものが芝居絵、役者絵であり、呉服屋と浮世絵が生み出したものが美人画であったと考えられる。
歌舞伎は人々の娯楽と して欠かせないものであり、役者たちは女性たちの注目の的であった。
そのため、歌舞伎、また役者は広告の発信者として最適であった。また、芝居絵 ・役者絵は、役者の姿を楽 しむブロマイドであるとともに歌鉾伎の興行に関する広告・でもあった。歌舞伎への関心の高まりとともに、芝居絵 ・役者絵の販売数は増加し、多くの愛好者により享受された。

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12「敵討仇名かしく」岩井半四郎
細判錦絵 安永8年(1779)
安永7年(1778)に勝川春章に入門した翌年に発表した錦絵作品で、北斎の錦絵デビュー作の1つといわれる作品。安永8年8月に市村座で上演された「敵討仇名かたきうちあだなかしく」で岩井半四郎うが演じた、かしくを描いたもの。勝川派は役者を似顔で描くことで人気を博した流派。師匠である春章の作品と比較すると、しもぶくれで愛嬌のあった半四郎の姿には、今一歩及ばぬが、丁寧に一生懸命描いている様子がうかがえる。

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13「ふく清女ぼう」中村里好
安永7年(1778年) 浮世絵師・勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。また黄表紙の挿絵なども描いた。この頃用いていた号は「春朗(しゅんろう)」であるが、これは師・春章とその別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつもらい受けたものである。

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14正宗娘おれん(瀬川菊之丞)
江戸時代・安永8年(1779)細判 錦絵
「中村里好のふく清女ぼう」と同じく安永8年(1779)8月に、中村座で上演された『敵討仇名かしく』に取材した作品。20歳の北斎が勝川春朗の名前で制作したデビュー作として知られる作品4図のうち1枚。師とした勝川春章の同時期の作風に倣って制作された。

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15幡随院長兵衛(松本幸四郎)
大勢の客で賑わう江戸村山座。「公平法問諍(きんぴらほうもんあらそい)」が演じられる舞台に乱入した男を、江戸随一の俠客、幡随院長兵衛が追い払います。その様子を見ていた旗本の水野十郎左衛門が長兵衛を呼び止めると、その場は一触即発の事態に。騒動の後、浅草花川戸の家に水野からの使者がやってくると、長兵衛はその誘いが計略と悟りながらも水野邸へ赴きます…。
江戸の俠客として知られる幡随院長兵衛をとり上げた、人気の高い作品です。河竹黙阿弥の名作のワンシーン。

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16白井権八(市川高麗蔵)
明暦元年(1655年)に生まれたとされる。「享年25」からの推測である。
因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(須藤助太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となる。やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたことから、自首したとされる。
1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した。享年25

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17文覚上人(市川鰕蔵)次の絵と同舞台
文覚(もんがく、保延5年(1139年) - 建仁3年7月21日(1203年8月29日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。 通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、 さらに元久2年(1205年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した。

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18鎮西八郎為朝(坂田半五郎)  
源 為朝は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。
身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したことから、追討を受け自害した。

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19赤さハ十内(坂田半五郎)
「南北の曽我狂言における鬼王貧家 : 鬼王から赤沢十内へ」という記載のみ検索できた。
初代坂田半五郎は江戸前期の歌舞伎役者。2代目坂田藤十郎の門弟。屋号正月屋,俳名杉暁。田舎芝居の立者から江戸の大芝居に進出した。敵役,実事から実悪に転じ,実事,荒事,敵役をはじめとして愁嘆事,男伊達などをよくしたが,特に実悪を本領として上手と評せられた。出世芸となった朝比奈三郎を代表として,当たり役に鎌田正清,横川覚範,安倍貞任、佐藤忠信などがある。江戸市村座の舞台上で没した。

 


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