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   絵物語 復刻版 写楽大首絵(85-95)

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写楽https://emuseum.nich.go.jp/
 寛政6年(1794)彗星のごとく浮世絵界に登場した東洲斎写楽は、わずか10ヶ月の期間に、140数点に及ぶ浮世絵を世に送り出し、忽然と姿を消した。
 写楽の活動期間が短かいのは、役者の個性を美醜を問わず描いた迫真の描写が、当時の人々には斬新で受け入れ難かったためとも言われているが、それでもこのわずか140数点の作品だけで、超モダンポップな浮世絵師として20世紀初頭、ドイツの心理学者ユリウス・クルトによって、レンブラント、ルーベンスと並ぶ三大肖像画家の一人として紹介されるなど、海外でも高い評価を得ている。現代にまで名が残る訳が分かる。

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85三代目大谷鬼次「奴江戸兵衛」
本図は、寛政6年5月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」に取材した作品。
「恋女房染分手綱」は、由留木家のお家騒動を背景として、伊達の与作と重の井の恋、それにまつわる悲劇を描いたもの。由留木家の家臣伊達の与作が、若殿の恋人芸妓いろはの身請け金を鷲塚八平次らに盗まれ、さらに腰元重の井との不義により主家から勘当される。重の井の父で能役者の竹村定之進が責任を感じ切腹をしたことにより重の井は許されて姫の乳人となる。与作と重の井の間に出来た子供は馬子三吉となっていたが、名乗りをせずに別れる「重の井子別れ」が続き、やがて鷲塚一味の悪事も露見し、与作と三吉が八平次を討って主家に戻るという筋書きである。四条河原で一平を襲い、金を奪おうとする江戸兵衛を演じる三代目大谷鬼次。

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86二世市川高麗蔵の志賀大七
 本図は、寛政6年5月桐座上演の「敵討乗合話」に取材した作品。
 「敵討乗合話」は、「碁太平記白石噺」の中の宮城野・しのぶの仇討ちと「敵討巌流島」を混交させた狂言で、志賀大七に父松下造酒之進を殺されたしのぶと姉の宮城野が、山谷の肴屋五郎兵衛の助けにより仇討ちを遂げるという筋書きである。第三幕松下造酒之進を殺害しようと刀に手をかける志賀大七を描く。

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87三世坂田半五郎の藤川水右衛門
 本図は、寛政6年5月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に取材した作品。
 「花菖蒲文禄曽我」は、元禄14年(1701)に実際に起こった、幼い兄弟が父と兄の仇を28年を経て伊勢国亀山城下で討ち取った「亀山の仇討ち」をもとに脚色された。父を殺し秘伝の巻物を奪った藤川水右衛門を三兄弟が敵と狙うが、長兄の源蔵は逆に返り討ちに遭ってしまう。幼い二人の兄弟源之丞・半二郎が亀山城主桃井家の家老大岸蔵人の助けをかりて28年後に敵の水衛門を討ち取るという筋書きである。三代目坂田半五郎が源蔵に凄みを見せる極悪人藤川水右衛門を演じる場面。

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88四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛
 本図は、寛政6年5月桐座上演の「敵討乗合話」に取材した作品。
 「敵討乗合話」は、「碁太平記白石噺」の中の宮城野・しのぶの仇討ちと「敵討巌流島」を混交させた狂言で、志賀大七に父松下造酒之進を殺されたしのぶと姉の宮城野が、山谷の肴屋五郎兵衛の助けにより仇討ちを遂げるという筋書きである。

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89三世市川八百蔵の田辺文蔵
 本図は、寛政6年5月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に取材した作品。
 「花菖蒲文禄曽我」は、元禄14年(1701)に実際に起こった、幼い兄弟が父と兄の仇を28年を経て伊勢国亀山城下で討ち取った「亀山の仇討ち」をもとに脚色された。父を殺し秘伝の巻物を奪った藤川水右衛門を三兄弟が敵と狙うが、長兄の源蔵は逆に返り討ちに遭ってしまう。幼い二人の兄弟源之丞・半二郎が亀山城主桃井家の家老大岸蔵人の助けをかりて28年後に敵の水衛門を討ち取るという筋書きである。三代目市川八百蔵が石井家の忠臣田辺文蔵が貧苦にあえぎながら兄弟の仇討ちを助けようとする姿を演じたものとされる。

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90市川鰕蔵の竹定之進
 本図は、寛政6年5月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」に取材した作品。
 「恋女房染分手綱」は、由留木家のお家騒動を背景として、伊達の与作と重の井の恋、それにまつわる悲劇を描いたもの。由留木家の家臣伊達の与作が、若殿の恋人芸妓いろはの身請け金を鷲塚八平次らに盗まれ、さらに腰元重の井との不義により主家から勘当される。重の井の父で能役者の竹村定之進が責任を感じ切腹をしたことにより、重の井は許されて姫の乳人となる。与作と重の井の間に出来た子供は馬子三吉となっていたが、名乗りをせずに別れる「重の井子別れ」が続き、やがて鷲塚一味の悪事も露見し、与作と三吉が八平次を討って主家に戻るという筋書きである。裃姿であることから、竹村定之進が切腹をする場面と想像される。

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91二世市川高麗蔵の小山田太郎高家
 目が鷹のごとく、鼻が高くて大きい特徴ある顔の高麗蔵は、四代松本幸四郎の子で、初名市川純蔵、次いで市川高麗蔵を襲名したのが安永元年、同七年冬若衆方となり、天明三年冬立ち役に進み、その翌年春曾我五郎に好評を受けてから、徐々に高名となり、寛政九年には「上上吉」となった。享和元年冬市村座で五代目幸四郎を襲名した。俳名錦升、錦紅、家号は高麗屋であることは画面右上の文字をみても判明する。
 ヘンダースンおよび吉田嘆二氏は表題の役名を考証しているが、吉田氏はさらにこの役名については不安があるとして、辻番付にある二番目狂言の大詰めに新しく仕組まれた第三幕の軍平の役であるかもしれないといっている。しかし『松貞婦女楠』を描いた五枚続きの一枚に手拭いを首にまいた小山田太郎が同じ鬘で見出され、これからやはり二番目の智入りのやつしの小山田太郎だとみてよい。衣裳は高麗屋格子または高麗屋縞とよぱれる幸四郎独自の模様になっている。

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92三世沢村宗十郎の大岸蔵人
 本図は寛政6年5月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」に取材した作品。
 「花菖蒲文禄曽我」は、元禄14年(1701)に実際に起こった、幼い兄弟が父と兄の仇を28年を経て伊勢国亀山城下で討ち取った「亀山の仇討ち」をもとに脚色された。父を殺し秘伝の巻物を奪った藤川水右衛門を三兄弟が敵と狙うが、長兄の源蔵は逆に返り討ちに遭ってしまう。
 幼い二人の兄弟源之丞・半二郎が亀山城主桃井家の家老大岸蔵人の助けをかりて28年後に敵の水衛門を討ち取るという筋書きである。第5幕祇園町の茶屋の場面で藤川水右衛門と囲碁をする大岸蔵人。

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93三世坂東彦三郎の鷺坂左内
 本図は、寛政6年5月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」に取材した作品。
 「恋女房染分手綱」は、由留木家のお家騒動を背景として、伊達の与作と重の井の恋、それにまつわる悲劇を描いたもの。由留木家の家臣伊達の与作が、若殿の恋人芸妓いろはの身請け金を鷲塚八平次らに盗まれ、さらに腰元重の井との不義により主家から勘当される。重の井の父で能役者の竹村定之進が責任を感じ切腹をしたことにより、重の井は許されて姫の乳人となる。与作と重の井の間に出来た子供は馬子三吉となっていたが、名乗りをせずに別れる「重の井子別れ」が続き、やがて鷲塚一味の悪事も露見し、与作と三吉が八平次を討って主家に戻るという筋書きである。由留木家の執権左内が伊達与作をかばって与作を勘当の場から逃がす場面とされる。


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95六世市川團十郎の荒川太郎
 六代目 市川 團十郎(安永7年(1778年)-寛政11年5月13日(1799年6月16日))は天明から寛政の頃に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升。
 安永7年 (1778)、五代目市川團十郎の子として生れるが、妾腹だったためいったん門弟の二代目市川升蔵に引き取られ、そこから父のいとこにあたる芝居茶屋の和泉屋勘十郎の養子に入れられ、さらに天明2年(1782) に改めて父の養子として迎えられた。翌年、市川徳蔵を名乗って初舞台。同じ年に四代目市川海老蔵を襲名する。
寛政3年 (1791)、六代目市川團十郎を襲名。花やかな美男役者で人気が高かったが、同11年 (1799) に『助六』で当りを取ったのち、風邪をこじらせて急死してしまう。享年わずか22だった。








 
   


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