浮世絵師。幕府用達鏡師の子として江戸本所に生まれる。90回を越える転居など奇行が多く,逸話も多い。改号の癖があり,春朗,宗理,可候,北斎,画狂人など30以上の号を用いたという。
1778年勝川春章
の門に入り,美人画・役者絵が退廃の度を進める化政期以降,奇抜な発想や大胆な構図で風景画・花鳥画のジャンルに清新な画境を開拓して浮世絵版画を中興した。
終生画業の開発と変革に努め,和漢洋の各種画法に強い関心を示した。
風景版画に《富岳三十六景》《千絵の海》等のほか,《富岳百景》《北斎漫画》等の絵本類もあり,その画業は国際的にも高く評価される。門下からは柳川重信,昇亭北寿ら異色の作家が輩出。
浮絵
西欧の透視画法(遠近法)を用いて、屋内の様子などを遠近感を強調して描いたもの。近景がまるで浮き出て、奥行きが深まって見えるのでそのように名付けられた。またの名を「くぼみ絵」、「遠視画」ともいう。劇場内部や室内の様子を描いた作品が多くみられる。ただし西洋画の遠近法に直接学んだというよりもむしろ、その影響を受けた中国版画の流入により生み出されたとされる。さらにこの浮絵が、後にレンズを通して見る眼鏡絵につながっていく。
浮絵は奥村政信が初めて描いたと見られ、記録によると、享保(1716年-1736年)の頃の作品が最も古いとされており初期には西村重長などの作品が残っている。肉筆浮世絵による浮絵もある。
その後、明和から天明(1764年-1789年)にかけては歌川豊春による作品が多く、その後葛飾北斎やその弟子の柳々居辰斎、昇亭北寿ら多数の浮世絵師が浮絵を描いている。
しかし天保(1830年-1844年)以降はあまり描かれなくなり、通常の風景画が描かれるようになっていった。
大判錦絵 天明年間(1781-89)頃
北斎は、春朗時代に本図も含めて11種の浮絵(うきえ)を発表している。浮絵とは、西洋の線遠近法せんえんきんほう(透視図法とうしずほう)を採り入れ、奥行きのある空間表現を強く打ち出した浮世絵の一様式である。
本図も手前に盛り場の両国広小路りょうごくひろこうじ、中央に両国橋、その向こうに花火を配置して、隅田川すみだがわ一帯の広々とした空間を表現している。
なお、春朗の浮絵は評判がよかったようで、本図をはじめ多くの後摺あとすり(初摺しょずりに対し、再版さいはん以降の作品を呼ぶ)が残されている。
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