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  現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。 青色の太字をクリックすると 、画像が表示される。

 江戸の職人 第四話「金物」の部2021


鋳物師

 鋳物師は石、土、砂などで型をつくり、それに溶解した金属を流し込んで種々の器物を作る職人です。この職人を平安時代以後は鋳師、鋳造匠と称しましたか、普通「いもじ」と呼んでいました。
 鎌倉時代からは鋳物師といわれるようになります。鋳物の歴史は古金石併用時にすでに銅鐸、銅鉾、銅剣の類か鋳造されていました。仏教伝来以後は高度な鋳物技術が更に進歩して、仏像、仏具灯籠、鏡などの優秀な製品を作り出すよ、つになります。しかし、この当時は貴族、寺院によるものが主で、一般の庶民の需要はありませんでした。
 絵は、鋳物師が溶かした金属を原型に流し込んでいるところです。この原型が蝋型だと蝋型鋳造で、木型だと江戸後期の村田整珉か使った鋳造法で、まず原型を木型で作り、蝋型のように鋳土で外型、中型を作り、木の原型を灰にして、これに溶かした金属を流し込みます。
(出典・合巻『喜怒哀楽堪忍袋』文政十一一年歌川国安画)

針金師
『人倫訓蒙図彙」の針金師の項には「〔引鉄師〕鉄しんちう銅をもって是を作る。針やこれをもとめ、或は物を巻、銅等は籠を編で窓に用。乂は虫籠に用ゆ。」とあります。
江戸時代の針金は、板状の鉄を細く橫に切断して、一本、一本鍛造したといわれています。しかし絵の針金の製造法は、ヨーロッパで古くから伝えられている方法です。
飯田賢一著「鉄の語る日本の歴史」に、次のように記されています。
「この山口県のたたら製鉄の鉄山に付設された鍛冶の仕事場(これを大鍛冶場といった)の
図をみると、棒状の鉄(錬鉄)を赤熱して鍛造の方法によって長くつなぎ、これを線びき
の機械にとおして、はりがねにしている作業が記録されている。線びきの機械の丸い穴は
ダイスといわれる一種の工作道具ともみられ、テコの原理を応用して、この穴に鉄材を通
過させて、線状に圧しのばすわけである。」
江戸時代には、針金を腕に掛けて江戸市中を売り歩いた者がいました。
『奴師労之』に、「明和(1764~72)のはじめまで「針がね-二尺一文針がね」とよびて江戸中を売あるく老父あり、予か若き時牛込に居りしに此辺へは毎月十九日に来りしなり。風説には此老父隠密を聞出す役にて、江戸を一日づ、めぐるといへり」とあります。この針金売りが来なくなったのは、天明(1781~89)頃といわれています。
(出典・絵巻『先大津阿川村山砂鉄洗取之図』江戸末期筆者不明)

鍛冶師
 鍛冶は大別して大鍛冶と小鍛冶とに分けられます。大鍛冶は鑪(たたら)に所属するもので、仕事 は冶金が主であり、鑪地方にだけいるものです。小鍛冶は、三条小鍛冶宗近の小鍛冶でわかるように、刀鍛冶、鎌鍛冶のような普通の鍛冶をさします。
 刀剣、武具の鍛冶とは別に、野鍛冶といわれる農具鍛冶かあります。野鍛冶には鎌鍛冶、 鍬鍛冶、鋸鍛冶剃(かみそり)鍛冶、庖丁鍛冶、鋏鍛冶、釘鍛冶、錘(おもり)鍛冶、錨鍛冶、鑢鍛冶等があります。
 絵は江戸時代後期、長崎の画家川原慶賀の描いたものです。この絵に描かれている職人全部が背に泉の字を紺地に白抜きにした絆天を着ています。それが何を意味するのかは、現在のところわかりません。
(出典・絵巻物『鍛冶屋』年代不明川原慶賀画)

鋸鍛冶師(ノコギリカジシ)
「鋸和名類聚四声字苑云、似ㇾ刀有ㇾ歯者也。古史考曰、釿鋸鑿皆孟荘子始造也。和名、能保岐利。下学集蒙図彙、能古岐利、今云所、古保通音なり。鋸数種有、大小歯の相違にて各名を異にす。其形刀のことくして歯ある者とあれは、鋒尖たる者常なり舟工是を用ュ。今先切と云て頭方(ケタ)なる者、家工に用。近比に始る故鋒切と云。
 大鋸中鋸小鋸 大鋸おかと云時は、杣取(コマトリ)、木挽(キビキ)の具いつれものこきりと呼。大は一尺六寸、中は一尺三寸、小は一尺一寸、大中小歯の違あり、共に切鋸也他邦にて木ロ切と云。
 摺鋸(スリノコキリ)頭尖如一木葉(カンラトカリクナルコノハノ)㈠者船造木工用ㇾ之、といへり是すりのこきりのことを云なるヘし。つねの鋸にして大中小あり、木の合目(アハセメ)を摺合す者也
 引割鋸 今加賀利と云。按に、其歯鈞鐖のことし、故に鐖と云なるヘし。溝抉引割物等に用。かをすみかかりといふ。
 挽切 或日、有🉂八九寸㈠、歯細き者、俗に名引き切といえり。引き切りより歯細小(コマカ)なる者を鴨居切と呼ぶ、竹を切るには弦をかけたる者竹鋸と云。
 引廻 或ハ曰ク、比木末波之、長サ七八寸、濶サ(ひろさ)五六分許(はかりの)者ノ、以可シㇾ切ㇾ竹ヲ、といヘり。是疋引はすと云故、丸き物を引まはし切と心得て誤(アヤマル)なるべし。竹を切へき者にあらず。鍋釜の蓋の類、平なる者を円に引廻す者也。或は唐草彫物透等に用」(『和漢船用集』)
 そのほかに建具屋で使われる、鋸の上側に木か金属の鞘をかぶせた鞘掛鋸(胴付鋸)があ ります。これは鋸歯の細かいものです。弦掛鋸というのは曲かった鉄弓の両端に条鋸を鋲留めしたもので、略して弦掛と呼ばれます。普通は薪、竹、硯、砥石を挽くのに使用されました。鞘掛鋸と異なり、鋸身とコミ(木の握り柄の中に入る部分)とで出来た鋸に補強のために鉄の弓をつけたものを弓張鋸といいます。多くは櫛、念珠の製作に使われます。現在用いられている両側に歯のある両歯鋸は、江戸時代にはなかったようで、その出現は明治中期以降であろうといわれています。
 江戸時代の鋸は玉鋼を鍛えて作りました。玉鋼は鑪(タタラ)によって砂鉄を熔解して出来たものです。玉鋼を焼いては大鎚で打って百錬し、形を整えて焼きを入れます。現在では油で焼き入れをしますが、江戸時代には水に入れました(吉川金次著『鋸』より)。
 絵は鏟(せん)で鋸の表面を削ってならしているところで、この鏟は自家製で、荒削り、中削り、仕上げ鏟の種類があります。
(出典・番付『諸職人絵番付』年代不明筆者不明)

鋏鍛治師
 日本で最も古い鋏は正倉院御物の金銅剪刀で、これは中国から渡ってきたものです。花切り鋏であろうといわれています。平安時代は古来からあった握り鋏を深枇の式(髪の毛を切る儀式)などに使いました。当時鋏を使うのは公家、武士の上流の人に限られていました。握り鋏と異なった鋏に、金切り鋏があります。これは鉄銅を切る鋏で、鍛冶工具として使われました。金切り鋏を職人仲間では切箸とも呼んでいます。
 平安時代までは握り鋏と金切り鋏の二種でした。室町時代になると草花か室内に飾られるようになり、生花の隆盛は池坊流を生み出します。生花では木の枝を切る力強い鋏か要求されるようになり、金箸を見本にした花鋏が出来ました。
 江戸時代中期頃になると、生花の古流では現在使われているような指輪のある花鋏を使用しました。この鋏は『和漢三才図会』の夾剪にあたるもので、同書には「今有二夾剪摺剪二種一夾剪乃外・科用剪二膏薬紙一者」とあります。
 日本のは総火造りといわれる日本刀の作刀法を踏襲しています。鋏のむすかしさは両方の刃の硬さが同じでなければならないことです。どちらかか硬いと一方の刃を削って使用出来なくなります。また握り鋏は、両端の刃を研ぎ上げて木の台の上で中央と思ったところを火つくり箸で一気に曲げ、左右の刃先かびったりと合うように仕上げます。
 絵は鋏の刃先が合っているかどうかを、透かして見ているところです。
(出典・番付『諸職人絵番付』年代不明筆者不明)

錨鍛冶師
『和漢船用集』に、次のようにあります。
 「古は石をくゝりて用しと見へたり。今石を用る者木碇(いかり)と云、まかれる枝の木を以て一角叉(しゃ)を作り、是に石をくゝり付て碇とするなり。左右に角叉有を唐人碇と呼。三才図会曰、
北洋可ㇾ施鉄錨ヲ、南洋水深准可ㇾ下二木碇ヲ🉂と見へたり。
 鋒錨(カナイカリ)船上鉄錨曰ㇾ錨、即今船納品ノ首尾四角叉用ㇾ鉄索貫ㇾ之、投🉂水中二使=㈠船不🉂動,揺㈠者。
 看家錨(イチハンイカリ)天工開物曰、凡鉄錨所🉂以沈ㇾ水繋ㇾ舟ヲ、一糧船計用🉂五六錨ヲ㈠最雄者曰---
重五百斤内外其余頭用🉂二枝㈠稍用🉂二枝㈠と見へたり。本邦千石積の舟に用る処、鉄碇八頭、其一番碇と云者重八拾貫目余也、是則五百斤に当れり。其大船に至ては重百貫目余におよへり。とあり、『風俗画報」七十六号には次のようにあります。
「製造本邦従来船舶に装置する錨は四脚ありて各々鈎の如く、其末尖くして之を投すれ
ば、鈎自泥沙に挿入するなり、重一ニ百斤、最も大なるものは八百斤ばかりなり、鍛煉し
て之を作る、故に錨鍛冶と称ふるもの往昔船舶輻湊の地に営業せり、摂津国兵庫、備後国
鞆津等最とも盛なりと云ふ、而して其錨縄は苧麻、檜、蕨、藁等三糾(そう)の大索(つな)を用う、苧麻縄を以て最とも堅靱なりとす 船用の語に之を加賀苧綱と云ふ」
絵は、鉄鎚を振り上げる三人が、錨の爪のところを叩いて作っているところです。
 (出典・浮世絵「東都地名の内・佃島』年代不明葛飾北斎画)

 錺師(かざりし)
 「人倫訓蒙図彙」に「〔錺師〕一切の仏具弁障子の引手、硯の水入、諸の金物をなし、ゑやうをほるを錺師と号す」とあります。
 絵では、板金を金床の上に置き木槌でたたきのばしています。金、銀、鉄などを鎚で打って形を作るのを鍛金(たんきん)、鎚金(ついきん)、打ち物といいます。道具には金床、金鎚、木槌、金鉗(かなばし)があり、仕上げには鏨(ざん=たがね) と鑢(りょ=やすり)などか使われます。鏨は九鏨、角鏨、小鏨があり、鑢は大小合わせて六、七十本のものを使い分けます。また鏨には切り鏨と彫り鏨とかあり、彫り鏨の先はそのときの仕事によって異なる細かい文様が彫ってあります。鏨はすべて自分で作ります。細かい文様の鏨になると一日仕事になるといいます。作るものは鎖、指の輪(指輪)、鍵、簪(かんざし)、煙管(きせる)、薬缶のほかに箪笥、屏風、飾り棚などの家具の金具、建築、神輿の金物などです。
 絵は金具の大きさから見て建築かもしくは神輿(みこし)、仏壇の金具のようです。木槌で裏から打ち出しをしているところでしょう。この職人は錺金具師といって錺師の分野なのですか、簪、指の輪などの人の身につけるものは作らずに。神杜、仏閣の装具を刻むのを専門にしていました。

象嵌師
出典の文に「鐙(あぶみ)、鍔(つば)、小柄(こずか)、等をはじめ一切の金具にこれをなす、所々にあり。」とあります。
 象嵌の歴史は古く、起源はヨーロッパにあり、中国、朝鮮を経て日本には古墳時代にその技術が伝わりました。江戸時代になると刀装具の小柄、笄(こうがい)、目貫、鍔、鐙などに応用され、独特の繊細な技術が生まれました。
 象嵌には平象嵌、布目象嵌、高肉象嵌、地嵌象嵌があります。
 平象嵌は青銅、鉄などの地金の表面に下絵を描き、鏨(たがね:切り鏨)でその上をなぞりつつ底広がりの蟻溝の線を彫り、それに金、銀を均して鏨で埋め込んでゆく技法です。埋込む金属は文様によって金、青金、銀、銅などを適当な大きさに鋏で切って使います。埋め込みがすむと、緑青、胆礬(たんばん)を混合したもので腐らせ、地金を黒くさせてさらに番茶で煮、錆止めします。地金、象嵌の黒くなっている表面を朴炭で磨き、象嵌の金銀を磨き出します。平象嵌は字のように地金も象嵌も平面になっていて、指で触っても凸凹は感じられません。この平象嵌は加賀象嵌(金沢)に多く見られます。絵は鐙を象嵌しているところです。加賀藩では金工の職人たちを白銀師と鐙師に区別しました。当時の鐙師は象嵌の職人たちの別名だったそうです。絵の台の右にある丸形のものは鍔で、細長いのは小柄の地板でしよう。下に置いてある鐙は錆づけしてあるので黒く描かれています。

鏡師
『万金産業袋』に刀の目貫の鋳造法が書かれていますが、鏡も同様に鋳られたようです。
「〇鋳目貫といふは埴土(ねばつち)に油を和(あわ)しいれ、麦のふみ糠のあらきを寸三に入れ、やはらかに塑(こね)てひらめ、ほり立てある目貫を八つばかりならへ、台の上の大きさに、また土をこしらへ上へかさね、その土へまた目貫をならへ、上を蓋にし、その蓋の土に目貰をならへ、また土をふたにする事、以上に三へん程して、それを又一つ一つはなし、跡へみな銅(あかがね)を鋳こむ筋をつけ置て日にほし、土をかはかし、よく土の干て後、右のことく合口をあはせ、扨(さて)堝(る)に銅をいれよく沸し、右の筋の鋳ロよりかねを流しこむなり。此型の事、目貫斗にかとたんきらす、惣してのかな道具、褐銅(からかね)、白銅、亜鉛ざいくには右の目貫の類あるひは仏具の品々より、大に至っては喚鐘(はんしょう)、つきがね、丈六仏を鋳奉るも、仕やうはみな此型の仕かけなり」
 青銅を流し込んで冷えてから型をはずします。鏡の周りとか模様とかについた余分の青銅は削り取ります。表面は両手で持っセンのヤスリで平らになるまで削ります。次に砥石、木炭、大根、木賊(とくさ)、砥粉で丹念に磨きます。現在では表面にクロームメッキをしますか、江戸時代にはクロームメッキなどはありません。鏡の表面を古くは石榴(ざくろ)の実で、後には梅酢でよく研ぎます。その上に明礬六分、水銀一匁、錫一匁、鹿角灰一匁を混ぜ合わせて塗り、炭火で焼いて水銀を蒸発させて錫を定着させます。錫鍍金(すずめっき)をしてはじめて顔が写ります。毎日使用していますと黒すんできて写りか悪くなります。そこで鏡研ぎ専門の職人が町を廻ってきました。
(出典・合巻「宝船桂帆柱』文政十年歌川広重画)

箔打師
「人倫訓蒙図彙』に「〔薄師〕壱歩の金を四寸薄五百枚に打也」とあり、『風俗画報』百六十五号には次のようにあります。
「はくは金銀等を打ち展して。紙の如く薄き片(きれ)と為せしものをいふ。〈略
 箔打(はくうち)は俗に箔屋といふ。薄(はく)を打ち作れるエ人をいふ。前に引し字治拾遺ニ六に。七条に箔うちありけり云々。件の金をとりて云々。はかりにかけて見れは。十八両ぞありける。是を箔にうつに七八千枚にうちつと見ゆ。我か国にはくうちのあるは古きことなり其の打様は。金銀類を革にて包み砧上(だいのうへ)に置きて手にて次第に之を回転し板屋根屋の用うるか如き鉄槌(つち)にて打敲き。紙よりも薄く展張するを例とす。其の音高くして美なり。甞て聞く。此の革は狸皮を可とす。俗諺に狸の金丸八畳敷といへるは此より出たるなりといふ。そは狸革にて丸く金を包み。之を打展せは。漸々に拡りて終には八畳敷の広さにも達するが故なりとぞ。看板には。黒塗の方板(かくいた)の内部を両面凹凸に彫り。之を金にて塗りしものを掲ぐ。
 凡そ金薄は。黄にして赤色を帯ふる者を上とし。黄にして青色を帯ふる者を下とす。其の極上品なるを大焼貫といひて。刀剣を飾るには此を以て焼著く。次を中焼貰といふ。諸品を飾るに用う。以上二品は漢法の薬品に入る。次を仏師薄といふ。仏工多く之を用ふ。十分一の半、銀を加ふ。次を江戸色といふ。銅工家之を用ゐて鍍掛(めつきいかけ)を為す。次を青薄といふ。三分の一銀を和す。多くは昇風扇子の砂子に用う。金薄の外銀薄、銅薄(世に之を真鍮薄といふは非なり)錫薄等あり。
 此の諸薄中。殊に金箔は。従来廟宇。仏龕。其他貴重なる器具等に使用して装飾とする
こと多きを以て。薄打に従事するのエ人も亦尠からす。」
 金沢藩では藩の産業振興のために早くから箔の生産を始め、その当時は金沢箔として有
名でした。
(出典・職人本『職人尽発句合』寛政九年 梨本祐為画)

煙管師・羅宇師
 たばこの渡りたる時節は、紙を巻てたばこをのみたり。その、ち葭あるひは、細き竹を
せぎて、それにたばこ盛りてのみけるとなり。〈略〉」(『本朝世事談綺正誤』)
『守貞謾稿』には、次のようにあります
 「煙管キセルト訓ズキセルハ蛮語也今俗幾世留等ノ仮名ヲ用モアリ
  其形種々大小長一短全体ノ形定ナク際限ナシ然レドモ大略首尾ヲ金属ニテ造レ之小竿 ニ両頭ニ」之ラ普通トス或ハ長ギセル女用等ニ小管ヲ以テ中ヲ継」之相撲取ナド特ニ大 キヲ持モアリ形刀豆ノ如キ故ニ名トス真鍮ニ腐シ模様ヲ描ク管ノ所円ナラズ此形也先年 医師等持レ之今ハ廃セリ
  烟管に製スル所金ハ憚テ用フべカラズ奢侈ノ徒ハ銀ニテ造ル普通真鍮ヲ専トシ銅鉄モ 亦用レ之也又焼付或ハ七度焼ト号テ錫ヲ以テ真鍮ノ上ヲ染ル又金滅金ニスルモアリ或ハ 横筋ヲヒキ或ハ深彫片切色絵ノ高彫象眼七宝流シ昔ハ水口ニテ製」之今ハ大津ニテ製」 之テ追分張ト云大坂四ッ橋ヲ名物トス十余戸アリ 今世三都ノ内江戸製ヲ良トス昔ハ江 戸ニテ不」造レ之京都ョリ桜張ト云真鍮ノ粗製ヲ下スヲ専用トス今モ客烟草盆ノキセル ノミ用レ之又近年奥ノ会津ョリモ多ク製テ江戸ニ出ス今世京坂ニテ江戸製ヲ賞シ用フ烟 管ニ用フル小管箱根山等ョリ出ルラウト云羅宇等ノ仮名ヲ用フ是亦蛮語也」
  煙管の原語はカンポジア語で、羅宇はラオス産の竹を使ったのでこのように呼ばれま した。日本製の延べ煙管の最も古いものは天正年間に作られた水口煙管です。これは豊 臣秀吉が近江の水口権兵衛に作らせたといわれています。江戸時代初期に流行した煙管 は、雁首の火皿こうはねがたが大きく、首のところが曲かった羅字の長い鉄、銅製の河 骨形と呼ばれるものです。当時無頼の徒はこれを武器として使ったので、元和二六一五、二四)頃は一名喧嘩煙管ともいいました。万治、寛文(一六五八、・七三)の頃には下に煙 管を置いても畳に吸い口かっかないように、吸い口のところに鍔金をつけたものが流行 しました。
        (煙管師の出典・職人本『職人歌合之中」文化四年丹羽桃渓画)

針師
 鍼の俗字が針です。現在では針は縫物用に使われ、鍼は医術に用いられています『人倫 訓蒙図彙』にも「〔針摺〕針立(鍼医のこと)これを用ゆ諸流あってかはれり云々」とあって、鍼医の針と職人とは分けて記してあります。
 金属製の針の歴史は古く、法隆寺に聖徳太子用の針筒があり、正倉院には鉄、銀、銅製の大小の針五本が伝えられています。明治維新前の針の生産高の順位は、京都、但馬、大阪、越中の順でしたが、特に京都の針は古くから世に知られ、室町時代には姉小路の針が有名でした。近世になると翠簾(みす)屋が全国的に名が知られています。翠簾屋の家号の起こりは、京都伏見の近傍の上三栖下三栖の両村が翠簾屋の出生の地であるといい、三栖を雅名に呼んで翠簾屋としたといわれます。
 京都、但馬を除く他の産地の針の生産量は微々たるもので、ほとんどが下級武士の内職
を主としたものでした。その製作は ニ十六工程を経る全くの手工でした。
 絵の出典は滋賀県大津大谷の製針法で、その解説に、
「一 切針(きりはり)針鉄ヲ切針台ニテ鑢(やすり)ヲ以テ前箇第ニ条目針名ノ寸分ニ切ル第一如図(昔の針は雲州鉄、或は但州鉄を使用した)
 一 目取(めとり) 鑢ヲ以テ切リシ跡角立ヌ様土佐生産ノ砥ヲ以テスリ直ス第ニ如図
 一 耳打(みみうち) 耳穴ヲ明ケン為ニ鉄槌ヲ以テ先キノ方打平ケルコト第三如図
 一 耳明(みみあけ) 舞錐ヲ以テ取明ルコト第四図ノ通リ(孔のあけ方は一方から三回、裏から三回計六回錐であける。安物は表から二回の計三回)
 一 耳摺(みみすり) 鑢ヲ以テ耳穴ノ処丸クスルコト第五如機械図
 一 刃 針ノ先キエ刃金ヲ付ル為第六針〆輪(はりぬきわ)ニ挟ミ悴竈ニ入置第六機械図ノ通リ(昔の焼き入れ法は、耳を丸くした針をまとめて素焼の壺に味噌と炭粉といっしょに入れ、七輪の炭火で焼いた。味噌は火をのがさないために使用。九十年前より炭粉と硝石を混ぜて焼き、油に入れる硬化法がとられていた)
 一 狂直シ 鉄槌ヲ以テ一本毎ニ直スコト第七如図
 一耳磨 浄建寺砥ヲ以テ耳丈ケ磨コト第八如機械図
 一磨 磨キ台工針ヲ並へ紀伊国金剛山ョリ出産ノ砂ヲ用イ磨キ駒ヲ以磨上ルコト第九如 図」とあります・

 一般に使われている針は、唐針、印針、溝針の三種です。唐針は耳(糸を通す穴)が丸孔 の針です。元来中国より渡来したのでこの名があります。印針は極上のもので、昔は仕立屋だけか使ったものです。溝針は元阿蘭陀針の模作で、この針は角孔で孔の処に溝がついているのでこう呼ばれます。草履屋、張り物屋で用いられます。そのほかに木綿針、絹針、紬針かあります。昔は職業によって用いる針か違っていました。足袋屋はほとんど溝針ばかりを使い、皮針は一名三角針ともいって角孔で、先端か三ッ目錐のように三角になったのを使いました。この針は紙合羽を縫うのに使います。畳針は針屋ではなく針鍛冶屋か作るもので、床刺しは七寸あります。装束の袖の括り(くくり)を刺す五色針もあり、これは五つの孔があって五色の糸を一時に通すことが出来ます。刺繍針は縫針より短く七、八分で、この針を「上印」と呼びます。本京針は別名みすや針、サントウ針ともいい、孔が楕円形で、京都でのみ製造販売したそうです。本京針の一種に孔の下に裏へ透らぬほどの小さな孔をつけたものかあります。これは大奥、大名の奥向きなどでお物師(武家に仕えた裁縫女)か使ったもので、孔の数によって誰のものと定めてありました。万一縫い込んだり、落としたりしたときには誰の針とわかる仕組みになっていました。小町針は、江戸時代、刺青を彫るときに使われた孔のない針です。鞍針は乗馬の鞍をつくるとき用いたもので、長さ一尺五、六寸ありました。
  火をちんまりとっかふ針鍛冶(俳諧鐫)
(出典・専門本『日本縫針考』明治五年筆者不明)


毛抜師
 絵の右の衝立看板の字に「うぶけや」とあります。「うぶけや」は現在中央区人形町にある刃物店「うぶけや」で、絵の店先は今からおよそニ百七十年ほど前の姿です。一人は金床で毛抜きを打ち、他の一人は砥石でといでいます。
 本来毛抜きは地金で作るのか本物です。地金は、何十年間も海の潮をかぶった古錨がよ
いともいわれています。古錨といっても余り使い古したものもよくないそうで、そこの兼合いかむずかしいところです。その兼合いを見通すには何十年もの経験が必要です。なぜ地金製がよいかといいますと、これで作った毛抜きで毛を抜くと痛味かまるでないからです。理由は地金は重く毛の根をしつかりとはさみ、地金の重さで抜くから痛くないのだそうです。痛くない毛抜きを作るには、早くてニ十年の年期がないと出来ません。
 一本の地金を焼いては金床の上で叩き、これを幾回も繰り返して鍛えます。そのとき金床の上の地金と金鎚が水平でないと地金に傷がっき、痛い毛抜きが出来てしまいます。仕上げは欅台の上で柔かく叩き、次に砥石で磨きます。一本の棒の地金の端を左手の親指と人さし指ではさみ、その中央のところを「やっとこ」で折り曲けます。
ひら毛抜きには平、面取り甲丸、役者だるま、奴、竹節、腔中(こうちゅう)の八種類があります(『後継ぎはしないか』より)。
      (出典・職人本『今様職人尽百人一首」正徳ー一兀文近藤清春画)

 

 

 

 


 







 

 
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