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  現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。 青色の太字をクリックすると 、画像が表示される。

 江戸の職人 第五話「木」の部2021


仏師

 仏師が最初に彫るものは「割り物といって、万字つなぎ、麻の葉、七宝、雷紋のような 模様を平面の板に割り出す稽古をしました。これは道具に慣れるためのものです。これが出来ると、木の先へ大黒天の顔を彫ります。円満福徳な面相にはなかなか彫れないものだそうえびすです。これを毎日毎晩コッコッ彫るうちに、なんとか形になってきます。次に蛭子様、三番目が不動の三尊です。初めは矜羯羅童子(んがらとうし)から彫り、次に制旺迦童子(せいたかどうし)、最後が本体の不動明王です。次に岩、火焔と彫り進みます。この三体のうちには仏の種々相か含まれているそうです。
 一尺以内の小物を彫るのを小仏師、一尺以上を大仏師といい、大仏師は大小にかかわらず彫る腕を持っていました。
 仏像を彩る色彩には、牛の皮膠を使うのは穢らわしいといって、代わりに香膠を用いたそうです。香膠は種々の芳草の粘い根汁をいい曼珠沙華、芥子の油を絵の具に混せました。
 絵の右の仏師は阿弥陀如来に彩色しています。押込みに光背が見えます。押込みの上にあるのは蓮華座で、この上に仏が座します。左は仁王を彫っているところです。
 仏師が彫るまでの献立をする役を木寄師(きよせし)といいます。材料の木材を仏師の注文通りの寸法に断ち切る役です。材料は白檀、檜、楠、姫小松、榧、朴、桂を使いました。(出典・黄表紙『願解而下組哉拝寿仁王参』寛政元年北尾政美画)

船大工
『和漢船用集』には次のようにあります。
「千石船 荷船は和漢ともに石数を以て呼。〈略〉千石の船帆二十六端筵数三百ニ枚と見 へたり。
 押廻 大船也荷方千石積笠の船舳を高く曲上る故押廻しと云
 檜垣 摂州大坂廻船問屋の仲間船を云、六七百石以上皆大船也。垣立の筋を檜垣にする ゆへ名なり。今檜垣と呼て、荷舟の名とす。すへて大廻し荷物を積といへとも、おほく酒 樽油樽類を積ゆへ樽舟と云。是又荷舟の一法也。
 高瀬舟(タカセは舟偏に共が旁という字が当てられている) 高瀬川所にあり。〈略〉艫高く、舳横舳(トモヨコトモ)にてひくき平なる者なり〈略〉上州の高瀬舟、長十四五尋、幅一丈ニ三尺、高瀬舟是より大なる者なし。
 糞船 農事に用尿糞をいるる者。
 煎売(ニウリ)船 所どころにあり。小船にして酒肴を煎売するの舟也。あるひは餅くたもの類をひさく。
 湯船 武州江戸にあり。舟に浴室を居、湯銭を取て浴せしむる風呂屋舟也。
 猪牙(ちょき)舟 此舟小して細長者也〈略〉明暦の比、両国橋笹屋利兵衛、見付の玉屋勘五兵衛と云者是を作る。押送りの長吉と云者、船を薬研の形に作り、魚荷を積て押すに、至てはやし。是を考て作る者也。長吉舟と云へかりけるを、ちよき舟といへり。」

 絵の左の浴衣を着た男が釘を打ちつけていますが、この釘は女夫釘(『和漢船用集』に「艫をかたむるの釘は大船小船によらす、水押継手に打釘、陰陽ニ本にかきる故、夫婦釘と云」とある)と呼ばれ、全部鍛冶屋に誂えて作ります。中央の裸の男の前に手さげ箱がありますが、その中に女夫釘、落とし釘(縫合わす釘)、鎹(かすがい)が見えます。
(出典・肉筆『職人づくし・船大工」年代不明川原慶賀画)

面打師
 現在の能面の素材は、十年ニ十年を経た木曽檜が使われていますが、昔はその地方の土地で手に入りやすい木を選んだようです。樟、桐、欅などが使われています。檜以外の木は仕事かやりにくく、また舞いのとき面を掛けて、声の響きが悪いそうです。
 能面作りはまず木取りから始まります。木取りは輪切りにした檜を四等分にします。能面の寸法は小面が基準になります。曲尺で縦が七寸、横が四寸五分、奥行きがニ寸三分、男面は幅が幾分広くなりますが、長さは同じです木取りした木に面型をあてて上下左右の寸法をきめ、不用な所を削り、面の中心に線を引き、錐で目ロの位置に穴をあけます。これらを木寄りといいます。
 次は荒彫り(こなし)です現在では鑿で彫っていますか、昔は絵のように手釿で刻んで形をきめたものです。この基本の荒彫りがよくないと面の仕上がりが悪くなるそうです。昔は師匠が荒彫りをして、あとの仕事を弟子にまかせたといわれるほど大切なものです。荒彫りの次は小作りで、墨で当たりをつけながら、鑿と小刀で形を整えてゆきます。小作りと同時に面裏を丸鑿で打ってゆきます。小作りで能面か出来上がったところで小刀だけで木地仕上げをします。最後は裏仕上げで、槍鉋/鐁(やりがんな)、曲鑿を使います。裏には漆を塗ります。彫り上かると胡粉(ごふん)下地を塗ります。胡粉に膠を混ぜたものを三度塗り、鮫皮か木賊(とくさ)で磨きこれを五度ほど繰り返します。塗りを重ねるのは表面の凹凸をとるためです。
 絵は神楽面です。出典の文に次のようにあります。
「初午祭りのまにあハせよとあるいそぎの細工かな」
(出典・絵巻物『職人尽絵詞』 文化2年 鍬形薫斎画)

水車大工
 絵は亀山殿の池に水を引く水車を、水車大工が作っているところです。
 この水車は筒車と呼ばれるもので、水輪の外側に筒か桶を取りつけて、廻転しながらそれで水を汲み上げました。絵には筒、桶が描かれてありませんので、おそらく取りつける前のところでしよう。
 水車は水を被るために木組を主として作り、釘を一本も使わないといわれています。水車に限らず建具師の仕事は金釘を使わず、木組を本来の仕事としています。金釘は水のために腐食するので使われないのですか、水車の使用年限は五年からニ十年ぐらいまでなので、金釘を使っても差支えはなかったろうといわれています
 水車で有名なものに淀の水車があります。
 「淀川の水車山州淀の外北の方大川の中に水車一一つあり。其車大サ差わたし八間(直径
 一四・五メートル)あり。廻りニ十四間なるべし。釣瓶一つに水壱斗六升入るよし、川水
 を城の方へ汲入る為なり。〈略〉」(『半日閑話』)
 水車を応用して生産されるものに次のものがありました。寛永年間に生駒山脈で胡粉が水車によって作られ元禄の頃、灘、摂津では油しばりに、同じ頃関東の高崎で精米用に、佐渡の鉱山、九州の山ケ野金山で鉱石を砕くためなどに使われました(黒岩俊郎他著『日本の水
車」より)。
(出典・絵本一画本徒然草」元文五年西川祐信画)

檜物師(ひものし)
 『人倫訓蒙図彙』に「〔檜物師〕一切の木具曲物(まげもの)造物島台等、杉、檜、槇等を以て造類、所々に住す」とあります。
 檜の薄板を曲げて作った容器を曲物またはワッパ(弁当箱)と呼んでいます。檜物師とい
われるように曲物の材料は多く檜が使われます。地方によっては杉やあすなろが用いられています
 曲物の歴史は古く中世の絵巻物などに描かれていて、「ろくろ」の刳物と並んで代表的な容器でした。その容器にはお盆、茶びつ、蒸籠、おまる、ふるい、手杓などの生活用品四十種類が作られていました。
 木地材を寸法通り鉋で厚さ二ミリから七ミリに削ります。この板を煮立った湯に三分ぐらいつけてさめないうちに曲げ、合わせ目を木挟ではさんで二、三日天日で乾燥させます。一番むずかしいのは曲げた板の襠そぎ(板の合ロ)と呼ばれるところで、最先端を一ミリほどに削りそろえるには、長い年期が必要だといわれています。合わせ目を糊で接着し、「目さし」と呼ばれる独特の小刀で細い縫い目をあけ、桜の皮を通して縫いつけます。底板をはめ込み、上蓋の板を合わせます。
 絵は檜の板を裂いているところで、前に三方と脚打ちか見えます。昔は三方の使用は公卿貴族に限られていました。脚打ちは折敷に板脚をつけたもので、庶民の膳に使われました。
(出典・職人本「職人尽発句会」寛政九年 製本祐為画)

附木屋(つけぎや)
 マッチのなかった江戸時代には、火を起こすのに火打石、火打金、火口、附木と四つの道
具が必要でした。
 火打石は石英の一種で仄色の固い石です。火打金は火打鎌とも呼ばれて、木に鉄片を打ち
込んだものです。旅行用として三角形の鋼鉄のものもありました。火打金の製造では京都は
明珍、関東では上州吉井産が有名でした。火口はいちびの殻幹を焼いた消炭のものと、或いは茅花やパンヤに焼酎焔硝を加えて煮て作ったものかありました。
 附木の材料は檜、さわら、ひば、松、えそまつ、とどまつ等を使いますか、最も適しているのは檜です。附木はこれらの木を台鉋(かんな)にかけて薄く削り、その端に硫黄をつけたものです
火を起こすには、火口のそばで火打石と火打金を打ち合います。すると火花が出ます。
 その火花が火口につきます。次に附木の硫黄のところを火のついた火口に近づけますと、
附木に火が燃え上かります。
 『風俗画報』四十号に附木職の絵があり、その解説に
 「此原料には檜の材を用ふ其長五寸立法に切り適度の材に取り付けある鉋にかけ突て薄き一片となし其端の一方に硫黄を水に煉りて塗りて乾し百枚乃至七八十枚を以て一把とせり」
とあります。
 絵は附木を作るのに忙しい附木屋一家総出の場面です。附木を削る時、附木の上に角の木を置いて突いています。
   (出典・教訓本「道のてびき」文政六年 丹波桃渓画)

神輿師
 神輿はおおむね木造りで、屋根のある厨子のようなものに台を取りつけ、それに二本の
轅(ながえ)を通して、これを輿丁が肩でかつぎました。神輿は屋根、斗組、胴、高欄、台輪の五体からできています。神輿のお宮の屋根は三種あります。神明造(伊勢神宮の反りのない屋根で千木がある)、千鳥破風、唐破風がそれで、そのほかには徳川家一門で使われた正面が唐破風で脇が千鳥破風となっている権現造(日光の東照宮に見られる屋根)があります。最もよく使われるのは千鳥破風です。
 斗組(ますぐみ)は屋根の重さを支えるもので、またお宮らしい風格を出す役目をもっています。斗組には皿斗、大斗、角斗、延斗、巻斗(さらますおおますすみますのべますまきます)があり、これらを腕木と交互に一段、一一段、三段、四段五段と組み合わせます。斗の数は少ないもので二十四個、多いものは五百個以上か組み込まれます完成した斗組は上は屋根につながり、下は胴の四本の柱の柄と連結します。胴は両ちょうつがい側と裏の三面を胴板で包み、正面は雲形牒番のついた両開きの唐扉になっています。胴のまわりには浜縁かあり、それには高欄かっきます。正面の一一本の御拝柱は上に四段の斗組があり、下は御拝前の浜縁に連なっています
 神輿の木材は欅か檜で、白木のものもありますが多くは黒漆塗りです。その上に錺師によって金具類が取りつけられ、それによって重さが異なってきます。
 神輿の大きさは台輪の寸法で決まりました。神社の神輿は大きく、五尺もので二百貫(1貫は3.75キロ)、町会等のものは二尺ぐらいのもので三十貫から五十貫ほどの重さがあります。
 飾り師の作る金具は場所によって種々の名垰があります。第の屋上に鳳気-つを)をつけられ、上から順に露盤金具、巴、葺返し、を金具、を鑄、を子、・与段を具・高欄金具、浜縁金具、隅金具、扉の金具、鳥居の金具などがあります神輿は飾り師のほかに彫刻師、組紐師、箔師彩色師などの多くの手を経て完成されてゆきます(吉村和夫著『最後の職人・神輿師』より)。
 絵は神輿の錺師の仕事場のようです。右の職人は槌で金板を叩いています。向こう鉢巻の
男は卍と巴、葺返しの金具のついた屋根に釘を打ちつけているところでしよう。前髪の小僧
は、階段金具か長押しの隅金具を磨いているようです。
    (出典・絵巻物『職人尽絵詞』文化ニ年鍬形蕙斎画)

鞴師(ふいごし)
出典の説明文に次のように記されています。
「新撰百工図解 其七十ニ鞴師 山下重民
 鞴師は金石類を取扱ふ営業家の使用する鞴を製造するエ人をいふ
ふいがうは俗称にして。東京にては更にふいごと略称す。〈略〉
 鞴は冶火を吹て熾りならしむる所以の嚢と。古人は解釈せり。実に其の言の如し。鍛冶、石工、鋳掛師、諸金具鼈甲細工師の坐右に欠くべからざるの要具なり。
 其の製造法たるや一種の細長き木函にして其前後上層の板壁に方孔を穿ち函内の中板に革片を貼し、函外即ち前の方より撞木形の円柄を貫き函側の下部に銅管を通し置き彼の円柄を抽出押送する毎に方孔に当れる革片随て開闔し、鋼管より風気を吹て坩堝の火を熾ならしむるものとす。革片は即ち吹皮にして其の名の因て起る所最も要部たり。其の用料は狸皮を以て上とす。〈略〉其の価格は大小精粗に因りて等しからず。最低のものは金八拾銭位より、最高のものは金拾円に至るといふ」
 原画の描かれたのは明治三十ニ年です。明治三十三年の大工の手間賃が一日当たり八十銭、三十年頃のはがきが一枚一銭五厘、三十一年のもりそばが一銭五厘、こうしてみますと鞴は高価であったことがわかります。
  ふいごやのひたきよろこぶとって子たち(花紋日)
 ひたきは火焼きで、鞴祭のことです。
   (出典・風俗本「風俗画報』百九十六号明治三十ニ年尾形月耕画)

 



 

 
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