現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。
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釜蓋師
『人倫訓蒙図彙』にこうあります
「〔釜蓋師〕諸の鍋釜のふた釣瓶、井戸車、真那板、井筒、水走(みづはしり)等是をつくる。万寿寺通東洞院より西にあり」
絵の右上にあるのか井戸車、その左横が釣甁、その横がまな板で、釜蓋師が作っているのか鍋の蓋、その右横が釜の蓋です井筒は井戸の周囲を木、石で、井桁に囲ったものです。
(出典・番付『諸職人絵番付』年代不明筆者不明)
臼師
「新撰百工図解其三臼職の略解対原堂主人
古は地を掘りて臼と為し後に木石を穿つなり、按に臼は穀を舂く器なり今松木の肥脂の者を用ひて之を作る甚だ佳し、五葉の松も亦良し、大抵高サ一尺八寸『其周匝は木の大小に任せ』と『和漢三才図会』に云へり、〈略〉
さて臼に碓(カラウス)磑(スリウス)石磑(ヒキウス)等の製作ありて、碓ハ天智天皇
九年水車を以て運転したる由見ゆ、磑は其起源詳かならず、石磑は推古天皇十八年高麗の僧曇徴渡来して製るを初めとす、其材には摂州の産御影石を用ふると云ふ、此図は搗臼を製る処にして所々に置かれているのは臼の内を鑿削道具なり、其の他鑿鉋鋸曲尺金鎚等を用ゆ、尾形月耕氏の説明に臼を掘には其周囲を廻りながら造ると云ふ」
江戸時代の臼は、松の肥脂のあるもので作られたのが最上とされていますが、欅や栗でも作られました。他の木材だと、つくものが折れたり砕けたりして、しかもはかがゆかず、目減りと疲れが多かったそうです。
臼作りの値段は、たとえば一斗臼のときは米一斗の金額に似合った額と決まっていました。
臼職の一人前の仕事量は一日五升とされていました。つまりニ斗臼なら四日で仕上げることになります。ただし根臼といって木の根の方で作る臼は一人増で、「しごき」(木の皮をはいだ臼)と皮つきでも賃金が違っていました(加倉井健蔵著『島山職人風土記』より)。
(出典・風俗本『風俗画報』四十ニ号明治ニ十五年尾形月耕画)
桶師
絵の左の桶師は底板を銑で削っているところで、桶師は両足で底板をはさんで動かないようにしています。桶師に限らず、他の職人にも足を使うのはよく見かけます。この桶師の前にあるのが大鉋(かんな)、またの名を正直(しょうじき)といい、桶師、経木師、附木師かこれを使いました。その左に柄の先に反りのついた小刀は前鉋で、桶側の内側の継ぎ目を削って仕上げたり、木口を丸めたりするのに用います。その右の桶師は「つきあて」の前にすわり「胸あて」を腹に当てて割り板を丸銑で削っています。下には箍(いずみ)を入れている桶師がおり、その右は割り竹で箍を編んでいます。橫にある二つの桶は釣瓶桶です
絵の右上の桶師は割り竹の裏側を削っています。割り竹の裏側は、七、三の割合で削ります。平らだと箍がびったりと落ち着かないそうです。
(出典・絵巻物『桶屋』文政頃川原慶賀画)
纏師
纏(まとい)は別名「馬印」とも称します。
大名火硝の纏が戦場の馬印に似て色彩が豊かなのは、よい目標にするためです。享保四年(1719)四月初めに町奉行大岡越前守によって町火消が出来ました。その後変遷を経て天保二年、水野忠邦執政のときに纏の出しは二尺に制限され、従前からあった町ごとの纏と同形の小纏は廃止されました。馬簾(出しの下に垂れ下がっている白く細長い紐形)は享保十五年に付けられました。出しは軽くて火に強い桐の薄板で作り、続飯
で貼り合わせ、その上に和紙を貼り、次に胡粉を塗ります。胡粉に下塗り、上塗りかあって、下塗りには蛤、上塗りには蠣の貝殻を粉にした胡粉を塗ります。胡粉の固着剤には膠を溶いて混ぜます。
絵は胡粉(ごふん:は白色顔料のひとつ)を刷毛で塗っているところです。纏師の横のすり鉢は胡粉を溶くもので、左の火鉢には膠(にかわ:淡黄褐色ないし暗褐色の固形物)を煮る土鍋がかけてあります。その下にあるのは胡粉袋です。纏は一番組のよ組のもので、田の字形で三面の形です。解説の図のい組の纏は芥子(けし)に桝(ます)、つまり「消します」に通わせたもので、この呼び名は大岡越前守がつけたと伝えられています。
纏の組番の字、文様などは黒漆で書くので艶があります。馬簾の数は四十八本で交互に二枚重ねになっています。長さは二尺八寸、幅八分五厘、和紙を貼り合わせて作ったものと、木綿布を二枚貼り合わせたものがあり、ともに胡粉を塗って仕上げます。この馬簾は飾りのためだけではなく、纏持ちが猛火の中で屋根上の消し口に立ったとき、纏を振り廻して落ちてくる火の粉を振り払うためのものです。
これを作っている纏師は神田竪(たて)大工町纏屋治郎右衛門で、江戸広しといえどもここ一軒でした。
(出典・番付『諸職人絵番付』年代不明 筆者不明)
乗物師
出典の文に次のようにあります
「〔乗物師〕男女の乗物并ニ公家もちゆる処の板輿、網代輿等是を作る。新町通下立売上
ル丁、東洞院六角の下、大坂は堺筋に是を造る。又駕籠掻用駕籠は、大仏伏見海道に是を
造る。」
絵の乗物師が作っている駕籠は京都の医師の乗る駕籠で、『守貞謾稿』には次のようにあ
ります。
「江戸医師乗物蓙巻ナレトモ聊カ小形ニテ上特ニ狭ク唯軽キヲ旨トス。窓ハ常ノ大サナ
レドモ簾ヲ長クスルハ立派ヲ好ム也。
京坂医駕上狭カラズ惣テ常ノ蓙打乗物ニ異ナルコトナシ其故ハ大内ノ官医ハ諸太夫ニ任
シ有髪ナレハ上下ヲ着ス故ニ江戸ハ剃髪ニテ法印法眼ニ任シ十徳ヲ着シ平日ハ羽織シ故ニ
乗物ヲ狭クス。江戸官医ニ非ルモ皆学ㇾ之。
追書ニ医師乗物ト書タレトモノリ物トハ云ズ形乗物ナレトモ医者駕籠ト云也。唯官医
ニハノリモノ町医ニカゴト云ヲ惣テノリモノト云ハ非歟是歟。」
出典の文によると、板輿、網代輿は舁く乗物で貴人に用いられました。板輿は白木作りで、
網代輿は竹で編んだうえに色を塗ってありました。
はいって、ぞうさくをするのりものや (柳多留)
(出典・職人本『人倫訓蒙図彙』元禄三年 蒔絵師源三郎画)
車師
「大八車
寛文(一六六一~七三)年中江戸にてこれを造る。人八人の代をすると云ふを以、代八と名付
今大八と書。」(『本朝世事談綺正誤』)
車の製作者が車大工といわれるのは寛政頃からで、それ以前は車作りと呼ばれています。
「牛車図今世用レ之京師江戸尾ノ名古屋駿ノ府中等而已
車輪ハ次ノ大八車ト同制ニテ羽七枚矢二十一本ナリ
江戸牛車昔ハ無レ之―――年中大城作造ノ日城州ヨリ招ㇾ之――地ヲ給ヒ其後高輪ノロ大城戸外牛町ニ地ヲ遷シいまに至レ然り
江戸代八車図
この図ノ如ク四夫ニテ遣ルヲヨテント云或ハ三夫二夫ニテモ遣ㇾ之軽キ時ハ一夫ニテモ曳ケドモ実ハ禁也
此車前ヲ楫ト云船ニ準ズ名カ左右進退ハ前夫ノ与ル所トス前夫二夫ノ時ハ掛声ト云テ各互ニ一歩毎ニヱンホン〃〃ト発声ス前一夫ニハ発声セズ
代八車簀子
四夫ノ時此棒ヲ縄ニテ前ノ橫木ノ所ニ括リソエル
左右各四爪アリ荷ヲ積テ上ヨリ綱ヲカケ此爪ニ結ヒ止ム
(筆者不明)
筏師
奥山より伐くだし川水にうかふるを組合てこれに乗、竿さしくだすを筏師といふ也者都鄙(とひ)にこれ有中にも、嵯峨の大井川の筏哥によめり。(『人倫訓蒙図彙』)
「(材木流しの図)山より材木を切出すにハ谷川へ落してながれに乗して運び出す杣人鳶口をもってこれを引まハし山川の早き瀬をとびまハること其軽捷(かるわざ)あたかも猿のごとし或ハ高きかけより下へ木をつきおとしあるひハ谷川の滝つせを自由に引まハしてその材木を筏として乗まハすよく修練したるはたらき也」(『日本山海名物図会』)
筏師が眠に似たり五十年(若みどり)
(出典・名所図会「大和名所図会」寛政三年 竹原信繁画)
木挽師(こびきし)
前挽鋸(まえびきのこ)を使って製材する者を木挽(こびき)、大鋸挽(おがひき)と呼んでいます。江戸時代の木挽には城下の材木屋に雇われて町で生活する者と、製材のために山から山へ木を求めて渡り歩く者とがあり後者には農閑期の出稼ぎ農夫が多かったようです。
木挽の道具は、節切り、広刃という斧、横挽鋸、たて挽の前挽鋸、鎹(かすがい)等で、木の大小によって鋸の大きさを使い分けるので、幾挺かの鋸を持っています。
鋸の目立ては、一日のうち朝と昼の二度しました。それほど鋸の目が減りやすいので、木挽は一日の労働時間の三割は目立てに費したといわれています。横挽鋸は全体に焼きを入れてありますか、前挽鋸は刃先だけに焼き入れがしてあり、減ると鍛冶屋に焼き入れを頼みました。焼き入れをすればだいたい一年間は使えたそうです。目立ては平鑢(ひらやすり)と三角棒鑢を使いました。この目立ての工夫如何によって仕事の能率が違ってくるので、同職の者に鋸を見られることを極端に嫌い、昼飯の時などは挽き屑の中へ突っ込んで置くといいます。
仕事の掛りは、ます製材を立て掛ける輪台造りから始めます。輪台は二股になった木のことで、これを二本造り、適当な間隔と高さで地面に立て、そこに製材を渡して鎹を打ち、動かぬようにしておきます。製材は前もって所定の寸法に横挽きで切っておき、必要な厚さに墨入れをします。この墨入れは一ツ置きに打ち、挽鋸で挽くときは墨線のない間を挽くことになります(ただし絵ではそのように描いてはない)。製材か太かったり長くて輪台にかからないときは、製材を横のまま、鋸を横にしてたて挽きにしますが、向側の墨入れのところにびたりと合わなくてはならないので、技術を要しました(岩本山輝著『きき書き六万石の職人衆』)。
(出典・絵巻物「木挽」文政頃川原慶賀画)
棒屋
棒屋のことを別名「鋤鍬柄師」とも呼んたそうです。「人倫訓蒙図彙の中に「鋤鍬柄師」とあって「樫をもってこれを作る。並に棒朸(ぼうおうご)これをつくる」と記されています。朸は物をになう棒、つまり天秤棒のことです。鋤、鍬の柄のほかに六尺棒などの棒類と天秤棒を作ったようです。
天保十二年の小玉晁著「江戸見草」には「尾張で棒、江戸で天秤俸、皆杉の木なり。外の木にてはすべると云」とあります。
なお、杵や掛け矢などには欅を使います。俎板は銀杏がよいといわれています。樫の木は赤と白樫があって、白樫の方がねばりがあって使いよいそうです。
鋤、鍬は、農耕の始まった弥生時代から使用されていました。たたし今様の鉄製のものではなく、木製でした。鋤鍬柄師は、おそらく大工から独立して専門化したのだろうと想像されますが、その時期は鎌倉時代の末期でしよう。職業上の便利さから、鋤鍬柄師は鍛治屋の隣にいるのが普通でした。
鋤、鍬はその地方の土質によって寸法、形が違っていました。
樫は一尺三寸ぐらいのものを方射状に十八枚に割って細工するのだそうです(加倉井健蔵著「島山職人風土記」より)。
秋風に棒屋の火鉢よくもへて(俳諧鐫:せん)
(出典・職人本「人訓蒙図彙」元一・年蒔絵師源三郎画)
算盤師
算盤は室町時代の末頃、明と貿易していた商人たちによって長崎や堺に渡ってきました。このときの算盤は中国式のもので、珠は楕円形で五珠(数字などを書いてある上の珠)が二個になっています。日本で現存する最も古い算盤は、朝鮮の役のとき豊臣秀吉に従った加賀藩の前田利家が九州の名護屋の陣中で使ったといわれるものです。大きさはハガキより一と廻り小さいくらいのもので、珠は獣の骨製で、軸は銅線で出来ていて、まわりの板は黒檀製、五珠は一一個になっています。また珠には角があってやや菱形をしており、現在のものに似ています。轆轤などは使わずに手作りのせいか、珠の一つ一つは不揃いに出来ています。この頃は五珠が二つのものが多かったのですか、なかには現在と同じように五珠が一つのものもあったそうです
慶長十七年(一六一二)に大津の人片岡庄兵衛は、長崎で明の人から製造法を教わり、郷里大津で算盤を作りました。これが日本での算盤作りの最初です。 算盤が作られると同時にその入門書も求められ、元和八年(一六二二)に毛利重能によってその最初の入門書『割算書』か発刊されています。更に五年後の寛永四年(一六二七)には弟子の吉田光由が有名な『塵劫記』を著しました。
算盤の最初の産地は大津で、次が播州です。これらの算盤の珠材は柊(ひいらぎ)のようなやわらかい材質のものを使っていました。やわらかなので細工がしやすく、舞錐:まいぎり(手轆轤:ろくろ)を使って製作しています。雲州算盤は堅木を使ってあって、その創始者は村上吉五郎です。彼は亀嵩(かめだか)の腕のよい大工で、天保頃から算盤を作り始めました。その算盤の珠は梅、樫の古木で、軸は百姓家の屋根裏のすす竹、桁は樫で作ってありました。当時の轆轤は「二人挽き轆轤でしたが、吉五郎は苦心の末に足踏み轆轤を使っていたそうです。
(出典・カルタ「職人尽絵合かるた」年代不明筆者不明)
桝師
升の種類は一合、二合五勺、五合、一升、五升、七升、一斗の七種類です。穀用五合以上は角から角へ鉉鉄がつけられています。鉉鉄は斗概(とかき 枡 で穀類などを量るとき、盛り上がった部分を平らにならすのに使う短い棒。ますかき。かいならし。)を量りやすくするためのものです。絵の積んである升がそれで、升口の対角線(絵では黒線に描かれている)が鉉鉄です。この升を鉉掛升といいます。絵の升には鉉鉄のほかに升を補強するための鉄帯の口縁がつけられています。この鉉鉄のあるのは穀類を量るものだけで、酒、油、塩を量る升にはありません。鉉鉄は江戸時代初期に出来たものです。
升の木材は檜の目板が原則ですが、藩升などには杉、椹(さわら)が使用されています。酒、醬油、塩を専用に量るのに使われたものに木地升があります。この升は塩などを量ると鉄釘ですと錆びるので、木釘、竹釘を、また木材も空木が用いられました。升座が木地升を作るようになったのは享保(1716〜36)年間で、それは江戸幕府が米に重点を置いていたからです。民間では昔から広く使われていました。
升に穀類を入れてそれを平らにならすために斗概が使われました。これは斗搔き、斗棒とも呼ばれ、古くは竹を使いましたが、江戸時代になって樫、杉、竹を用いました。江戸時代の斗概(とがい 盛り上がった部分を平らにならすツール)は直径が定められてありました。古くから米屋の丁稚は、一斗の米を一斗二升に量れ ないと一人前ではないといわれています。これは升目をごまかして利益を得るためです。升 による計量は量る人によって不正確だといえます。そこで米を量ることを専門にした升師. 升取りと呼ばれる職人が登場してきました。
茶筌師
茶筌の創始者は宗砌(そうぜい)で、茶道の始祖の珠光と茶筌を考案したと伝えられています。 珠光が後土御門天皇の行幸のみぎり、宗砌作の茶筌を上覧に供したところ高穂の銘を下され、これより禁裏、将軍、大名たちが争って宗砌茶筌を求めました。しかし宗砌の家は八代 城主頼茂のときに筒井順慶によって滅ぼされました。家臣たちは主家の滅亡で浪々の身とな りましたが、習い覚えた茶筌作りで生計をたて、当時、その数は五十六家あったそうです。 そののち、一子相伝の技法は今日まで高山町に継承され、現在でも全国の茶筌の九割までが ここで製作されています。
茶道の流派、用途によって竹の種類、形が違い、その種類は六十種ほどになります。
表千家は煤竹、裏千家、遠州、石州は白竹、官休庵は胡麻を用いました。正月、祝釜のときは青竹を使うこともありました。
穂数には三十二本立、四十七本立、五十八本立、六十九本立、八十本立、百本立、百二十本立とあって、濃茶は穂数が少なく、薄茶は穂数の多いものが使われました。
(出典•番付『諸職人絵番付』年代不明 筆者不明)
箸師
出典の文に、
「〔箸師〕四条坊門にこれをつくる。上を数寄屋箸といふ。白木、杉、丸箸、八角箸.品々あり。又塗箸所々にあり。」
我が国で最も古く使われた箸は、檜、竹を折り曲げて作った折箸と呼ばれるピンセットと 同形のものでした。七世紀頃の藤原宮跡、島田遺跡から出土したものはこの折箸です。 現在の二本一組の箸が最初に出土しているのは長岡京跡でした。
折箸に対して二本一組の 箸を唐箸、或いは唐木箸と呼んでいます。これは中国、朝鮮を通して箸が日本へきたことを示しています。平安時代には早くも「白箸を売る翁」の話があるので、箸商人のいたことが わかります。
箸の材料には中国の天子の使った象牙箸、足利義政が作った金箸、庖丁人の使った鉄箸、それに銀、銅の金属箸があります。古くは竹の材質を使ったものが多かったのですが、やが て杉、柳、檜、松、栗、柿、萩と種々用いられるようになりました。なかでも柾目の通った 吉野杉で作った利久箸が有名です。この箸は千利休が作ったもので、材質は杉の赤味で中央をやや太く、両端を細く削って面取りしてあり、懐石料理に使われます。なお利休箸とも書きますが、実は休むという字の縁起を嫌って利久箸と改めたもので、本来は利休箸が正しいそうです。
またこのほかに数寄屋箸といわれる青竹を使った竹箸がありました。食べ初め、 誕生祝、初節句、七五三などの祝い膳には必ず柳の白木箸が用いられます。
万治年間(1658~62)、金銀、箔、卵殻、貝殻などを使った漆の研ぎ出しの技法によって美事な作品を作ったので、城主酒 井忠勝はこれを若狭塗と命名しました。若狭塗の箸材には桜、紫檀、孟宗竹が使用されまし た。ほかに輪島塗、津軽塗、飛驛春慶塗、会津塗などがあります。
塗り箸は藩の財政繁栄のための手段として製作されたもので、下級武士や、中間などの内 職として行われたことが多かったようです。最初は大名、武家が使用しましたが、やがて三 都の飲食店などでも用いるようになります。飲食店では箸筒に立てて店に出しました。のち に割り箸にかわるようになります。『守貞護稿』の鰻飯のところに、次のように割り箸のこ とが記されています。
「必ラズ引裂箸ヲ添ル也此箸文政以来比ョリ三都トモニ始メ用フ杉ノ角箸半ヲ割リタル食 スルニ臨デ裂分テ用レ之是再用セズ浄キヲ註ス也然レドモ此箸亦箸所二返シ丸箸二削ルト 云也鰻飯ノミニ非ズ三都諸食店往々用レ之却テ名アル貨食店二ハ用ヒズ是元ヨリ浄キガ故 也」
現在の割り箸は、殆どが奈良県吉野郡下市町で作られる吉野杉のものです。これは明治十 年に樽製造の際に出る余材の木皮丸を使って初めて作られました。江戸時代には現在のよう な割り箸は奉されておらず、中太両細の両口箸で、製造量も少なかったそうです。
(出典•職人本『人倫訓蒙図彙』元禄三年 蒔絵師源三郎画)
位牌師
位牌は死者の霊を祀るために故人の名を記した板で、儒教、神道、仏教ともにこれを用いています。儒教では神主、位板、主牌と呼び、神道では霊代、神牌、神版といい、仏教では 位牌、霊牌と呼ばれています。牌は籍の義ですから、位牌とは故人の官位、姓名を記したものという意味です。
位牌の形は、初期のものは唯一枚の木片に過ぎませんでしたが、後世には蓮台屋根型など をつけるようになり、漆塗りのものなども出来ました。
絵は位牌師が位牌を作っているところで、 絵の棚上左から三番目の位牌が蓮台屋根型です。
なお貧家では、 紙や薄板に法名を書いて位牌にしました。
(出典•番付『諸職人絵番付」年代不明 筆者不明)