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   老いて後に「禅を知る」

 この記事は2017.10.21~2017.11.7にかけて3回掲載したものをまとめた話の市。付録として「現成公案まとめ」も収録した。

1.禅とは何か
 最初に「禅とは何か」という問いに答える。ここでは禅の研究者二人の言葉を借りて説明する。
 鈴木大拙氏は「禅は心の全部である」と記しているが、これでは十分な理解は得られない。もう少し踏み込んで読むと「禅のうちには知的要素があるとも言えるが、知的分析の方法によっては何ら我々に教えるところはないとし、続けて「それは皆人々自身の心から出るものであって、禅は単に道を示すに過ぎない」としている。
 その言葉を裏付けるように「禅は哲学でも宗教でもない。禅の本質は洞察によって心の本性に達し、心そのものを見出し、自ら心の主となるところにある。禅を修行するということは、実在の理由を達観するために人の心眼を開くところにある」と述べている。我々凡人が心眼を開くことなどできるのだろうか。
 この問いには「禅は日常生活そのものの事実を認めることによって最も平凡な、そして最も平穏な、普通人の生活裡に現れているからである。更に加えて、禅は文字も、言葉も、また経典をも用いない。ただ直截に真そのものの核心を掴み、以てそこに安住の地を求めることを勧める」としている。
 「文字も、言葉も、また経典をも用いない」と言われると、禅を知ろうと文献を漁り、その思想を理解しようと努める者には、何か突き放された気分になってしまう。禅は「只管打坐」心を空にしてひたすら坐禅を組むことたど、後に出てくるが、「悟り」を求めるのではなく、その過程で何を学べばよいかという「問い」には答えてくれない。俗人である私には特に「直截に真そのものの核心を掴み、・・」という状態に達する自信は全くない。
 これらのことを踏まえ、次回は頼住光子氏の「道元の思想」をもとに、更に探求していくことにする。(2017.10.21)

2.道元禅 
 そこで一歩進めて「道元の思想」をもとに、禅の深奥に迫ろうという試みをすることにする。
 前項で紹介したように頼住光子氏の研究を参考にさせていただいて、論を進めることとしたい。
 ここでは禅の中でも「道元禅」に絞って「禅とは何か」という問いに答えていくことになる。
 仏教においては無常という言葉がよく使われる。この無常というのはどのような状態なのかについて、頼住氏は「この世の一切のものは生まれ出れば、止まることなく移り変わり、永遠に不変なものではないということである」
 ここで古文の中に記載された無常についていくつか紹介する。先ず『平家物語』の記述では「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」。
次に兼好法師(吉田兼好)の『徒然草』「序段.つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」。
 そして、鴨長明の『方丈記』「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」。
 これらの文学は「万物は留まることなく移りゆくという、仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされている」。
 このように無常観とは何かに執着して、それを固定的に捉えることを否定している。自己も対象もすべて移り変わり行くものであるから、一つ事に執着することは徒に人の苦しさ増すばかりである。「老病死」という事実が示すように、その同一性とはそもそも成立不可能なものであると仏教では捉えている。
仏教から見た世俗世界は、本来成立するはずのないものを、あたかも成立するかのように前提にして成り立っている。これを別の言葉で表現するなら「世俗世界では老病死は継続した時間の中で進行している」ということになる。
例示したように仏教的な無常観に共通する思想は『空』に代表される。ここで「空」と「無」の違いとはどこで見分けるかと考える人は多いと思う。そこでネットで調べると次のような説明に出合ったので紹介する。
 「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)という言葉。宋代随一の詩人でありすぐれた禅者でもあった蘇東坡の言葉。これは空の教えを説いている。無一物とは何も存在しないということだが、何ものにも執着しない境地に達することができると、大いなる世界が開けるという趣旨の言葉がある。
ここで「無」と「空」の違いについて簡単に説明すると、たとえば水の入っていない 空(から)のコップがあるとする。この場合、「コップは空」だ。でも、「コップは無(む)」とはいえない。
コップが空(から)ということと、コップが無(な)いということとは別のこと。「無」と「空」の違いはこれで明らかであろう。 (エンサイクロペディア空海より)」
 次回は「空」の思想について、さらに詳しく考察する。(2017.10.30)

3.空とは何か  
 引き続き「空」とは何かについて、石飛道子氏の説によれば、「空」は理論か論理かという命題について、論理とは「ものの見方」のことである。そして理論というのは、「ものの見方」を用いて作られる具体的な思想や哲学のことと考えられる。「空」という言葉の意味は「中身は空っぽ」ということである。この「中身は空っぽ」を貫く姿勢が「空」の論理ということになる。
 ここで再び頼住光子氏の説に戻すと、「空」論理は仏教の「無常説」をさらに深化したものといえる。無常説は人間誰しも直面せざるを得ない死や老い、別離といった現象から出発し、人間のみならず全世界の全事物事象が無常であるという理にまで高められたものであった。そのことを踏まえてさらに、ではなぜ全事物事象が無常であるかという問いから出発するのが「空」の見方なのである。「空」とは「中身は空っぽ」すなわち「無自性」である。仏教の根本教説(大乗仏教)は、一切が「空」であるという所にある。
 それ故日本の文化的伝統においては、世の中の虚しさ、人生のはかなさを教えるものと受け取られた。そこでは厭世的孤独感、生存の不安感、虚無的気分という意味においてニヒリズム的な色彩を帯びていると言うことができる。しかし、それは一面ではあるが、本筋は「仏教の無常観や「空」の論理は、あくまでも世界の実相についての冷徹な認識である」としている。
 同氏はこの文節のまとめにおいて、次のように語っている「仏教の無常観は、われわれ現代人の心の奥底に巣食うニヒリズムに対して、何らかの示唆を与えることも可能なのではないか。われわれが道元そして仏教の世界認識として期待できるのは、まさにこの点ではないかと考える」
 印度発祥の原始的大乗仏教においては、「空」は全否定の意味を持つということは前述の通りである。
宋の時代の中国からそれを持ちかえった道元は、「空」の論理をその「正法眼蔵」の中でどのように解明していくのだろうか。以降その第一巻の「現成公案」で読み解いていくこととする。(2017.11.7)

(付録)

『現成公案』まとめ


 この巻「現成公案」の奥書 には、《これは 天福元年中秋のころ、かきて鎮西の俗弟子楊光 秀にあたふ》とある。天福元年(1233)8月15夜のころ、鎮西(太宰府)にいる在家信者のために書いたものだという。そして道元はこの巻を自分が構想する『正法眼蔵』全百巻の第一巻とするしている。現存する九十五巻のうち在家信者向けに書かれたのは、この一巻だけでそれ以外は出家信者向けに書かれていることも、道元の思想を知る上で最も意義のある文節である。第一巻こそ道元研究者にとって避けて通れない「巻頭言」とでも言える存在である。
 ここで『現成公案』の言葉の意味を再確認することにする。
 " 現成"という語は「いま目の前に現われ、成っている存在」といった意味である。思うに、現われるといえば「消滅する」と対になり、「成る」といえば「壊れる」と対になる。
 "公案"とは「真理のこと」で元は政府の公文書という意味があり、これは憲法のようにやたらに文字を変えたり、動かすことができない文書で、古人がいろいろと工夫して、作ったルールのようなものを集めたのが古則公案(661則)である。ここで道元が古則に変えて"現成"としたのは「人の目の前にあらわれ、成立しているものはすべて動かすことのできない真理、仏法の悟りである」との解釈を示している。古則公案が限られた数に縛られているのを、道元が解放したところに意義がある。ルールなき新ルールを編み出したもので、道元によれば、「世界はいまあるがまま、そのままの存在である。自ら世界をあるがままに認識できたとき、それがすなわち悟りである」としており、道が示されているようであり、突き放されているようでもあって、指針(古則公案)に従って行動する方が如何に容易いかというように感ずる難題に直面することになる。
以下原文に沿って解釈していくことにする。

要約『現成公案』その1
原文
 「諸法の仏法なる時節。すなわち迷悟あり、修行あり、生(しょう)あり、死あり、諸仏あり、衆生(しゅじょう)あり。
 万法(まんぽう)ともにわれにあらざる時期、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹(ほうけん)より跳出(ちょうしゅつ)せるゆゑに、生滅(しょうめつ)あり、迷悟あり、生仏(しょうぶつ)あり。
 しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)おふるのみなり」第一文「諸法の仏法なる時節。すなわち迷悟あり、修行あり、生(しょう)あり、死あり、諸仏あり、衆生(しゅじょう)あり。
 万法(まんぽう)ともにわれにあらざる時期、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹(ほうけん)より跳出(ちょうしゅつ)せるゆゑに、生滅(しょうめつ)あり、迷悟あり、生仏(しょうぶつ)あり。
 しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)おふるのみなり」
要約

 冒頭部分の「諸法」というのは、この世界に存在しているもののことで「あらゆるものごと」という意味の言葉である。 次の「仏法」は仏道修行の行われる舞台としての世界を意味しており「ありのまま」ということである。この二つを結びつけると「諸法の仏性なる時節」は「あらゆるものごとのありのままの姿に目覚めた時」と解釈できる。
 続く「すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」は、「脱すべきものとしての迷いと目指すべきものとしての悟り」という分かれ目があって、さらに「迷いを悟りへと転換するための」修行がある。「衆生の現実として」生と死があり、「修行し開悟成道したもろもろの」仏があり、「それを目指す」衆生がある。
 次の段落は最初の段落『諸法』に対し『万法』、『仏法なる時節(A)』 に対し『われにあらざる時節(B)』 とあるようにそれぞれが対となっている。
 「万法ともにわれにあらざる」とは「無我」であるという意味である。この『無我』とは、自己の内に何か変わらない本質=我という煩悩から解放され「さとり」を成就しているということである。この文脈をたどると「総べてのものごとを、"無我の立場"から見る時、迷いもなく、悟りもなく、解脱した人(諸仏)もなく、解脱しない人(衆生)もなく、生もなく、死もないと」ということになる。
無我の立場"で世界を見ると、客観性や対象性という概念は存在しない。第二者も第三者も存在しない。あるのは第一人称の主体(絶対主体性)のみである。
道元は「第一段階として『まよい(迷)』 とは対立的なものとして『さとり(悟)』を立ててその『さとり』 を外部にある目的としてとりあえず目指した上で、第二段階として、その目指したものは実は、本来的基盤に他ならないと自覚するというものである(これを修証一等という)。この論によれば、修行の目的として『さとり』は、実は修行の基盤であったという循環構造に根差している。
 この第二段階を表現している分節が第二段落(B)である。ここでは第一段落(A)の叙述とは反対に、あらゆる分節の無化が語られる。こうした堂々巡りを繰り返すという構造の中で『迷』と『悟』という二元的分節も無化されるのである」と説明している。
だ3段落は「もともと仏道は豊かな立場も、貧しい立場をも超越し捉われないものであるから、生死を解脱したところに生死があり、迷悟を解脱したところに迷悟があり、解脱のあるなしを問題としないところに解脱があるのである」と解釈される。
 そして第一文の最終段落で「そうであるとはいっても,綺麗な花が風に散ればああ!惜しいと感じるし、雑草が生い茂れれば嫌だと感じるのが自然な感情だ」
 道元はこのくだりで「花を愛で草を除いて庭を整えるという、人間の情の中でおのずと湧いてくる好悪を一方的に否定はしない。しかし、それは特定な情であり、違う状況で起きる情は違った見方が出ると理解すべきだと言っている」と説明している。
注解(増谷文雄)
 諸法 法は「ダルマ」の訳語。それを仏教者は多様な意義をもって用いる。それを大別していえば一には、存在そのもの、二には、存在の法則、三には、存在の法則にもとづいて説かれた教えの三つがある。いま諸法というときには、その第一のそれであって、「もろもろの存在」というほどの意である。
 万法 前項参照。この法もまた存在そのものである。一切の存在というほどの意。
 豊倹 豊はゆたか。儉は貧しい。貧富・貴賤・知恵などの意、この世の常なる基準を指す言葉であると知らされる。したがって、「豊倹より跳出」するとは、世間の常軌を超えることに他ならぬ。

要約『現成公案』その2
〔原文〕
 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。
 さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
 身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあら 、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。
(要約)

 悟りと迷いは相対的関係にあり、道元は「自らが悟りの方向に近づけようとすることは迷いである。悟りの方から自分を目覚めさせてくれるのが悟りである。悟った人間は迷いの中にあって確り大悟できる。凡夫は悟りの中でにあって迷っている」とし、これに加えて「悟りの中でさらに悟りを深める者、迷いの中でさらに迷いを深める者がいる。悟った人間が真に悟った時は、自分は悟ったと人間だという自覚などはないものだ」と述べている。
 続いて「そうではあるが、悟りを開いて仏になったのであり、仏が悟りを保持しているのである」
 そして第2文の最終段落で主体と客体が分かれて分かれている状態においては「われわれが全身全霊をもって物を見、全身全霊をもって声を聴こうとすれば、いくら確りと認識しようとしても、鏡に影が映るようにはいかないし、水に月が映るようにはいかない。この状態では主体と客体が分かれているので、主体が明らかになれば客体がぼやけるし、客体が明らかになれば主体がぼやける」としている。
注解(増谷文雄)
 続いて、道元はここに。迷いを語り、また悟りを語って、万古の響くほどの名言を残している。
 修証 修はおさめる、証はさとる。修行と証悟である。ただし、修と証の関係については、道元は、いささか世の常の仏教者をぬきん出た卓抜の見解を有し、修のほかに証なしとする。よって修証の二字は、修と証の二事を語っているのではなく、まさに修証一枚の境を指さしているものと知らねばならぬ。
 色 もと「形あるもの」一の意であって、眼識によってそれと認識することのできる物的 存在(色法という)ということばである。現代の用語をもってするならば、「物質」ではなくて、「物象」または「現象」が適当である。

要約『現成公案』その3
原文
 「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法(ばんぽう)に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心(しんじん)および他己(たこ)の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり。悟迹(ごしやく)の休歇(きうけつ:きゅうかつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出(ちょうちょうしゅつ)ならしむ。
 人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際(へんざい)を離却(りきゃく:りきゃ)せり。法すでにおのれに正伝(しょうでん)するとき、すみやかに本文人(ほんぶんにん:ほんぶんじん)なり。
 人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、岸のうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすゝむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辦肯(はんけん:べんこう)するには、自心自性(じしんじしょう)は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰(き)すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし」
要約

 仏の道を学ぶということは、自己を明らかにしていくということである。自己を明らかにするということは、自己を忘れることである。自己を忘れるというのは、悟りの世界に目覚めさせられることである。悟りの世界に目覚めさせられるということは、自己および他己(他なる自己。すなわち自己のうちにある他人)を脱落させることである。「脱落」という言葉は読んで字のごとく「抜け落ちる」という意味で、あらゆる実体化された特定なものからの解放といった境地をいう。悟りにいたったならば、そこでしばらく休むとよい。だが、やがてまたそこを大きく脱け出ていかなければならない。
 人がはじめて仏法を求めるとき、その人は仏法から逡かに遠く離れている。だが、仏法がその人に正しく伝わった瞬間、たちまち本来の姿の人となる。
 人が舟に秉って行くとき、目を動かして岸のほうを見れば、岸が動いているかのように錯覚する。だが、目をしっかりと舟につけると、舟が進むのが分かる。それと同じく、わが身心をあれこれと思いめぐらして、よろずのことどもを解釈しようとする時には、わが心、わが本性は変わらぬものかと思い誤る。もし「目」をその居場所である「舟」にしっかり置くことは、「行李」という日常生活のあり方を、万物それぞれのあるべきところである「固裏」に落ち着かせるまでに到れば、よろずのことの我にあらぬ道理が明らかになる。
注解(増谷文雄)
 ここでは、仏道の修証と自己のありようの変化について語っている。
 他己 自己に対することばであるが、また、真の自己というものは、この箇体の身心だけで成っているものではなく、むしろ、他とのさまざまの関わりのなかに成立しているのである。そこには、他における自己ともいうべきものがあろう。かくて、自己の身心の脱落のみならず、また他己の身心なるものの脱落が語られねばならないのである。
 悟迹 迹はあと、悟りのあとである。
 休歇 休みはやむ。歇はやむ。
 長長出 ぐんと抜け出るの意。
 本分人 自己の本来の面目に出合える人の意。
 弁肯 弁はわきまえる。肯はがえんずる。思弁首肯である。ただし、上に「乱想して」とあるから、「思い誤る」となる。
 行李 行履(あんり)である。仏祖たちの踏みきった跡という意。道元はよく、おのれの計らいをすてて、ただ仏祖の行履を踏むがよいと語っている。

要約『現成公案』その4
原文
 「たき木はい(ひ)となる、さらにかへりて、たき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪(たきぎ)はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位(ほふゐ)に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はい(ひ)となりぬるのち、さらに薪とならざるごとく、人のしぬるのち、さらに生(しやう)とならず。しかあるを、生(しやう)の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆへ(ゑ)に不生(ふしやう)といふ。死の生(しやう)にならざる、法輪(ほふりん)のさだまれる仏転(ぶつてん)なり。このゆへに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり」
要約

 ここでも道元独特の論法で薪と灰、生と死という対比を時間軸の変化の中で論じている。
 「薪は燃えて灰となるが、もう一度元に戻って薪になることはできない(当然の摂理を述べている)。灰は薪が燃えたのちの姿、薪は灰になる前の姿と見るべきではなかろう(て灰が後、すなわち未来であり、薪が先、すな わち過去であると理解してはいけないとする。薪が時間軸の流れにおいて先にあり灰が後にあるとする 理解を否定している)。
 薪は薪としてのあり方において、先があり後がある。前後があるといっても、その前後は断ち切れている(薪は薪として独立していて、灰と同じ時間軸にないことを示している)。灰は灰のあり方において後があり先がある。薪が灰となったのち、再び薪とならないのと同様に、人は死せるのち、もう一度生きることはできない(その一刹那において過去があり未来があると説いている。その考え方を生と死に援用している)。
 だからして、生が死になるといわないのが、仏法の定まれる習いである。このゆえに不生という。死が生になると言わないのが仏教の表現である。それ故に不生不滅と言う。生は一時のあり方であり、死も一時のあり方である。たとえば、冬と春とのごとくである。冬が春となるとは思わず、春が夏となるともいわないのである(これを四季にあてはめると、冬は冬であり、春は春である。冬における一刹那の中に未来としての春 はあるが冬が経過して春になるのではなく、時間軸においては冬と春は切断され、冬は独立した一刹那 における認識として過去と未来を持ち、春は独立して独自に過去と未来をもつということになる)。
注解(増谷文雄)
 ここに道元は、仏教に言うところの不生・不滅の考え方を説く。悟前・悟後の自己のありようの考え方に資するのであろう。
 法位 物のありようという意。ここの法は存在そのもののこと。「薪の法位」という所以である。
 法輪のさだまれる仏転 法輪とは説法をいう。その法は教法を意味する。仏が教法を人間界に説き弘めるさまを、車がその輪を転じてゆくに喩えるのである。かくて、「仏転法輪」(仏が法輪を転ずる)の句が成り、それを駆使して「法輪のさだまれる仏転」といったのである。仏転法輪のさだまれるところという意。

要約『現成公案』その5
原文
 「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天(みてん)も、くさの露にもやどり、一滴(いつてい)の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙(けいげ)せざること、滴露(てきろ)の天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水(だいすいしょうすい)を撿点し、天月の広狭(こうきょう)を辦取(べんしゅ)すべし。
 身心に法いまだ参飽(さんぽう)せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでゝ四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿(ぐうでん)のごとし、瓔珞(えいらく)のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法(まんぽう)もまたしかあり。塵中格外(じんちゅうかくがい)おほく様子を帯せりといへども、参学眼力(さんがくげんりき)のおよぶばかりを見取会取(えしゅ)するなり。万法の家風をきかんには、方円(ほうえん)とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず。直下も一滴(てい)もしかあるとしるべし」
要約

 「人が悟りを得るのは、水に月が映るのと同じ。月は濡れないし、水は揺るがない。月はどんなに広く大きな光であっても、一尺、一寸といった小さな水に映り、月の全体、天空の全体が草の露にも映り、一滴の水にも映る。もし人が悟りを得たとしても、月が水に孔をあけないのと同じである。人が悟りを濁らせることがないのは、一滴の水が天の月を変化させないのと同じである。悟りの深さは天上の月の高さに相当する。その時間の長い短いは、水の分量の大小と天上の月の広狭を考えると分かるであろう。すなわち、大きな満月であれば長時間天空にあり、三日月であれば短時間しか天空にない。それ故、露に映る時間も短い。
 真理を究めるには弁道修行が必要であるが、真理に目覚めていない凡人に限って、既に究めつくしていると思う一方、真理を充分に究めた人はそ れでもまだ究め足りないと思うものである。たとえば、船に秉って山影も見えぬ大海原の真ん中に出て四方を見れば、海はただ円く見えるのみで、そのほかにいかなる形も見えない。しかしながら、海は円いわけでもなく四角なわけでもなく、さまざまな姿・形があるのである。魚が見れば海は宮殿のようであり、天人が見れば貴金属の装具のように見える。それと同じで、その人は自分の目が及ぶ範囲で、しぱらくのあいだ海を円く見ているのだ。このように森羅万象も同じである。世間、出世間(俗世と離れた世界)とも様々な様相があるはずであるが、人は眼の届く範囲でしか判断できないのである。世界の真理を究めようと 思うなら、丸だとか四角だとかに見える以外に様々な様相が限り無く拡がっているということを知るべ きである。自分の身の周りの様相だけで判断するのではなく、自分自身についても、一滴の水といった微細な世界についても、そうであると知らねばならぬ」
注解(増谷文雄)
 「ここで、道元は、人が悟りを得るという、そのことはいかにしてなるかを語ろうとする。先に不生・不滅といった。それもそのことに他ならないが、ここでは、それを水にやどる月のごとし」と説くのである。
 弥天 弥はあまねし。全天というほどの意。
 罣礙 罣はひっかかる。礙はさまたげる。障碍をなすという意。
 時節の長短は・・辦取 すべし(水野) 時間の長短は、これを、水の大小とはなんのことか、露に宿る天の月は広いのか狭いのかを点検・弁別会得することによて確かめよ。長短不可弁の意を寓している。前の「深きことは云々」も高低と深浅との別に固執することをしりぞける言葉。「ここでは、悟りの境地を語るに、大海の風景をもって説いているが、それは、道元自身の渡宋の時の体験でもあろうかと思われる」
 参飽 腹いっぱ いになるということ。
 海徳 海のさま。徳は得であり、そのありようをいう。
 瓔珞 珠玉・金銀などを編んで作った装身具。経の説くところによれば、龍魚は水をみること、瓔珞の如しとなし、また宮殿の如しという。いま、海をそのようにみるものもあるというのである。
 塵中格外 塵中とは、この世の俗なるありようの中にあること。格外とは、その枠の外、すなわち出世間(しゅっせけん)のありようをいう 。
 方円 方は四角。円は丸い。

要約『現成公案』その6
原文
 「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれどもうをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大(ようだい)のときは使大(しだい)なり。要小(えうせう)のときは使小(しせう)なり。かくのごとくして、頭々(てうてう)に辺際(へんざい)をつくさずといふ事なく、処々に踏飜(たふほん)せずといふことなしといへども、鳥(とり)もしそらをいづればたちまちに死す、魚(うを)もし水をいづればたちまちに死す。以水為命(いすいゐめい)しりぬべし、以空為命(いくうゐめい)しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩。修証(しゆしよう)あり、その寿者命者(じゆしやみやうしや)あることかくのごとし。
 しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかむと擬する鳥魚あらむは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李(あんり)したがひて現成公案(げんじやうこうあん)す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆへ(ゑ)にかくのごとくあるなり。
 しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法、通一法なり、遇 一行、修一行なり。これにところあり、みち通達(つうだつ)せるによりて、しらるゝきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽(きゅうじん)と同生(どうしょう)し、同参するゆゑにしかあるなり。得処(とくしょ)かならず自己の知見となりて、慮知(りょち)にしられんずるとならふことなかれ。証究(しょうきゅう)すみやかに現成すといへども、密有(みつう)かならずしも現成にあらず、見成(けんじょう)これ何必(かひつ)なり」
要約

 「魚は水の中を泳いでいるが、いくら泳いでも水が尽きることはない。鳥は空を飛ぶが、いくら飛んでも空が果てることはない。だが、魚も鳥も、いまだかつて魚は水を離れないし、鳥は空を離れることはない。水や空は、大きな分量が必要なときは大きな分量が使われる。小さな分量が必要とされるときは小さな分量が使われる。このようにして、それぞれに即したその境涯を使い尽くさないことはなく、処処に飛び回らないことはないけれども、かりに鳥が空の外に出るとたちまちに死んでしまい、もし魚が水を出ればたちまちに死んでしまう。それ故、魚は水をもって命とし、鳥は空をもって命とすと知るべきだ。そしてそうだとすると、空は鳥をもって命としているのであり、水は魚をもって命としている。さらには、空は命をもって鳥とし、水は命をもって魚としていると知るべきである(ここで道元が説いているのは「修(修行)」と「証(悟り)」とは組み合った概念『修証一等』であり、証を離れた修と、修を離れた証もありえない。この二つは表裏の関係をなし、互いに他を支え合っている「春日祐芳」)。そのほか、さらにいろいろと言えようが、われらの修証といい、寿命というのもまたこのようなものなのである。
 それなのに、水を究め尽くしてから水を行かんとする魚があり、空を究め尽くしてから、空を行こうと考える鳥があれば、彼らは水にも空にも道を得ることができず、処を得ることはできまい。われわれがこの処さえしっかりと確保すれば、その行くところにしたがって、日常生活のうちに悟りの世界が実現する。こうした生きる場所とは、大きなものでもなく小さなものでもなく、主客と言ったものでもなく、過去より存続していたものでもなく、目の前に現れるものではないことから、(真理の現れとは)まさにあるがままにあるものだ。得た知というものが必ず自己の知見となって、自分に認識されるものだと考えてはならない。
 究極の悟りは修行によって速やかに体験されるけれども、有と無に分かれる以前の自己が体験されるとは限らない。そもそもそのような体験が必要か否か。必要はないだろう。
<注解>(増谷文雄)
さらに、道元は、水をゆく魚、空を飛ぶ鳥を喩えとして、悟りをもとめる者の修証の心得を語る。そこにもまた、まことに心に銘ずべき又字が連なっている。
 頭頭 それぞれにというところである。
 踏飜 踏はふむ、足をもって地を踏むのである。飜はひるがえる、翼をもって空を飛ぶのである。
 以水為命、以空馬命 そこには魚と水と命につき、また、目と空と命につき、その主客を転置した命題が。それぞれに三度試みられている。道元には、そのような叙述がいたるところに試みられている。思うに、すべては縁起、すなわち関係性のなかに生きかつ滅する。いま道元は、その関係のありようを、さまざまに転置して考えることにより、常識の硬直的な考え方を超えた考え方をしようとしているといってよいであろう。
 現成公案 開題を参照されたい。ただし。ここでは、それが動詞として用いられている。さとりを実現するとか、さとりが形成されるということである。
 しる しるし(著し)である。明白であるとか、際立っているとかいうことぱである。
 密有 密には、精密の意と内容の意の両方の意味がある。ここでは、内証すなわちわが証し得たる内なる所有というほどの意であろう。
 見成 ここに現成と県成とが、同じ一節のなかにみえておる。よく似たニュアンスのことばであるが、けっして同じことぱではない。現成とは、すでに開題において説明したように、まさしく直観の成立について用いられることばである。だが、直観によって与えられたものは。なお漠として明白に整えられてはいない、「密有かならずしも見成にあらず」というはそのことである。それか明白にせられて、目のあたりに見るかごとくに整えられるとき、それが見成によって語られているのである。それは恐らく悟性のはたらきが加わってかくなるのであろうが、さとりとしては、それは必須の条吽ではない。それか「見成これ何必なり」という所以である。そこまで明白に思索をこらしていたとは、まさに恐るぺき道元の頭脳であると思う次第である。
何必 なんぞ必ずしも必要ならんや、というほどの意である。

 これまで「現成公案」を通じて道元の思想に重きを置いて解説してきた。それでも語句の対比については、その解釈に多くの疑問点も残る。
そこで、締めくくりとして「道元二元論考究」と題して、いずれの機会に執筆したいと考えている。
2018.3.1

 

 

 



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