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2022.1.1 さて今年はどうなる

 昨年を一つの漢字で表すと「金」ということに決まり、清水寺の森清範貫主の揮毫により発表された。その背景にあるのはコロナ禍の最中にあって健闘した東京オリンピック・パラリンピックでの日本人選手の活躍で多くの金を取ったことや、国際的にもMLBの大谷翔平選手が最高の栄誉であるMVPに輝いたことや賞を総なめした事がある。その他給付金や休業補償金などの政府支給のお金が話題になるなど「金」が目立ったのが主な理由である。一方でコロナは一旦沈静化の様相を見せたが、変異しオミクロン株となり、再燃の気配を見せている。今年はこの猛烈な繁殖力を持つ株との戦いから始まる。
 そこで今回は「諺シリーズ」を一旦休んで、八百万の神様の中から歳神様に御足労願い、この年の厄払いをお願いすることにした。(八百万の神<えがく>本年第一号は「歳神様」)
 歳神様は一般的表記としては歳徳神(としとくじん、とんどさん)とされ、陰陽道で、その年の福徳を司る神である。年徳、歳神、正月さまなどとも言う。
 お正月に欠かせない伝統のものとして、しめ縄や鏡餅がある。これを飾ると正月が来た気分になる。このしめ縄や鏡餅といったアイテムは、歳神様(としがみさま)を迎えるためのツールである。
日本において、歳神様(年神様)は、毎年お正月になると各家庭にやってくる神様で、お正月を各家庭で過ごし、一年の福を授けてくれるありがたい神様だ。
 まず歳神様の由来であるが、初日の出とともに現れるから。普段の歳神様は、高い山におわすという説がある。そして初日の出が昇るとともに、各家庭へあらわれる。
 そのため、歳神様の目印として、しめ飾りや門松を用意してお迎えする。しめ縄と門松は歳神様への目印となると共に、悪いものを寄せ付けない「結界」の役目もある。鏡餅は歳神様へのお供え物となり、家で過ごす間の拠り所となる。
 歳神様がお戻りになる時期は、松の内が明ける1月7日だと言われている。地域によってはお焚き上げを行う、1月15日頃に戻られるという説もある。
 歳神様がお戻りになる時期に合わせて、しめ縄などを外し、神社のお炊き上げに持ち込んで処分する。鏡餅は1月11日の鏡開きのときに食べて、神様のパワーを取り込む。
 これらのしきたりが行われ、今年一年の安寧が祈られることになる。誰にとっても今年がコロナからの呪縛が解かれることを願う。

2022.1.4お元気ですか
 今回は年賀状の添え書きを話題にしてみた。
 その1「お元気ですか。私は畑仕事を日課として楽しんでいます」先ず相手の心配をして、自分の現状を手短に書き添えるというスタイルが一番多い。
 その2「旅行がしたい。できれば外国へも」といった願望を書く。大概翌年にはそれが思い出として記されている。旅行などは元気なうちでないと楽しめない。親族以外の知人は皆古希を過ぎている。
 その3「今年こそは合いたいものだ」旧友からの添え書き。私は今足腰が弱っていて。こうした要望に応えるのは難しい。
 その4「お体お大事に今年もお過ごしください」これなどは親族で私が足腰の持病をよく知っているから書ける添え書き。
 その5「職場が変わりました。どこそこ」といった報告。
 その6「コロナが心配。早く普通の生活に戻りたい」現状のコロナ禍に関する痛切な願い。これなどは数年後に読み返すと、「ああそんな時代があったな」とマスクと消毒に明け暮れた日を思い起こすことになるだろう。もし生きていたらの話だが。
 その7「年老いて天命の有難さを知り 日々新たに努めを果たす」旧友からの添え書きで人生哲学を語り、生かされている今を大切にして、迷いのない生き方を受け入れるという覚悟が伝わってくる。これなどは破格の添え書きで例外の部類に入る。これに似たユーモラスな「快眠・快食・快便これで今年も頑張ろう」彼は昨年鬼籍に入り、最早このような年賀状は届くことはない。痛恨の極みだが、これもまた長寿社会とは言えいずれは受け入れなければならない運命であろう。
 大体このようなパターンで、添え書きを見てきたが、まだ色々な添え書きもあるだろう。いずれにせよたった一筆添え書きがあると無いとでは、語りかける声が伝わり印刷だけで終わる年賀状とは全然違う。そのために年賀状には書き込みの余白を作っておこう。
次回に続く。

2022.1.7七草がゆと鏡開き
 新しい年を迎えても私は引き籠っている。外に出たのは郵便ポストに遅れた年賀状を投函に出かけた1回だけだ。 
 うちに居るので楽しみは食うだけ。流石におせち料理にも飽きた頃に、七草がゆのおかゆを食べると気分が一新する。七草と言っても伝統的な野菜ではなく、手直に手に入る野菜を使った粥である。
 正しくは子どもの頃から歌にして覚えた。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが春の七草。これを刻む時に歌うのが『七草なずな 唐土の鳥と 日本の鳥が 渡らぬさきに ストトン トントン』でこれは関東地方(東京)で歌われるもので、地方によって一部歌詞が違う。
七草を漢字で示すと以下のようになる。
芹(せり) 水辺の山菜で香りがよく、食欲が増進。
薺(なずな) 別称はペンペン草。
御形(ごぎょう) 別称は母子草で、草餅の元祖
繁縷(はこべら:はこべ) 目によいビタミンAが豊富で、腹痛の薬にもなった。
仏の座(ほとけのざ) 別称はコオニタビラコ。タンポポに似ていて、食物繊維が豊富。
菘(すずな)カブのこと。
蘿蔔(すずしろ)ダイコン。となる。
 次に鏡開きであるが、我が家では餅を割りそれを汁粉(田舎じるこ:関西地方ではぜんざい)にして食べる。私はこのお汁粉が一番の好物で昔は何杯もおかわりして周囲を驚かせたものだ。流石に今は一杯だが、何回かに分けて数杯食べることになる。似たような甘味に羊羹や最中があるが、これにも目がない。
 このようにして我が家の歳神様をお送りすることになるのだが、果たして今年は我が家にとってどんな年になるのやら。私個人としても年(年齢)が歳だから毎日を悔いないように送りたい。「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」毎日が良い日となるよう努めるべきだと述べているとする解釈や、さらに進んで、そもそも日々について良し悪しを考え一喜一憂することが誤りであり常に今この時が大切なのだ」という解釈もある。
 どちらにせよ、生きてる限り毎日はやって来る。だから今は「天の命ずるまま」に生きていくつもりだ。 次回は諺集に戻る。

2022.1.10 諺集に見るわが人生(48)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「鰻の寝床(うなぎのねどこ)」細長い体を持つうなぎのように長く、間口が狭く長い奥行きを持つ間取りの家のことを指すことから来ている。京都や大阪の町家に多く見られる間取りで、奥行きがあるために空間を広く感じられたり、生活動線に合わせて部屋を配置することで利便性の高い住まいとなっている。二階建て以上の建物がほとんどなかった時代だからこそ採用された方法だ。今の都会ではマッチ箱を立てたような3階建てが主流で、底面積が狭いため上に伸ばすしかなく、庭などは当然ないに等しい。その分は駐車場になっている。京都の町家には「通り庭」と呼ばれるスペースがある。細長い土地を縦に分割し、その半分を庭のようにして設計されていた。外と直接つながっているため土足で入ることができ、台所スペースや荷物の出し入れが主な用途だという。
 普通の戸建ち住宅でも空間にゆとりを与える庭が復活することはないのだろうか。屋上庭園などカッコいいと思うのだが、まあそんなゆとりなどないか。
 「鰻に梅干し」昔から、一緒に食べてはいけないと言われる「食べ合わせ」。辞書には「一緒に食べると害になるもの」とある。
「うなぎと梅干は食べ合わせが悪い」と言われてきた。実際に、この食べ合わせを避けている人も、多いようだ。
 実はこれは迷信で、梅干は胃酸を分泌させ、食欲を増進させる。そのため、高価なうなぎをたくさん食べることになる。 贅沢(ぜいたく)を戒めるために、生まれた言い伝えではないかというのが本当なところのようだ。
 この他に食べ合わせのタブーは次のようなものがある「天ぷらとスイカ」「うなぎとスイカ」「蟹と柿」「トコロテンと生卵」「田螺と蕎麦」「トマトvsきゅうり」「大根vs人参」などがある。大体が消化が悪い組み合わせである。
 私はこのような組み合わせを食べたことはない。我が家の栄養士はその辺はよく心得ているようだ。
 人にも相性というものがある。私は粗野で酒癖が悪い者は嫌いである。できるだけ近づかないようにしている。腫物には触るな。 次回に続く。

2022.1.14 諺集に見るわが人生(49)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「旨い事は二度考えよ」旨い話には、思わぬ落とし穴があるから、よく検討し慎重に行動せよという戒め。私の元にもメールで怪しい内容のものが届けられる。題名だけでこれは詐欺だと分かるので、直ぐにゴミ箱に放り込んでしまう。この手の詐欺はフッシングなどとよばれるもので、大手のクレジット会社の名前を騙り、言葉巧みにIDやパスワードを盗む手口で大きな被害が出ている。非常に巧妙でつい引っかかってしまうからである。電話でのオレオレ詐欺も似たような手法で金を引き出させる手口である。
 これらはいずれも嘘に始まる。「嘘つきは泥棒の始まり」(45号)の代表的な手口なので、ご用心、ご用心。
 「馬から落ちて落馬する」重言(じゅうげん)意味が重なっていることに気づかずに同じ意味の語を重ねていう言い方。落馬はそもそも馬から落ちる意味だから誤用である。重言は意味を強調したり語調を整えるため、あるいは理解を確実にさせるために、修辞技法として用いられる場合もある。二重表現、重複表現ともよばれる。例えば「びっくり仰天」「むやみやたら」「好き好んで」などは、意味の重複が語呂のよさをともなうことからあえて用いられる。
 日本語の重複(重言)には「頭痛が痛い・満天の星空・学校へ登校する・電車に乗車する・アメリカへ渡米・あとで後悔する」などを上げることができる。
また、重言のようで重言でないものには
歌を歌う - 「歌」と「歌う」は意味が異なる。
数を数える - 「数」と「数える」は意味が異なる。
音楽を楽しむ - 「音楽」の「楽」はこの場合「かなでる」という意味のため。
などがある。
 「馬の耳に念仏」馬の耳に念仏とは、人の意見や忠告に耳を貸そうとせず、少しも効果がないことのたとえ。馬に念仏を聞かせても、そのありがたみがわからないことから。その為、無意味なことという意味も併せもっている。「馬耳東風」ということわざが「馬の耳に念仏」のことわざの由来とされている。「馬の耳に念仏」の類義語には他にも「豚に真珠」「猫に小判」がある。
 私などは頑固者で人の意見など「馬耳東風」と聞き流し。改めるところがないから、可愛くない年寄りと言えよう。  次回に続く。

2022.1.17 諺集に見るわが人生(50)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「海千山千」世の中の経験を十分に積み、ものごとの裏面にまで通じてずるがしこいこと。また、そういうしたたか者。海に千年山に千年住みついた蛇は龍になるという言い伝えから。〈海のものとも,山のものともつかない〉など,海と山とが二項対立的,ないしは相互に融和したかたちで表現されている。私の知人でも、数多くの事業を転々として生き抜いていく人にはこうした一面が見られる。
 「有無相通ず」(うむあいつうず)あるものとないものとが、互いに融通しあって双方うまくいく。あるものとないものとを融通しあう。出典は史紀で「斉の桓公に、宰相の菅伸が商人について説明した言葉に基づく。『多少を料(はか)り、貴賤を計り、その有ずる所を以って、その無き所に易(か)え、賤に買い貴に鬻(ひさ)ぐ(商品の量が多いか少ないか、値段が高いか安いかなどを考え、自分が持っているものを持っていない物と交換し、安く買って高く売るようにする)』とある」
 私が子どもの頃(戦前)には「向こう三軒両隣」といって隣近所で物を融通し合ったり、情報を共有することが当たり前であった。今のように個人のプライバシーが優先することなど想像すらできない時代だった。風通しがよく、周囲が家族のようなもので、相互の家を自由に行き来しているという開けっ放しの世界が当たり前であった。こういう環境は大人にとってはいざ知らず、子どものには社会を知りながら育ついい環境であったように覚えている。
 「梅を望んで渇きを止む(世説新語)」中国の故事名言集にあるこの寸言は、もともとは魏の曹操の機略に由来するものである。その意味は、梅の実のすっぱさを想像して唾を出し、喉の渇きを一時しのいだという故事から、転じて代わりの物でも一時しのぎの役に立つたとえとして用いられることがある。
 日本経済が破綻して超インフレ時代でもこなければ、この諺のような事態は招来することはないだろうし、それは現在を生きている人には耐えられないことに違いない。 次回に続く。

2022.1.20 諺集に見るわが人生(51)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「烏有(うゆう)に帰す」 この言葉は、「全くなくなる」「すっかりなくなる」 という意味を持っており、特に、火災で焼けて何もかも無くなることを表す時に使われる言葉。
 その由来は史紀にある「烏有は、漢の司馬相如(しばしょうじょ)が『子虚の賦(しきょのふ)』を著し子虚(うそ)、烏有先生(存在しない先生)、無是公(こんな先生はいない)という三人の架空の人物を創作したことによることば。烏有とは「烏(いずく)んぞ有らんや」と読み烏(からす)ではない。「何かあるだろうか、いや、何もない」の意。「烏有の書」といえば、小説などの創作を意味する。
 この類語がものすごい「台無し・駄目・ふい・おじゃん・無駄・空中分解・挫折・くたびれもうけ・おしまい・わや・パンク・ぼつ・形無し・骨抜き・棒に振る・元も子もない・徒労・不毛・無くもがな・あらずもがな・無にする・無になる・無に帰する・水泡に帰する・水の泡」など。こういう言葉は使わなくするように「火の用心、火の用心」「コロナ用心、コロナ用心」
 「恨み(怨)み骨髄に徹する」これも史紀からの出典。人を恨む気持ちが非常に激しく心の奥底にまで浸透しきっているさま。「骨髄に徹する」は「心底そう思う」という意味合いの慣用的言い回し。類句に「恨み骨髄に入る(うらみこつずいにいる)」や「恨み骨髄に徹る」がある。
 最近はネット上でフィッシング詐欺が横行している。私の所にも毎日7通ほどのその手のメールが送られてくる。直ぐに削除するが面倒な話だ。実際それに引っかかってしまった人は、さぞかし「恨み骨髄に徹する」ことだろう。日常の会話の中でも、ひどい目にあった人に「それはさぞかしー・・ことでしょうね」などと同情の言葉を投げかけるシーンができる。「怨敵退散、怨敵退散(厄払いの呪文)」 次回に続く。

2022.1.24 諺集に見るわが人生(52)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「売り家と唐で書く三代目」これは江戸川柳から。「家業をおろそかにして家を売るはめになった三代目が『売り家』の札を道楽で覚えた唐様の書体(明の書風をまねた漢字の書体)で書いていると皮肉ったもの。よく代々長く続く家系には「家訓」が残されていて、一家の長たるものはそれを厳しく守るからこそ家が存続できる。要は親の教育次第ということになる。守るべきものがあるものには、自由放任の教育では兎角家の掟は守れないものだ。
 「売り言葉に買い言葉」相手の暴言に対して、こちらも負けずに同じ調子で暴言を返すこと。売る言葉に買う言葉」 ともいう。双方が感情的になると話は収まらない。
 職場などでもよく見かけるシーン。相手が感情的になるとこちらが冷静を保つのは難しい。議会など見ていると質問する側が挑発的言辞を弄することが多いが、回答する側はそれを受け流す度量の広さが求められる。「やり返す」と足元をすくわれる。相手の一本勝ちになる。
 「瓜に爪あり爪に爪なし」「瓜」という字には爪(_、)があり、「爪」という字には爪がないの意味で、瓜と爪の字画のちがいを教えることばの一つ。
 類語で、片仮名のトの字に棒の引きようで上になったり下になったり/戌(いぬ)に棒あり戊(ぼ)に棒なし。
 漢字の形が似ている代表例として「未」と「末」が上げられる。これらの字は上の横棒が短いか下の横棒が短いか、たったこれだけの違い。こうした書き間違えを誘う文字は結構多いものだ。
 「瓜の蔓に茄子(なすび)はならぬ」瓜とは、キュウリ・スイカなどのウリ科の植物のこと。 茄子はウリ科ではないが、形は瓜に似ている。 しかし、瓜のツルには瓜しか実らないのであって、形が似ている茄子でも瓜のツルに実ることはないことから、平凡な親から非凡な子は生まれないことの喩。また、原因のないところに結果は生じないということの喩。 (類義)蛙の子は蛙/燕雀鳳を生まず(えんじゃくほうをうまず)/狐の子は面白(つらじろ)/この親にしてこの子あり/鳶の子は鷹にならず/など。
 (対義)として、鳶が鷹を生む/百舌が鷹を生む/など。私なども「瓜の蔓から瓜しかならない」の口である。 次回に続く。

2022.1.27 諺集に見るわが人生(53)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「瓜二つ」顔もかたちもそっくりでよく似ていることのたとえ。瓜を縦に二つに割ると、二つとも同じ形をしていることから。私の世代で直ぐ思い浮かぶのが今は亡きザピーナッツ。発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上に達する昭和を代表する日本の双子の元女性歌手(デュオ)、女優であった。
 次の瓜二つはおすぎとピーコ。兄のピーコはファッション評論家。弟のおすぎは映画評論家でともにタレントである。どうでもいいことだが、この二人私の高校の後輩になる。世代が違うので接点はないが。
 スポーツの分野では荻原 健司と次晴。二人ともノルディック複合元選手・1998年長野オリンピック日本代表。兄はで元参議院議員。現役時代は「キング・オブ・スキー」の異名を取る。弟はノルディック複合元選手・1998年長野オリンピック日本代表で、現在はタレント・スポーツコメンテーター等で活動中。紹介した3組の瓜二つはいずれも一卵性双生児である。
 「憂え身に及びて後憂うるも及ばず」私には初めて知る諺。出典は淮南子(前漢に成立した各思想についてまとめられた書物)で、災難が起こってから心配をしても遅く、事前に予防しなければだめだということ「患(うれえ)身に及びて、然る後に之を憂うるは、六驥(りくき)もて之を追うとも、及ぶこと能わざるなり」とある。
 今回のコロナ騒動は収拾がつかないところまで広がっているが、マスクを着用して3密を避けるなどの対策を取ると従来通りの対策しかないようだ。尾身茂会長は「オミクロン株の特徴に合った、ふさわしい戦略というよりも戦術です。マスクの着用が不十分なまま、声を出したり、会話をしたり。これが思っているより、はるかに多いということが疫学調査で分かっています」と飛沫感染への警戒を促している。
 私などは毎月一回薬を貰うのに医者通いしているが、このコロナ禍では医者通いもビビってしまう。 次回に続く。

2022.1.31 諺集に見るわが人生(54)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「あ行」の「う」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「噂をすれば影が差す」その場にいない人の噂をしていると、なんの偶然か噂の本人がひょっこり現れることがある。人の噂や悪口はほどほどにするべきだという戒めの意も含む。
「噂をすれば影」「言えば影がさす」ともいう。
 (類義)噂を言えば筵(むしろ)敷け。謗(そし)れば影さす。謗り者門(かど)に立つ。虎を談ずれば人至る
 日常会話においては「噂をすれば」のみが使われていることが多い言葉。
 多人数の会合の席でまだ登場していない人の噂をしているとひょっこり当人が現れるなどというのは、どちらかというと約束したことだから当たり前。もっと偶然性の高い巡り合わせ「ドッキリ」のような現象なのかも知れない。
 「上前を撥ねる(うわまえをはねる)」他人に取り次ぐ賃金や代金の一部を自分のものとすること。特に、相手に無断でかすめ取ることをいう。
 上前とは江戸時代の年貢米通の通行税にあたる上米の変化した語。この諺には違法な取引でのピンハネや場所代と称するみかじめ料などが思い浮かぶ。他方、正業でも紹介料のようなマージンを取ることは一種のピンハネと言えなくはない。上前はあぶく銭だからろくな使い方はされず、遊興や賭け事に消えていく運命を辿る。賄賂の原資などもこんな所にあるのだろう。
 「雲煙過眼(うんえんかがん)」響きのいい四字熟語である。《蘇軾「宝絵堂記」(そしょくほうかいどうき)から》雲や煙がたちまち過ぎ去ってしまうように、物事を長く心に留めないこと。物事に執着しないこと。物事に淡白なこと。年を重ねると物覚えが悪くなり、疑似的ではあるが何事にも淡白になるものだ。
 「雲霓の望み(うんげいののぞみ)」これもあまり聞かないが「「孟子‐梁恵王・下」の「民望レ之若三大旱之望二雲霓一也」から(民之を望むこと、大旱(だいかん:大日照り)の、雲霓を望むが如し」大日照りに、雨が降って、虹(にじ)の出るのを待ち望む気持。切実な希望のたとえ。特に名君の出現を待望すること。
 現時点のようにコロナがその勢いを失わずに国民が疲弊している時こそ総理大臣はこの諺のような名君に変身してほしい。 次回に続く。