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2022.7.3 諺集に見るわが人生(99)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「河童の屁(かっぱのへ)」取るに足りないことのたとえ。へのかっぱ。河童は屁を水中でするので勢いがないからともいう。屁の河童(へのかっぱ)ともいう。
(類語)朝飯前/お茶の子さいさい/お茶の子/朝駆けの駄賃/へっちゃら/など多数。
 私は屁の河童をよく使う。類語のもあるようにそういった状況にはよく出会うからである。
 「勝も負けるも時の運」勝ち負けは、その時々の運によるもので、実力だけで決まるものではないということ。多く、勝負に負けた人への慰めの言葉として使われる。「負けるも勝つも時の運」「勝負は時の運」ともいう。私は麻雀が好きで、パソコンでAI麻雀をよくするが、負けないように打つことはできるが、トップをとるのは時の運である。宝くじもしかり。
 「我田引水」(がでんいんすい)「自分にとって都合の良いように振舞う」 という意味。 他人の利益や周囲の心情、または都合を無視して、自分だけが良ければ良いという思考で振舞う。 稲作の命である水は、本来近隣の皆で分け合うものだが、自分の田んぼにばかり水を引き込もうとする者を例えたのが由来である。
 そういう人がいないに越したことはないが、有事(戦争など)には生活物質が不足する。そうなると人々は少ない物資を求め本性むき出しに奪い合いをする光景がトラウマになって思い出される。 
 「鼎の軽重を問う(かなえのけいちょうをとう)」権力者・権威者の実力や能力を疑うこと。また、代わりに権力や地位を奪おうとすることのたとえ。
  由来は『春秋左氏伝』より、『春秋左氏伝・宣公三年』にある、天下を取りたい楚の荘王が、定王をあなどって無礼にも、周王室の宝物である九鼎の軽重を問うたという故事に基づく。
 「鼎」とは、古代中国で煮炊きに用いた三本足の青銅器のことで、全国の銅を集めて九鼎を造り、王室の宝とされた。このことから、帝王の位や権威の象徴とされるようになった」中国では長い時代にわたって権力の座を巡り権謀術数がはびこり、現代に至っている。今の周王朝もいずれ「鼎の軽重」を問う者が現れるのか。
次回に続く。

2022.7.6 諺集に見るわが人生(100)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「蟹の横這い(カニのよこばい)」はた目には不自由に見えても、自分には最も適していること。
 また、それぞれが自分の特色を生かした才能を持っていることのたとえ。カニの歩き方はぎこちないようでも、カニにとってはいちばんいい歩き方であるという意味から。このことわざの前または後ろに「猿の木登り」とつけていうこともある。
 プロ野球を見ているとピッチャーはそれぞれ独特の投げ方をする。真上から投げたり、真横から投げたり、下(アンダー)から投げたりする。それに加えて自在に変化する球を投げて、バッターの目をくらます。ヤクルトの石川投手などはあの年で(40歳)一線級を維持しているから驚きだ。どこかで「蟹の横這い」を身に着けたのだろう。
 「鐘鋳るまでの土鋳型(かねいるまでのつちいがた)」目的を達成するまでの手段として用いる物。
 また、成功するまでは粗末のもので我慢すること。鐘ができてしまえば不要になる鋳型でも、鐘ができあがるまでは必要なものだということから。人の人生は鋳型の状態が長いのだということだろう。匠にまで出世するまでは大変長い時間を職人として鋳型の姿で過ごすに違いない。
 「金が物言う」全ての物事は最終的にお金さえあれば全て解決できるという事のたとえ。
 お金さえ持っていれば、争いを鎮めるきっかけを作ったり、怒りを収めたり、最終的な解決の手段として最も手っ取り早いという事のたとえを表したことわざ。
 お金自らが意見をしたり発言したりしているさまを例え「物言う」という言葉が使われている。
お金を持っている人のイメージとして、地位の高い人や、権力者を思い浮かべる事から、その人たちについて皮肉を込めた意味で表現される際にもしばし使われる。
 このように「金が物言う」とは、ポジティブな意味ではなく「お金があったから解決できた」という、どちらかと言えばネガティブな意味で使用される。(類義)地獄の沙汰も金次第。金さえあれば飛ぶ鳥も落ちる。金の光は七光り。金の光は阿弥陀(あみだ)ほど。成るも成らぬも金次第
 私は金に縁が無いので、金に物言わせたことは無いので分からない。が、映画や小説の世界では悪人が金に物言わせて人を従わせるシーンをよく目にする。
 次回に続く。

2022.7.9 諺集に見るわが人生(101)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「金に糸目を付けぬ」惜しげもなくいくらでも お金 を使うこと。 金に糸目をつけぬ。 金に糸目をつけないの語源・由来 糸目とは、揚げた 凧 のバランスをとるため、表面につける数本の糸のこと。 糸目をつけていない凧は制御できないため、 風 に任せて飛んでいってしまう。 そんな糸目をつけていない凧にたとえ、制限なくお金を使うことを「金に糸目をつけない」というようになった。 このことわざもまた大半の人には縁のない話だろう。私など夢にも見ない。
 「金の切れ目が縁の切れ目」金がなくなったときが、人間関係の切れるときだということ。 もともとは遊女と遊客の関係を表したものでお金がなくなれば遊女も相手にしなくなるということから生まれたことわざ。 ここで金の切れ目というのはお金がなくなったこと。 縁の切れ目は相手がいなくなったことを指す。金銭で成り立っている関係は、金がなくなれば終わるということはよく分かる気がする。
 「金は天下の回り物」金銭は一つ所にとどまっているものではなく、今持っている者もいつか失ったり、今ない者もいつか手に入れたりする。金は天下の回り持ちともいう。人生現役時代はこういうことを実感するだろうが、隠居して年金生活に入るとこうした実感は遠ざかる。実に金にまつわることわざは多い。「幸せ」を取るか「「金を取るか」と質問したら多くは金を選んだ。次元の違う組み合わせなのだが、金で幸せが買えると勘違いしている向きもいる。 
 「寡は衆に敵せず」多数と少数では相手にならない。少数では多数にかなわない。
ライバルに対して戦いを挑む際、相手の戦力の見極めが非常に重要だといっている。
出典は「孟子」梁恵王上から「衆寡 (しゅうか) 敵 (てき) せず」義経や真田幸村は少数で多数に打ち勝っている。これは敵の裏や隙を突く戦術が効を制した希な例だ。 次回に続く。

2022.7.13 諺集に見るわが人生(102)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「禍福は糾(あざな)える縄の如し」不幸を嘆いていると、いつの間にか幸福となり、幸福を喜んでいると、また不幸になる、ちょうどそれは「より合わせた縄のように表裏が交互にやってくる」ということを表している。「禍福」とは、「不幸と幸福・不運と幸運・災いと幸い」という意味。「糾える」とは、ひもなどをより合わせること。「如し」とは、「~のようだ」という比喩の意味。由来と語源は『史記』「南越伝」にある。司馬遷は戦国の戦いで、失敗を成功に変えた武将をたたえて、次のように述べた。原文「因禍爲福 成敗之轉 譬若糾纆」書き下ろし文「禍によりて福となす、成敗の転ずること、たとえれば糾えるぼくのごとし」
 人生訓としての使い方で、物事が順調なときには油断しないように、おごる気持ちを戒める意味で、また物事がうまくいかないときは、気持ちを前向きにする意味で使うことができまる。一喜一憂したり、くよくよしたりしても仕方がない、という気持ちを表現している。(類義)人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)。「明日は明日の風が吹く(あしたはあしたのかぜがふく)」など。(TRANS.Bizより)
 この人生訓は誰の人生にも当てはまる。5日前(7月8日)安倍元総理凶弾に倒れ死去した。これなどはあってはならない不幸である。
 「画餅に帰す(がべいにきす)」計画などが実現できなくて、無駄に終わることのたとえ。「画餅」とは、絵に描いた餅のこと。「帰す」は、終わる、戻るの意。
 いかに巧みに描けていても、絵に描いた餅は食べられないことから。
 『三国志・魏書』に「選挙するに名有るを取ること莫れ。名は地に画きて餅を作るが如く、啖うべからざるなり(人を選び推挙する際には、世の中の評判に頼って選んではいけない。名声などというものは絵に描いた餅のようなもので、食べることはできず、役に立たないのだから)」とあるのに基づく。
3日前(7月10日)参院選が終わり自民が大勝した。候補者が掲げた公約が画餅に終わらぬよう注視する必要がある。 次回に続く。

2022.7.16 諺集に見るわが人生(103)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。 
「壁に耳あり障子に目あり」壁に耳あり障子に目ありとは、隠し事はとかく漏れやすいものだから、注意せよという戒め。
こっそり話しているつもりの密談でも、誰かが壁に耳をあてて聞いているかもしれないし、障子に穴をあけて覗き見しているかもしれないことから、隠し事を話すときは注意するべきだということ。
 昔の家の造りとして、砂壁に障子が一般的だった。そのため耳をあてれば聞こえる砂壁や、指で穴を開け覗くことのできる障子の部屋での会話は周りに筒抜けなので、悪口や隠、し事といった内容は十分注意しないとどこで誰が聞いているか分からないという戒めからきている。
【類義】石に耳あり/垣に耳あり/壁に耳あり徳利に口あり/壁に耳石に口/壁に耳垣に目口/壁に耳天に口/こそこそ三里/天に口あり地に耳あり/昼には目あり夜には耳あり/耳は壁をつたう/藪に耳/闇夜に目あり 
 とかく企て事などは漏れやすいものだ「天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)」である。
 「果報は寝て待て」果報は寝て待てとは、運というものは人の力ではどうにもできないものだから、あせらずに時機を待つのが良いということ。「果報」とは、仏語で前世での行いの結果として現世で受ける報いのこと。転じて、運に恵まれて幸福なことをいう。
「寝て待て」といっても、怠けていれば良いという意ではなく、人事を尽くした後は気長に良い知らせを待つしかないということ。
 仏教が由来となっている言葉で、ただ寝て待っているのではなく、できることをきちんとやった上で、焦らずに良い結果を待ちましょうという意味合いがある。
 私は最近眠りが浅く、日中よく昼寝をするが、どうもこれでは果報はいくら待っても来ないだろう。
 次回に続く。







2022.7.20 諺集に見るわが人生(104)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「上(かみ)、材を求むれば臣は木を残(そこな)う」上に立つ者の不用意な言動が、下の者の度をこえた言動を引き起こし、ひどい弊害を生じることがあるというたとえ。君子は少しばかりの材木を求めると、臣下は気に入られようとして大木をむだに切り倒すという意から。出典は『淮南子(えなんじ)』より「上求材臣残木、上求魚臣乾谷」( 君主が材を求めると、部下は木を残らず切り倒してしまう。君主が魚を求めると、部下は谷が乾くほど取り尽くしてしまう) 。と二重に意味を強調している。
 リーダーの言葉は、従う人たちに大きな影響を与える。責任ある立場の人は、良く考えて指示や意見を出さなければいけない。このことわざはあまり見ないが、縦社会の弊害ともいえる。今のロシアがいい例だ。
 「神様にも祝詞(のりと)」わかりきったことでも、黙っていては相手に通じないので、口に出して言うほうがよいというたとえ。いくら神様でも、お祈りの言葉を聞かなければその人の願いは分からないとの意から。わかりきったことほど切り出し難く、腹の中で不消化になることはよくある。阿吽の呼吸などというが、そんなことは殆どない。言葉は出すタイミングが大切なのだ。
 「上(かみ)に交わりて諂(へつら)わず、下に交わりて驕(おご)らず」身分や地位のある人に対しても、おべんちゃらを言わず、自分より地位の低い者に対しても、驕って威張り高ぶるところがない。こうした人物は、事をなす信頼のおける人間であるというたとえ。最初に紹介したことわざの対極にあることわざで出典は『楊子法言』原文は「上交不諂、下交不驕」(上に交わりて諂わず、下に交わりて驕らざれば、もって為すあるべし)。大概は上を忖度するが、たまにこういう人物に出会うと何かスッキリする。 次回に続く。

2022.7.23 諺集に見るわが人生(105)

 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「神の神倉(ほくら)も梯(はしだて)のままに」高く近寄りがたい所でも、はしごをかければのぼれるの意から。どんなに困難なことでも、適切な手段を用いれば成し遂げることができるということ。
 出典は日本書紀(720)垂仁八七年二月(北野本訓)「『神庫(ほくら)高しと雖も、我能く神庫の為に梯(はし)を造(た)てむ。豈庫(ほくら)に登るに煩(わつらひ)あらむや』といふ。〈略〉神之神庫随レ樹レ梯之(かみのほくらモハシダテノママニ)といふは、此は其の縁なり」
ほとんど見たこともないことわざで原文も難解である。小説などで使うのかも知れない。
  「神は見通し」神様は人々のどんなに小さい行為でも見抜いているので誤魔化すことはできないということ。このことわざには類句が多く「神仏は見通し/天道様はお見通し/天に眼/天の配剤/天は見通し/天網恢恢疎にして漏らさず」神の目を盗むなど恐れ多いことだ。
 「亀の甲より年の劫」亀は万年生きると言われており、それに比べれば人生の八十年程度は短く感じるとしても、年長者の経験から身につけた知恵や技術は貴ぶべきだという意味。 本来は、「亀の甲より年の劫」と書く。 「劫」は、きわめて長い時間。「甲」は、甲羅のことで、「甲」と「劫」の同音をかけてできたことわざ。
 誰でも知っていることわざで、私なども80歳を過ぎているので、年の功を身に着けてもいいはずなのだが、いまだ未熟者である。
 「鴨が葱を背負って来る」自分にとってうまいことが重なり、好都合であること を意味することわざ。 略して、「鴨葱」と表現することも多い。 自分が何かをする際に利用しようとしてたものが、さらに利用できるものを持ってくるというような非常に好都合な状況を指して言うことが多い。 お人好しが、自分にとって利益となる物や話を持ってきてくれるようなケースが典型的例である。もともと、「鴨」という言葉には騙しやすい人、利用しやすい人という意味がある。 実際に、詐欺師などが、詐欺に騙されやすい人を「鴨 (カモ)」と呼んでいる。 騙しやすい人を騙すことを「鴨 (カモ)る」とも言う。
 公営ギャンブルやパチンコさらには宝くじも殆どの人はカモになる。IRの誘致なども「鴨葱」の下心が透けて見える。  次回に続く。


2022.7.26 諺集に見るわが人生(106)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「賀茂川の水」平安後期、堀河天皇の即位のときから上皇(1086)、のちに出家して法皇となり、強大な権力をふるった白河法皇(白河院)。
 そんな白河法皇にも悩み事はあったようで、それが三不如意で、『平家物語』の第一巻に白河法皇が嘆いた以下の言葉が伝わっている「『賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞ我が御心に叶はぬ物』と、白河の院も仰せなりけるとかや」とある。
 「賀茂川の水」とは、現在の鴨川のことで、古来よりこの川は氾濫を繰り返し、法皇にも天災を抑えることはできなかった。
 また、「双六の賽」とは、サイコロが出す目のことで、これも確率の問題ですからどうしようもなかった。
 さて、最後の「山法師」とは比叡山の僧兵のこと指す。
 現代でも意のままにならないのはサイコロが出す目ぐらいである。このようにことわざは時代を反映するもので、現在を生きるものには必ずしも通じないものもある。
 「可も無く不可も無し」言語や行動が中道・適切であること。また、長所も欠点もなく、ごく平凡であること。現在は後者の意味で使われることが多い。前者は孔子が自分の処世の仕方について言った言葉。昔から、世を離れて隠れ棲んだ賢人七名について解説している『論語』微子篇8章で孔子は『我則異於是(我は則(すなわ)ち是(これ)に異なりて』私の場合は、彼等とは異なる。『無可無不可(可もなく不可も無し)』至って平凡な人間だ。と述べている。
 このことわざなどはよく使われるが、中身を知って見ると、孔子の言っている意味とは大きな格差を感じる。何故なら賢人七名「①伯夷(ハクイ)・②叔斉(シュクセイ)・③柳下恵(リュウカケイ)・④少連(ショウレン)・⑤虞仲(グチュウ)・⑥夷逸(イイツ)・⑦朱張(シュチョウ)」と比べた上での自己評価のようなもので、レベルが違い過ぎて、いくら後者の意味だと言っても、うかつには使えないことわざだ。 次回に続く。

2022.7.29 諺集に見るわが人生(107)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「下問を恥じず」身分や年齢の低い者に物事を尋ねることを、恥ずかしいとか体裁が悪いと思わず、素直に聞くという姿勢が大切だということ。
 出典は『論語』の孔子の教え『子貢問曰。孔文子何以謂之文也。子曰。敏而好學。不恥下問。是以謂之文也(弟子の子貢(しこう)が孔子に「衛(えい)の国の儀式を行う芸人のおくり名に文という字が ありますが、これはなぜなのですか」と聞くと、孔子は「彼は頭がよく学問が好きで 目下の者に質問することを恥ずかしいと思わなかったら)』と答えたことから。
 【類義】聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥。下の者に物事を訪ねることを嫌う人もいるが、多くは下の者から自由な発想をくみ取る上司が増えているようだ。
 「痒い所に手が届く」細かいところまで配慮が行き届いて、気が利いている様子を言う。
 「わたしの担当の看護師さんは痒い所に手が届くような、じつにいい人だ」などのような使い方をする。結構いろいろなシーンで使うことができる。
 「烏の雌雄」物事の是非や善悪などがまぎらわしくて、判断しにくいことのたとえ。カラスの雄と雌はどちらもまっ黒で、雌雄の判別がむずかしいことからいう。出典の「具ともに予われを聖せいと曰いうも、誰たれか烏からすの雌雄しゆうを知しらんや」による。「詩経‐小雅・正月」の「具曰二予聖一、誰知二烏之雌雄一」から。日本語訳「大臣たちは皆、我こそは智の明らかな賢者だというが、賢も愚もわからない小人ばかりなので烏の雌雄の相似て見分けがたいようなものだ」
 烏が卵を抱っこ(抱卵…ほうらん)するのは雌と決まってる。今時期、巣にじ~っとうずくまっている烏が居たら、それは母親だから雌である。よく烏はその時期人を攻撃する。それは父親の務めで雄の仕事なのだろうか。
 次回に続く。