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2022.10.1 諺集に見るわが人生(125)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「き」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「気が気でない」ひどく気がかりである。気にかかって心が落ち着かない。気が心でない。こんなご時世「気が気でない」ことも多いだろう。
 「木から落ちた猿」頼みにするところ、よりどころを失って、どうしてよいかわからない状態のたとえ。実際には日光の猿などはひとずれして、観光客に昼間堂々と襲いかかって土産物などを略奪する狼藉をはたらいている。木などない道路に屯しているギャング団そのものだ。最早人里で暮らす猿に木など必要ない。このように昔からあるたとえは存亡の危機に瀕している。
 「危機一髪」髪の毛一本ほどの違いで安危が分かれるような、きわめて危険な状態。ひとつ間違えば危険に陥りそうなこと。あぶないせとぎわ。由来:一本の髪の毛で千鈞(せんきん)の重さのものを釣り上げる意から。車の運転をした人なら「危機一髪」で事故を免れたと感じたことがあるはずだ。
 「騏驥の跼躅は駑馬の安歩に如かず(ききのきょくちょくはどばのあんぽにしかず)史紀」
すぐれた馬もぐずぐずしていれば、つまらない馬が静かに歩み続けるのに及ばない。すぐれた人も怠けていれば、平凡な人が努力するのに及ばないというたとえ。「麒驥」一日に千里を走るという名馬。「跼躅」かがんだり足踏みしたりすること。ぐずぐずして進まないこと。「駑馬」足ののろい馬。「安歩」静かに、ゆっくりと歩くこと。出典では、この後に「孟賁の狐疑するは、庸夫の必ず至るに如かざるなり(もうほんのこぎするは、ようふのかならずいたるにしかざるなり)」(戦国時代の代表的な勇者である孟賁も、疑いためらっているようでは、必ずかけつける凡夫に及ばない)」と続く。この後文はネットで検索しても見つからない。
 読めないし、書けないことわざ。西洋でいうと兎と亀の寓話。洋の東西を問わず似たような教訓話はある(JMCAweb)。私などは差し詰め「駑馬の跼躅」といったところか。 次回に続く。

2022.10.4 諺集に見るわが人生(126)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「き」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「危急存亡の秋(とき)」 危険な状態が目の前まで迫り、生きるか死ぬかの分かれ道に立たされていること を表す。 主に、個人の危機ではなく、組織や団体など、集団の危機を表す言葉として使われる。
 三国時代に魏との戦いに出生する諸葛亮が後主劉禅に奉った『出師の表』にある言葉、「今天下三分して、益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり」に由来する。
ここでの「秋」は、穀物を収穫する一年で最も重要な時期であることから重大な時を表し、「とき」と読む。ロシアとウクライナの戦いはまさに「危急存亡の秋」のど真ん中にある。
 「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」知らないことを聞くのはほんの一時の恥で済むが、聞かずに知らないまま過ごすのは一生恥ずかしいということ。知らないことは積極的に尋ねるがよい。
 (類語)問うは一時の恥、問わぬは末代の恥・知らずば人に問え
 この教えは小学校の時に学び、読めない字を人に聞いて覚えたりしたものである。昔授業で「屋久島」を「やきゅうじま」と読んで笑いを買ったことは一生忘れない。
 「聞くは気の毒、見るは目の毒」聞けば聞いたで心を悩ませ、見れば見たで心を悩ませる。聞くもの見るものすべて煩悩の種となり気にかかるということ。(類句)知らぬが仏。モノを買た後で、ネットで検索すると、同じものがもっと安い値段で出ていることを知った時の気分はちょっと悔しいものだ。
 「聞くは法楽」聞くのは無料だから聞いて行けと、人にすすめる言葉。「法楽」法会のとき、仏前で音楽を演奏したり経を読んだりして供養すること。勧進のために人に見せたことから無料の意味となった。また、なぐさみ、たのしみの意味にも用いる。
 (類義)「見るは法楽」 よいものを見るのは楽しみだという意味。 また、見て楽しむだけなら無料だという意味。 いろいろなものを見るのは、たとえようもなく楽しいことであるということ。 また、見るだけならただなのだから、あれこれ見ると良いということ。 仏教から生まれたことわざ。法事でお経を聞きその後でお説教を聞くのも法楽か。 次回に続く。

2022.10.7 諺集に見るわが人生(127)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「き」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「騎虎の勢い」物事に取り掛かった以上、途中でやめるわけにはいかなくなること。 騎虎とは、虎の背に乗ることを指す。 虎の背に乗った者は、途中で降りると虎に襲われてしまうために降りられない。 そのため、物事が勢いづくと引き返すわけにはいかなくなるという意味が「騎虎の勢い」にはある。
 (由来) 「太平御覧」という書物に引用されている、「晋中興書」という文献に出て来る話から。四世紀、東晋王朝で反乱が起こったときのこと。反乱軍の盟主として担ぎ出された陶侃(とうかん)という将軍は、自分の根拠地へと引き返そうかと考えていた。すると、部下の一人が「今の情勢では、引き返すなんて許されません。『騎虎の勢い(虎にまたがって走り出したような勢い)』ですから、降りることなんてできないのです」と言って、思いとどまらせたという逸話から。
 プロ野球はこれからクライマックスシリーズ。横浜ベイスターズが「騎虎の勢い」勝ち抜いて日本シリーズも制することを強く願っている。
 「起死回生」死にかかっている病人を再び生きかえらせること。転じて「崩壊や敗北などの危機に直面した状態を一気によい方向に立て直すこと」「絶望的な状況を立て直し、一挙に勢いを盛り返すこと」 といった意味がある。 起死回生という言葉は、 例えばスポーツやビジネスで危機に直面したときなどによく使われている。野球などでは起死回生の一発逆転劇などというシーンがよく見られる。
 「旗幟鮮明(きしせんめい)」旗と幟(のぼり)」という言葉が含まれており、「旗印(はたじるし)鮮やかで、はっきりしていること」という意味がある。
そこから転じて、「態度、主義主張などがはっきりしていること」、「明確に打ち出していること」といったような意味になってくる。
 政治の世界では一見「旗幟鮮明」の体を取るが、実際はずぶずぶな姿を呈している。 次回に続く。

2022.10.12 諺集に見るわが人生(128)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「き」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

「雉も鳴かずば撃たれまい」無用の発言をしなければ、禍を招かずにすむことのたとえ。雉は鳴かなければ居所を知られず、撃たれることもなかったのにという意味から、余計なことを口走ったことで、自ら災いを招くことをいう。由来は昔話「石川県民話」の"あずきまんま"
 [類語]触らぬ神に祟たたりなし・触り三百・寝た子を起こす
「使用法例」上司の前での失言や、発言したことで周囲から責められるようなときに使用される。あいつ馬鹿なことを言ったもんだ「雉も鳴かずば撃たれまい」に。

「起承転結」文章や話などで全体を秩序正しくまとめる構成の意として用いられる。さらに広く物事の順序、展開のしかた、構想にも用いられる。
 私のように物を書く者にとっての「指示書」のようなものである
 [補説]wikipediaによれば、構成を次のように説明している。もとは漢詩。四句からなる絶句における構成法の一つ。八句からなる律詩においても二句ずつまとめて絶句に準じる。第一句(起句)でうたい起こし、第二句(承句)でこれを受けて発展させ、第三句(転句)で場面や視点を転じ、第四句(結句)でこれらを受けつつ全体をしめくくる。 
 現代では次のような異論が主流となっている。
 日本語学が専門で高崎経済大学助教授 (当時。後に教授) の高松正毅は、起承転結について、「こと説得を目的とする文章を作成するにあたっては極めて不適切で、ほとんど使いものにならない」と主張しており、「『起承転結』では、文章は書けない」と述べている。「起」「承」「転」「結」のそれぞれの機能の定義が明確でなく、各部分に含まれるべき文が曖昧であることを、高松は問題視する。起承転結が真に問題であるのは、それが「役に立たない」からではなく、思考に大きな影響を与えるためであるとする。すなわち、文章の論旨とは無関係のように見えることを「転」で突然言い出したり、論旨を「結」に書くために、可能な限り後のほうに記述しようとしたり、文章の構成として絶対に認められない思考様式を定着させると、高松は主張している。
 要は気ままに形式にこだわらない書き進めればいいとということなのか。 次回に続く。

2022.10.16 諺集に見るわが人生(129)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「き」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

「机上の空論」頭で考えただけで、理屈は通っているが実際にはまったく役に立たない議論や計画のこと。
 (注記)「机上」は、机の上。「空論」は、根拠のない理論や理屈。机の上で理屈をこねまわす意から。
 (使い方)相手をたしなめたいときや思いとどまらせたいときに使われる。少しきつめの表現なので、目上の人に使うことはあまりないかもしれない。「そんなものは机上の空論にすぎない。現実ではそううまくいくとは限らないよ」(hugkum.sho.jp引用)

 「疑心暗鬼」人の疑いの心が暗闇の中に鬼を見させるという表現で、「いったん疑い始めると怪しくないものまでも怪しいと思え、何でもないことまで疑わしく、恐ろしいと感じる」という意味。
 (由来)斧(おの)をなくした男が、誰かに斧(を取られたと思い込み、どうも隣の子供が怪しいと疑い始める。それから、その子供を観察していると、顔色や言動など、こいつが盗んだと思えるようなものばかり。ところが、後日その斧は谷底で見つかった。実は自分が置き忘れただけだったのだ。その後、隣家の息子を見てみると、とても斧を盗むような人間には見えるようになった。。
 このように「疑う心が過ぎると何もかもが疑わしくて怖くなり、暗闇に鬼を見てしまう」という話が、ことわざの「疑心、暗鬼を生ず」に変わり、これを縮めた「疑心暗鬼」を、現代でも使っている。確かに悪いように悪いように考えてしまうことがあるものだ。

「帰心矢の如し」故郷や実家に早く帰りたいと思う気持ちが非常に強いこと という意味。 故郷から離れて暮らすも、嫌なことが続いたり、気分が落ち込んでいているとき、今すぐにでも故郷に帰りたいと強く思うときに使われる。 「 矢の如く 」のように、勢いよく飛ぶ矢のように早く帰りたいという気持ちを表している。
 家族のいる家を離れて暮らしている人にとって、このコロナ禍で思うように家に帰ることができないときなどに、こういう気持ちになる。 次回に続く。

2022.10.19 諺集に見るわが人生(130)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「き」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 「機先を制する」相手よりも先に行動を起こすことで、自分を有利な位置に置くこと。
(類語)先手を奪う。先手を取る。先んずれば人を制す。先手必勝。
(由来)孫子の「先んじて戦地に処(お)りて、敵を待つものは佚(いつ)す」
(例文)桶狭間の戦いでは、人数も戦力も大きく劣る織田信長勢が、今川勢の油断している間に機先を制し、下馬評を大きく覆す勝利となった(www.tutitatu.com)。
何かを始める時に、このことわざやその類語は普段の会話の中でもよく使われる。

 「驥足を展ぶ(きそくをのぶ)」才能ある人物が、さらにその才能を伸ばし、発揮するということ。自由に振舞う。気ままに行動する。
(説明)「驥足」は一日に千里を走るという名馬の優れた脚力をいう。転じて、優れた才能のこと。
(出典)三国志「魯粛(ろしゅく)備に書を遣(おく)りて曰く、土元は百里の才に非ず、治中別駕(ちちゅうべっか)たらしめば、乃ち(すなわち)其の駿足を展ぶるを得んのみ、と(魯粛は劉備に手紙を送って『龐統(ほうとう)は百里四方程度の小さな県の長官には適さない。州の長官の副官につけたら、その才能を十分に発揮することができるだろう』と言った」とある。
中々見かけないことわざだが例文として「つい旅先では驥足を展ばしたくなるんでございますね〈井伏・駅前旅館〉」を示す。

 「木七竹八塀十郎(きしちたけはちへいじゅうろう)」木を切るには七月、竹を切るには八月、土塀を塗るのは十月が適しているということ。月はいずれも陰暦で、人名のように語呂をあわせて覚えやすくしたもの。現在の暦に置き換えると、「木を伐る時期は、7月上旬~8月上旬」、「竹を切る時期は、9月上旬~10月上旬」、「壁を塗る時期は、11月上旬~12月上旬」が、最良でこの時期に行うと丈夫で長持ちするという言い伝え。
昔の木造家屋が長持ちするのは、「木六竹八塀十郎」の様な決まり事を大切に守ってきたからだろう。
似たようなことわざに「桃栗三年柿八年」がある。こうした生活の知恵になることわざを日本人は多く残している。 次回に続く。

2022.10.22 諺集に見るわが人生(131)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「き」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

「北に近けりゃ南に遠い」あたりまえのこと、わかりきったことのたとえ。[類句]犬が西向きゃ尾は東/雨の降る日は天気が悪い/親父は俺より年が上など多数。
私は「犬が西向きゃ尾は東」を好んで使う。

「来る者は拒むこと勿れ、去るものは追うこと勿れ(春秋公羊伝)」自ら進んでやって来るものを拒んではならず、自ら去っていく者は引き留めてはならぬ事。相手の自由意志に任せることをいう。大体人間関係はそうした性格が強いものだ。

「吉凶は糾える縄の如し(きっきょうはあざなえるなわのごとし)」人間の幸福と不幸は、より合わせた1本の縄の表裏のように、交互に来るものである。災いが転じて福となり、福が転じて災いとなることがあるもので、人の知恵で計り知ることはできないというたとえ。
(晉の孫楚の「征西官属送於陟陽侯作詩‐吉凶如二糾纆一、憂喜相紛繞」による)「禍福は糾える縄の如し」と同じ。
確かに長く生きているとそういうことが実感できる。

「橘中の樂(きっちゅうのらく)」囲碁や将棋をする楽しみのこと。出典は「橘」は、タチバナ。昔、中国の巴邛(はきょう)の人が、庭にある大きな橘の実を割ってみたところ、中に二人の老人がいて、象戯(中国の将棋)を楽しんでいたという物語から。
私の子どもの頃は家の中で楽しむものといえば、カードゲーム(トランプ)や双六に始まり、少し大きくなると碁将棋に興じるようになった。このことわざは知らなかった。

「狐につままれる」「狐につままれる」の意味は、"意外なことが起こり、訳が分からなくなり呆然とする様"。事の成り行きが分からずに呆然とするなど、驚いたり、あっけにとられたりした様子を表す際に使う。きょとんとする・ぽかんとする、と表現するとわかりやすい。
「狐に摘ままれる」や「包まれる」は誤字、"抓まれる"が正解。
幼少の頃は年中「狐に抓まれていた」ものだ。 次回に続く。

2022.10.25 諺集に見るわが人生(132)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「き」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

「木で鼻を括る」相手から冷たい対応をされたり、無愛想にあしらわれたりした時に使う表現。
本来この言葉は「木で鼻をこくる(擦る)」が正しく、紙が貴重なものだった時代に木で鼻を擦って鼻水を拭っていた様子を指したものだった。時代の変遷とともに「こくる」が「くくる」に変化し、現在のかたちになったものと考えられている。
「木で鼻を擦る様子」が「無愛想、冷淡な態度」を指すようになった理由は「木で鼻を擦ると痛くて不機嫌な顔になるから」や、江戸時代の商家において「丁稚奉公の使用人たちに紙を使わせなかった主の理不尽な様子が基になっている」など諸説ある(dime.jp)。
私なども何かに気を取られている時に話しかけられると、こうした素っ気ない態度を取って、相手の気に障ることがあるかも知れない。

「来てみれば、さほどでもなし富士の山」何事もおおげさに言われるもので、実際に見てみると想像していたほどのものではないことが多いというたとえ。
富士山は日本一のすばらしいと言われて来てみればそれほどの山ではなかったという意から。
私も若い頃、丹沢・箱根山塊を中心によく登山したが、富士山には登っていない。このことわざにあるような話が流れていたせいかもしれない。
それでも何十回も登った人もいるというから「蓼食う虫も好き好き」である。こんなことわざもある。富士山に「一度も登らぬ馬鹿に二度登る馬鹿」この裏には昔の江戸の人には「大山詣」同様の「富士山信仰」があったからという。

「木に竹を接ぐ」『話の前後の筋が通らないこと』や『調和が取れていないこと』。 『接ぐ』には、『二つのものをつなぎ合わせる』意味がある。 木と竹という違う性質のものを無理につなぎ合わせたときの、おかしな様子をたとえて表現した言葉。
(類義語)竹に接ぎ木/木に竹/木に竹を接ぐが如し/木に竹を接いだよう/糸に金を繫ぐ/油に水/油に水の混じる如し/平仄(ひょうそく)が合わない/矛盾/自家撞着。
文章を書いていて、見直すとどうもうまく整合性が取れていない時がある。そうした状態を意味しているのだろう。 次回に続く。


2022.10.28 諺集に見るわが人生(133)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「き」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

「木に縁りて魚を求む」方法を誤ると目的を達成できないことのたとえ。 木に登って魚を探すとの意から。
(類義語)山に上りて魚を求む/山に蛤求む/畑に蛤/天を指して魚を射る/水中に火を求む/夏日に氷を求む/氷を叩いて火を求む/雲に梯/百年河清を俟つ
(例文)インターネットにはたくさんの情報があるが、どれを信用していいかわからない。間違ったものを信じると縁木求魚(えんぼくきゅうぎょ)になってしまう。

「機に因りて法を説け」相手の素質や能力に応じて、適切な説法をせよということ。転じて何事も臨機応変に対処せよということ。時や場合をわきまえず、むやみやたらに道理を説いて聞かせてもむだなことだ。(注)「機」は、仏教語。仏の教えに触発されて目覚める精神的能力。
簡単なことではない。人の素質や能力は人それぞれで、対話が必要で大衆を相手にできるものではない。

「昨日の敵は今日の味方」昨日まで敵であった者たちが、事情が一変して今日は味方になること。人の心や運命のさだめないことのたとえ。
※浄瑠璃・義経千本桜(1747)二「きのふの怨(アダ)はけふの味方。あら心安や嬉しやな」
この反対が「昨日の友は今日の敵」
今まで親しかった者が、手のひらを返したように自分に反逆することをいう。人の離合集散は当てになるものではなく、千変万化するものであることのたとえ。
世界では昨日まで戦っていた者同士が同盟を結び、味方になることは珍しいことではない。

「昨日は昨日、今日は今日」昨日のあったことが、今日もあるわけではない。日々情勢が変わり、昨日と今日は違うということ。情勢は日々変わるということを理由に、自分の意見や態度が変わったことの弁明や言い訳に使用することば。
類句 昔は昔、今は今(むかしはむかし、いまはいま)
明日は明日、今日は今日
(用例)表現方法は「昨日の今日で申し訳ない」「昨日の今日でごめん」「昨日の今日なんで」などが一般的言い回し。 次回に続く。

2022.10.31 諺集に見るわが人生(134)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「き」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

「昨日は人の身今日は我が身」他人にふりかかった災難が、いつ自分にもふりかかるかわからないことをいう。 つまり、人の運命は予測しがたいことのたとえ。 このことわざは、不運や災難がひと事ではないのだ、という自戒を促している。「今日は人の身、明日は我が身 」とも今日と明日を逆にいうことがある。
人の生死はこの年になると「昨日は人の身、今日は我が身」である。

「気の利いた化け物は引っ込む時分」化け物 は歓迎されないが、それでも心得ている 化け物 だったら退け時を知っているものだということで、ある地位に居座って引退しそうにない人について言う悪口。
国の指導者や大企業の創業者などには、このような陰口をたたかれる者もいる。

「木の長きを求る者は必ず其の根本を固くす」大きな発展を願う者は、基礎をしっかり固めなければならないことのたとえで、木が大きく育つのを望む者は、その根本をしっかり固めるという意味から。
出典には、このあとに「流れの遠きを欲する者は必ず其の泉源を浚(さら)う(流れを遠くまで及ぼしたいと思う者は、必ずその水源の底を深くする)。国の安き(安泰)を思う者は、必ず其の徳義(人として実行すべき道義)を積む」とある。
基本を重視し、道義を積むということは、なかなか難しいことで、大きな発展を期待することは、それに比例して努力を重ねる必要がある。凡人には遠い世界の話である。

「機(時)は得難くして失い易し」好機会はなかなかめぐって来ないもので、たとえ来たにしても、油断しているうちに、すぐ去ってしまうものだ。また、時間というものは再びめぐって来ないから、どんな短い時間をも大切にしなければいけない。
名言「機は得難くして失い易し」額付き書道色紙\5,980でamazonで売っている。社長室の壁に似合う。 次回に続く。