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      現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。 青色の太字をクリックすると 、画像が表示される。

 江戸の職人 第八話「文」の部2022年


漆掻師(しっかいし)
出典の『教草』には次のように記されています.
 「漆樹ハ(雄本雌本にして其雄本は実を結ぶ事なし其樹年を経るものは高さ六七間に全る此業を盛になす国にてハ四五年より七八年迄の間に漆を取り其後八伐木す故に大樹なし又蝋を製する地にてハ漆は取る事少し会津米沢にてハ蝋を多く収る故に大きなる樹多し(略》
 漆液をとる事ハ地のよしあしと樹の善悪とにより成長よきものハ四五年にして周り六寸余に至る多分ハ六七年にして取ることなり其法掻鎌といふ器械にて横に傷け其器の裏にある一尖にて前の傷の中真へ亦細く一筋入て傷口より流れ出る液を銕の箆(へら)にて掻き取り腰に帯たる筒へ溜るなり其傷の付け方ハ一株の樹ヘー筋其次の樹へ一筋と順次に傷つけて漆を収り其日より四日目に先の傷痕の上へ亦傷つける事前の如とし如此四日目毎に傷つけて遂に全木へ傷け終り後根本卜より伐倒すなり漆を取り溜る筒ハ竹にて製し亦ほうの木とくるみの皮にても製す
 漆を取る候ハ半夏生に初め十月に終わる初終の漆は上品ならず夏の土用より秋分迄の間に取るものを上品とす(略)
 向かう日に腮(サイ・あご・えら)まで霞むうるしかき 

塗師
 塗師と書いて「ぬし」と読みます。また漆を塗ることを漆(きゅうしつ)といいます。著者は香川の工芸学校の卒業ですが、その時の科を漆科といい、そこで漆を五年間教わりました。六十年近い昔の話です。
 漆は木地に塗ります。木地は、轆轆師、曲物師、指物師などと呼ばれる木地師が作ります。
 江戸時代の漆器といいますと、すぐ思い浮かぶのは味噌汁椀であり重箱で、つまり庶民の日常生活で使う食器が多かったようです。
 焼物類が漆塗の椀や皿に代わって使われるようになったのは、江戸も中期以降ではないかと思われます。 その証拠に焼継屋という行商がいて焼物のこわれたのを継ぎ直して廻つったほど焼物は貴重だったようです。 ですから焼物が庶民の手に届かぬものであった当時は、 漆器が食器のほとんどでした。そこから漆の技術が発達し、日本の各地でそれぞれ特色のある塗り方が生まれました。
 江戸時代に、 各地の特産となった漆芸を次にあげてみます。
 春慶塗 木地の美しさを生かすために、透明度の高い上塗り専門の春慶漆を塗り放して仕上げたものです。
 根来塗 鎌倉時代、紀伊国の根来寺で作られたのでこう呼ばれています。最初は仏具、膳椀、家具などの自家用のものを製作したようですが、 その中では根来椀が知られています。
 輪島塗能登国鳳至(ふげし)郡輪島、現在の石川県輪島市で製するもので、起源は古く平安時代にさかのぼります。根来寺と同様、最初は総持寺の膳、椀、飯櫃、須弥壇、接待用具などを作っていましたが、のちに一般庶民のものも塗るようになりました。輪島塗の特徴は塗りが堅牢そのものなことです。
 そのほかにも、津軽塗、若狭塗、会津塗、象谷塗、秀衡塗、藍胎(らんたい)漆器、村上堆朱、鎌倉彫等が全国各地で生産されました。
 絵は塗師と弟子が漉し紙で漆を漉しているところです。 漆を漉すのは漆の塵(ごみ)を取るためです。漆を塗るときには、埃(ほこり)、塵が塗り物につくのを極端にきらいます。夏でも仕事場は閉め切りで、塗り立てのときなどは仕事場に水を打ち、揮一本で塗ったとぃいます。船を沖に漕ぎ出し、 船上で塗ったという話も伝わっています。ただ漆は塩気と油をきらうとぃわれますので、頭から信じられませんが面白い話です。
 鉢の漆が白く描かれているので、 おそらく生漆か透き漆でしょう。 鉢の前の曲げ物は漆の入れ物で、曲げ物の左横の膳は宗和膳に似ています。塗師の後ろの戸棚は風呂といって、塗った漆器をここに入れて乾かします。 漆はある程度の湿気がないと乾かないので、 風呂の内へ水をまいておきます。
(出典・図彙本『頭書増補訓蒙図彙大成』寛政元年下河辺拾水子画)

蒔絵師
「教草」には次のようにあります. 「蒔絵とハ金粉をもて様々の模様を画たるものの名なり、<略>蒔絵に用ゆる漆の各種ハいつれも雑分なきやう清浄:に𠮷野紙にて幾回も濾して用ゆ<略>地蒔ハ粉金にあらき物細かき物あり品物により下を絵漆にてぬり梨子粉を竹の管に入れて思の儘にふるなり総て金粉を蒔掛るにハ粉のあらきこまかき次第により此竹菅のきぬめの大小を用ゆるなりこの外に金平目銀平目といふ最上の地蒔ありこれ平目金銀一校つゝ筆の先き又ハ金具箆(へら)のさきをもて津液にて付け地漆の上にならべ付るものなり」

蒔絵師の使う筆は蒔絵筆といって、 毛先の小軸が三段の軸で出来ています。 船鼠の毛は線書き用に、 地塗りには猫の玉毛が良いとぃわれています。

絵は蒔絵師が盃に蒔絵筆で図柄を描いているところです。 蒔絵師の左手の親指にっけた小皿は水牛製の応一徽と呼ばれるもので、これに漆を入れます。前にある箱は定盤です。この上で漆を練つたり色を混ぜたりし、また箱の内には道具類を納めます。定盤の上にある曲げ物は漆の入れ物で渋紙の蓋がしてあります。その横にあるのは檜の箆で、蒔絵師の左右には重箱や椀が見えます。
(出典・職人本『職人歌合之中』文化四年丹羽桃渓画)

印籠師
出典の文には次のようにあり、そのほかにも多くの記述があります。
「〔印籠師〕 印籠並薬入等是を造る。堅地、弱地の目利入事なり。所々に住す。」
「印籠は元来印判印肉を入具なり。 今薬を入る。 薬をたしなむ物を薬籠と云。 印籠の一重なるものなり。蓋を中にて合せ、風の入らぬやうにしたるなり。今箱に薬籠蓋といふは、この薬籠より起ることなり。今は薬籠印籠とりかへて用。」(『本朝世事談綺正誤』)

「守貞今世ハ一二三重トモニ凡テ薬籠(やろう) トハ云ズ印籠ト云也然モ印璽ヲ納ル人ハ稀ニテ薬品ヲ納ムコトヲ専トス蓋今世ニテ裃ヲ着ス者ハ必ラズ印籠ヲ提ヶ若印籠ヲ提サル時ハ巾着胴乱ノ類ニテモ必ラズ空腰ニセズ其中ニモ印籠ヲ本トスル也依ㇾ之印璽モ製薬ラモ納メズ空籠ヲ帯ル人モ多シ」 (「守貞謾稿」)

絵は印籠師が漆べらで塗っているところです。
(出典 職人本『人倫訓蒙図彙』 元禄三年 蒔絵師源三郎画)


紅師
紅は推古天皇十八年(610)に、高麗の帰化僧曇徴が紙墨等とともに携えて渡来したのが始まりで、平安時代になるとてい粉といって白粉に紅を混ぜたものを化粧に使いました。口紅が一般に使用されたの 、江戸時代になってからのようです。

『風俗画報』百五十二号には、紅の製法か記してあります。
「刷紅馬喰叫二丁目 山川金蔵
製法紅花を水に浸すこと一夜。翌日麻布嚢に入れ。搾器にて圧し黄汁を。去りたる後。
紅花を桶に入れ。灰汁を注ぎ、足にて踏みで雌ひ麻布嚢に入れて圧搾し、汁を別器に移し。梅酢少許を和匀(わきん)し。其澄清するを待て。水を去り。麓底の箱に光絹布を敷き。紅澱を其に移し。水を去りて。水気の尽きさるに乗し。別器に移し去り、陶器の猪口に刷塗して之を乾す」

絵は猪口、皿などに紅を塗っているところです。猪口とか蛤の貝殻などに塗ったものをうつし紅、皿紅、猪口紅といいました。携帯に便利なように厚い板とか漆の板に塗ったものを板紅と呼びます。
口紅を唇に塗るときは、薬指に唾をつけて塗りました。
紅を目の横につけるのを目弾、爪につけるのを爪紅といいます。
                 (山禰(・職人本「職人歌今之中」丈化四年丹羽桃渓画)

白粉師
「持統天皇六年に始て鉛粉(おしろい)を作とあり。しかれども精ならざりし也。慶長。元和のころ、泉州堺銭屋宗安と云もの、大明の人に習、はじめて造る。又小西白粉は、堺の薬種屋小西清兵衛小西摂津守父也 」 ( 『本朝世事談綺』)

「又白粉二二種アリ和名抄ニモ粉ト白粉ト並べ挙タリ本草和名二粉錫和名巴布(はふ)尓(に)トアリ今云京オシロヒト呼テ婦人ノ顔ニヌルモノ也然バ粉ハ水銀粉ニテ今ハラヤトモ伊勢オシロヒトモ呼モノ是也云々守貞粉錫今ノ京オシロヒト呼ト云物今世丁子香等種々ノ名アリ蓋白粉ハ大坂ニテ製ㇾ之其家ヲ白粉ノ竈元ト云銭屋長左衛門塩屋八右衛門奈良屋丸屋等五六戸其所製ヲ大坂及ビ京江戸ニモ買得テ再製シテ婦女ニ売ル故二京白粉ト雖モ皆大坂製也蓋大坂水性良ナラズ故二此原製ニヨロシク京師ハ再精製ニ良歟水性精ナレバ也紅製及ビ染物等京ヲ好トス清水故ナリ

又京坂ニテ生白粉キオシロヒト云江戸ニテタウノツチ唐土也或ハ『ハッチリ』ト号ヶ頸ニヌル物ハ顔オシロヒトハ別製也首筋の顔ヨリコクヌル故也コクヌリテ衣襟ニ移ラザル也顔白粉ハ濃ニ塗カタク又襟ニウツリ易シ水ニ浸セバ音ス故ニハッチリノ名アリヱリオシロヒトモ云也江人頸ヲヱリト云故頸粉ト云コト也此生白粉ハ前二汞粉歟」(『守貞護稿』)")

平安初期には糯米、栗の粉を白粉に使っていたようです。そのほかにも白土、紫茉莉(白粉花の実)、胡粉(貝殻粉)、天瓜粉(てんかふん:黄烏瓜の根の粉)、(水銀より製す)、鉛白(えんばく:鉛より製す)があります。

文武天皇(697~707)の頃、伊勢の丹生からは水銀を産し、近くの射和でこれを軽粉にし、松坂で白粉にして売り出しました。これが伊勢白粉です。江戸時代になるとこれを御所白粉と称したようです。やがて伊勢白粉は、梅毒、風取りの薬として用いられ、化粧用に使われることは少なくなりました。

慶長の頃、堺で安価な鉛白粉が作られました。その影響を受けても変化が起こり、白粉の使用量も急速に増えました。

化粧法も、顔から頭、胸、股と広い範囲に塗られるようになり、役者、遊女、御殿女中、芸者等に利用されました。

化粧には地方と職業によって厚化粧、うす化粧の好みの違いがありました。江戸はうす化粧、京坂は厚化粧でした。御殿女中、吉原遊女は厚化粧でしたが、深川芸者などはうす化粧を粋として誇りにしていました。

(出典・職人本『職人尽発句合』寛政九年梨本祐為画)


線香師
元治二年、江州堅田の人錦織五兵衛は『東武日記』に次のように記しています。「麹町薬店ニテ線香ヲ尋ルニ江戸表之線香悉ク京大坂より下ルト云。江戸ニ而ハ線香製ス事ナシト云々。可考。」

これでみますと、江戸では線香を薬屋で売っていたようです。

江戸時代、線香の製造は泉州堺が盛んでした。現在ではタブの木皮を原料にしていますが、昔は楡の甘皮で作り、それに香木の粉末を混ぜて作りました。その香料は植物性のものに沈香、白檀、丁字、竜脳、動物性は麝香、海狸、霊猫、接着剤には糊、フノリ、燃焼を助けるために松煙の煤、青、茶の染色を加えて色づけします。

線香は仏事だけではなく、時線香と呼ばれるものがあり、芸者に客から口がかかると座敷つとめの時間を線香を立てて計りました。この時線香は特別製で、線描筆の軸の太さと長さがありました。

絵は右の男が絞車(ろくろ)を廻すと左の線香の原料に圧力がかかり、索麺状に圧し出されます。左の男が竹箆(しっぺい:禅宗で坐禅のときに参禅者の指導に使用する竹製の道具)で切り取っています。これを盆切りと呼び、出たものの中で不揃いなものは除き、板に行儀よく並べ、一定の寸法に切ります。これを胴切りと呼びます。乾燥に五日間、積み上げて歪みを直すのに五日間、最後に束ねますが、これを板上げといいます。
(出典肉筆絵本「長崎古今集覧名勝図会』年代不明筆者不明)

絵具師
『万金産業袋』には次のようにあります。
「絵具類 此条下には大和ゑのぐの品并に調方の大概記?之

○岩紺青(こんじゃう)・岩?青(ぐんじゃう)此二品は金山の金石に付たる所のさびといふ。岩緑青(イハロクシャウ)石緑・岩白緑銀山のさびと云。以上二品とも一物にて岩紺青、いわ緑青とも。壱ばん弐ばん三番とてあり。壱番といふは色こくあらし。何にてもさいしく場の広きにもちゆ。弐番は色すこし浅く細なり。三番は臭いかにも細末にて、色一トしほ浅くて美し。製法の時に乳鉢・乳木にてするうち、三段四段にもわくる。皆水を入れて淘(ゆり)たてゝする。上澄の水をしたみ、渝(い)させてこれを?青(ぐんじゃう)・白緑とする。薄にかわにてつかふ。

○奈良緑青(ナラロクシヤウ) 銅縁・なら白緑以上は作り物なり。惣して一切の銅(アカガネ)商売、薬罐ちろりの切くず等をあつめ、緑礬(ろうほ)を水に酒ぎて浸し、土中に埋てねさせ、青さびのつくを期とし、臼(つきうす)にてはたき磨(すりうす)にて挽き、いく度も水飛して、水飛のよき時、板に一トたまりづつ落し日に干す。かくはいへと誠ゑのく屋の秘する事なれば、白地(あからさま)にはしれがたかるへし。

○胡粉 牡蠣がらなり。碓(からうす)にて浸せし水ともによくはたき、あらまし砕たる時、水にゆり立くするにしたがひ、砂、貝がらの皮のあらきは底にのこる。それを取てすて、その水の上の濁(にごり)をゐさせて、それを磨(うす)にて水びきにひき、又ゐさせて上(うわ)水をしたみ、かはかして日にほす。如?此する事いくたびもしてふるひにかけ、そのうへを水飛す。上と次との差別も製の段々、爰(こ)の此水飛によれり。

○光明朱 製法の事、その座あれは略?之。

○丹(たん) 長吉といふを上とし、菊丹といふを次とす。製法はまづ泉州堺にて焼(やく)。其外大坂等にてもやく事なり。焼やうは口伝なり。性は鉛にて此焼やうて雲泥のたがひある事、同し鉛なれともおしろいに製すれば甚しろく、右丹に焼とき至て赤し。是のみにもかきらず。
朱は水銀の焼返しなり。また軽粉とていせおしろいも、同し水銀のやき返し。然れは、いかにも火にたく薬力によるなり。委細はなを後編、白粉焼の所にて記すべし。

○生燕脂(しゅうあんし) 唐物なり。綿にひたし来る。大輪小輪とて二品あり。薄きせんじちゃにてしほるべし。しぼりたるまにては薄ければ日にほし、鉢皿にかわき付きたる時つかふ。膠不薄して火に嬉る事なかれ。黒みて色悪し。弟切草の汁とる。

○此黄 唐物なり。打ちくたき水に漬てそのま用ゆ。にかわ不入。〈略〉

 絵は左の男が絵の具を足踏みの臼でついているところで、右の男たちは水飛にしているところです。
(出典・図会本『日本山海名物図会」宝暦四年長谷川光信画)

墨師
 出典の説明文に、「松煙取図 肥松のゆゑんなり又ハ灰墨とも云これを取るにハ四方障紙にてかこひ其中にハ棚をかき其上を土にてぬりて肥松に火をつけてまとより其かがりけふり上の方にたまるをはきて取る也是を松煙(しょうえん)と云本油といふハ油火のかがりのけふり也是も棚をこしらへ多く油火をともし障紙にてかこひて其上にたまるを取る也〇又太平墨などにする下品の松煙ハ肥松の煙にあらず瓦やきの竈のごとくにしつらひて松の雑木をたきて其上にたまる煤をはらひ取る也」
とあり、平賀源内著『物類品隲(ぶつるいひんしゅつ』には次のようにあります。
 「○雑煙 凡ソ諸油、燈トナセバ媒アリ、是ヲ取テ墨ニ製スレバ色各異ナリトテ、好事ノ者是ヲ翫(もてあそ)フ、然ドモ薬用トスベカラズ。○石液墨 越後ノ国所産スル石脳油煤ヲ取テ製シタルモノナリ。宗奭日ク。鄜延有石油。其ノ煙甚濃。其ノ煤可ㇾ為ㇾ墨。不ㇾ可ㇾ入薬、ト云モノ是ナリ。」
 墨には和墨と唐墨とがあります。和墨は油煙から作った日本製で、唐墨は松煙で作った中国製です。日本でも松煙墨を、中国でも油煙墨を作っていますが、どうしたわけか、油煙墨は日本、松煙墨は中国とされています。
 油煙墨の墨色は赤味を帯び、松煙墨は青味を帯びているので青墨といわれています。
 和墨・唐墨ともに煤と膠と香料を臼に入れて杵でつきますが、つく回数が多ければ多いほど上質の墨が出来るといわれています。
 墨は出来上がってから年数を経るほど発墨がよくなります。その年数は人の寿命と同じで五十年くらいのものが良いようで、余り年数の経った古墨は膠がもろくなって使いものになりません。
   (出典・図会本『日本山海名物図会』宝暦四年長谷川光信画)

視師
 『万金産業袋』には次のようにあります。
 「硯石諸国ゝより石の銘、石のよしあし并に硯ざいくのあら方を爰(ここ)に記す
土佐石性よしかたし水尾(黒)ます。
 「硯石諸国(より石の銘、石のよしあし并に硯ざいくのあら方を爰に記す
土佐石性よしかたし水尾(黒)高田(黒)石王寺(しゃくわうし)黒に、白筋有。若狭むらさき赤間石(あかまいし)紫上もの青つぎなり高島色青し、和らかなり。佐渡石むらさき此外所々よりいづる石の品、数々多しといへども、まづ名に発したる斗を取まじへ爰に記す。
 自然石(じねんせき)形・丸・細長・大字・懐中・朱硯・双彫(ならべ)等はみな形の銘なり。大略は大きさにて何寸ゝと寸ンにてよぶ。硯の形さまざまあれとも極たる名もなし。緑の活懸朱ぬり黒ぬりは、みな是すみの付て拭ふに安きがためなり。ねだん安き瓦に至りては、硯の色しらけて宜しからさるがゆへ、墨にてうすくぬり、上に蝋をひき置く。故にあたらしき硯はよく火にて焙り、紙にてのごひつかふへし。
 形を造るは砥盥に水をいれ、あら砥をすへ置き、程よくすり造る。鑿は図の如し。
此したるにて、右の脇の下にあて彫なり。荒ほりして上の仕立は、手鑿にてよくけづり、其うへに磨砥(みがきと)をかくる。硯の裏に志に彫事は、さして定りたる法にもなし。硯の手かろきがためのわざなり。」
 前文の磨砥でみがいたあと、その上に風化止めの目的で、蠟か漆をかけます。
硯は石だけでなく瓦硯、陶硯、漆硯、鉄硯、銅硯、澄泥硯等があります。
中国の硯では端渓硯(たんけいけん)、歙州硯(きゅうじゅうけん)、洮河緑(とうがりょう)石硯(せきけん)が有名です。現在の日本の硯石には赤間石(山口)、雨畑石(山梨)、玄昌石、(宮城)、竜渓石(長野)等があります。
  (出典・職人本『今様職人尽歌合』文政八年北尾紹真画)

筆師
 筆職人のことを中世には筆結(ふでゆい)と呼び、近世になって筆師となりました。
 「惣じて筆のゆひやうは、まづ何毛にもせよ、こはき毛ならは、毛は摺糠の灰をよくふりて、手のひらにてもみやはらげ、毛の賦毛(あふら)のくろみをとる此すりぬかの灰よく筆毛にあへり外物のは毛に黒み出て悪し毛の上下をそろへにかけてとをし、ねぶりかため、よき程つつにわけて、中の逆毛を小刀にて撰(よ)りだし真を作る。真毛は毛一品にかきらす筆林の修練にて、毛のこわきとやわらかきとの品を、二品も三品もまぜ合せて真をつくる。此真の作りやう、その作人の堪能による。その上に中毛をかくる。中毛もまた流義にあふ毛を製し、真まきよりすこし心ほとさげて薄くまき、そのうへを筆なかば紙にてまく。それをけづりとてよくねふり、ひたと小刀をねせて、向へゝといく度ともなく、けづりしごく筆小刀には有次を用ゆ此しごきやうの善悪にて上毛をかけて筆にふし出て形あしく、書心よろしからず。上毛は中毛よりまたこころ斗さげてまく。毛は上毛ほどつゝを小刀にてわけ、櫛にかけ通し、毛の本をはさみ、小刀にて筆一つはいに廻るへき程に平め、右の真をぐるりとまき、そのうは毛の元を苧(お)にてまきあげ、しめて軸にいれ、其後ふのりにつけてよく櫛にて毛筋をたて、指のさきにて形をつくり日に干すなり。〈略〉狸・鼠毛・狐こんくわいともいふ・うさぎ等に種々の上々毛をまぜてゆふ。毛も上品、細工人もいかにも手垂(てたれ)の人ならでは、よき筆は出来がたるべし」『万金産業袋』
 前文の毛の中で羊毛が抜けています。そのほかにも鼬(いたち)、馬、猫があります。毛以外にも竹筆、藁筆、草筆、木筆等があります。
 絵筆には、ぼかしのための隈筆、線描きの面相(めんそう)筆、墨絵の運筆(うんぴつ)、彩色をする彩色筆があります。また蒔絵では、漆に合わせて、地塗りには玉毛(猫の毛)、線描きには鼠毛の筆を用い、人形師は人形の目を描くときに鼠毛の面相を使います。一般に鼠毛は、鼠の髭だとされていますが実は背筋の毛だそうで、町中よりも百姓家や荒屋にいる鼠の方が、毛先がすれていなくて良いといいます。(出典・職人本『職人尽発句合』 寛政九年 梨本祐為画)

刷毛師
 出典の説明文に次のようにあります。
 「新撰百工図解刷毛細工職山下重民
 其の種類甚た多し。装(ひょうぐ)師の用ゐる者には。糊刷毛(二寸五分より三寸四寸五分五寸まて)うら打なでばけともいふ。いろ引。水ばけ。敲(たたき)ばけ。江戸ばけ等あり。錦絵摺方に用ゐる者にはくまどり。かすり引。どうさ引などあり。其外漆刷毛は。人の毛髪にて結ひねりは赤かしらとて。山家人の髪にて油気なきを上品とす。傘張ばけは。さつま棕櫚のを用う。
 張物屋ばけ。紺屋ばけ紅屋ばけ等は。種類一ならず。〈略〉
 刷毛の結ひやうは。各自家伝ありて之を秘するも。其の大概は其の品に因りて要する所の毛をよく揃へ。少しにても其の毛に上下なきやうにして。之をひくめ。紙を元巻にして置き。はけ板の端にほそく割を入れ。轆轤錐(ろくろきり)にて穴をうがち。麻の細きより糸に鍼を通して締る。しめ方には口伝あり。大きなる刷毛に至りては。しめ糸。馬の尾。しゅろの毛。或ははり金等を用ゐるなり。
 (出典・風俗本『風俗画報』百五十八号明治三十一年尾形月耕画)

絵師
 絵に描かれている絵師は筆法、或いは描いている題材が東方朔(前漢、厭次〔山東省内〕の人。漢の武帝に仕える)なのと、扮装(なり)などから狩野派の人であろうと思われます。次の浮世絵師の身形と比べると違いがよくわかります。着物の上に羽織っているのは十徳(僧の着た直綴(じきとつ)を訛ったもので、直綴を簡略にしたものでしょう。十徳は僧侶、医師などが着し、両脇に襞を作ってありますが、この絵にはそれがありません。絵師が二本の筆を使っていま一本の筆は隈筆(ぼかし筆)で、衣紋の隈をとっているところです。
 出典・絵本「常濃山」寛政5年 竹原信繁画

浮世絵師
浮世絵は江戸時代の庶民が生み出したもので、主として庶民生活を版画で描いたもので
す。
その主題は遊里の遊女、芝居役者絵、美人風俗画、名所風景画で、これは日本絵
画の上での
新しい境地だといえます。
浮世絵版画の初期は墨一色の「墨摺絵」で、当時活躍したのは浮世絵版画の祖といわれる菱川師宣です。墨摺絵の次に出たのは、墨摺絵の上に丹を主として黄、青、緑、紫などで手彩を施した「丹絵」で、元禄から享保の頃です。丹絵がさらに「漆絵」に進みます。漆絵は墨摺絵に手彩をしたのと同じですが、頭髪の一部分に膠を塗って漆のような光沢を出したのでこう呼ばれています。漆絵の製作は享保、元文、寛保に及んでおり、当時活躍したのは京都の西川祐信、江戸では絵看板の鳥居清忠、清重、羽川珍重、田中益信等のほかに正徳の頃懐月堂一派の肉筆画が生まれています。丹絵の丹のかわりに紅を用い、黄、茶、緑、紫を使った「紅絵」は奥村政信が案出したものといわれ、政信はほかに遠近法を応用した「浮絵」という風景画も描いています。次の明和(一七六四~七二)安永(一七七二~八一)の十数年間は、色版を幾度も重ねた錦絵が誕生し、浮世絵史上に燦として輝く時期でもあります。錦絵は、一般には鈴木春信が創始者といわれていますが、彫り師、摺り師の蔭の力を見落としてはならないと思います。錦絵初期の主な絵師に鈴木春信、磯田湖龍斎、鳥居清満、一筆斎文調、勝川春章等がいます。
絵は浮世絵師が依頼された芸者の姿を描いているところです。頭を丸めていますが、ほかに俳諧師、医者なども頭を丸めています。服装は着物が小紋で、羽織が黒の五ツ紋です。(出典・合巻「恵方土産梅鉢植』文政五年彩霞楼国丸画)

版木師
 錦絵の木版を彫る職人を版木師といいます。
 錦絵の版材は桜が主でほかに朴(ほう)とか黄楊(つげ)の小口板の象眼(髪の生え際に)が使われます。この桜の板を専門に売っていた店が馬喰町に三軒ありました。桜の版木の寸法は長さ一尺三寸、幅九寸、厚さ一寸で、これを三回、或いは五回鉋で削って鏡のように仕上げました。椋(むく)の葉や木賊などで磨くことはいっさいしません。
 錦絵の彫師がこの職を習うには他職と同じで、親方のところへ弟子入りして十年の年期を勤めあげて初めて一人前の腕になります。最初は使い走りの合い間に、彫刀で画数の少ない一二三の文字を屑の素板へ彫って習います。彫刀の使い方に慣れるためです。次が義太夫本を彫ります。これが出来るようになって色板の彫りを習います。色板の次が墨板の模様、それから衣服のひだや衣紋をと彫り進みます。
 頭彫りの修業は、人物の手足を彫ることから始め、指先がうまく彫れれば鼻先などは自由に彫れるといわれています。耳、さらに顔全部、最後は髪の毛になり、ここまでくれば錦絵の責任彫工として「彫竹」「彫工房次郎」などと銘を入れるようになります。
 絵は字彫りで、俗に筆耕彫りといわれる書物の板彫りです。
  (出典・絵本『北斎画鑑』安政五年葛飾北斎画)

時計師
 慶安3年頃に、日本時計師の元祖と言われる尾張の津田助左衛門が、我が国第一号の時計を製作しました。
 当時の西洋の時計は、現在と同じく一日を二十四時間とする太陽暦の定時法を用いていましたが、我が国では一日を十二刻(とき)とし、夜明けと日没の時刻を基準とする不定時報を使っていたので、西洋時計は我が国では実用になりませんでした。津田助左衛門ののちの時計師たちは研究を重ね、苦心の末に不定時法に合った文字盤を完成し、我が国で使用出来る時計を作り上げました。これがいわゆる和時計です。
 和時計には櫓時計(台時計、据時計)、枕時計、柱時計(掛時計)、懐中時計、尺時計、船時計、印籠時計等の種類があります。これらの時計は時計師が内部の機械一切を手仕事で作ったので製作日数も長期間を要し、製作費もかかり、そのうえ時刻の調節に専門家を置くなどしたため、一般に普及することは出来ませんでした。
 指針は一本で、現在のような分針はありません。この指針が一日に一回転するものと、文字盤が廻るもの(指針が上を向いて固定している)と二種ありました。
 絵の時計師が修繕しているのは櫓時計で、手にしている紐の先に錘がついています。時計師の後ろに見えるのも時計で、棚の上のものは柱時計右側のものが尺時計左側が掛時計です。
 そのほかに、江戸時代庶民の使用した香時計、或いは時香盤というものもありました。それは灰の中に縦横の線に香を埋めて香の燃え方によって時を知る火時計の一種でした。
 狂ふたる脉(すじ:しゃく)に土圭のぞうふを見
                (口よせ草)
 絵の解説句です。
(出典・合巻「宝船桂帆柱』文政十年歌川広重画)


截金師(きりがねし)
 その材料には金、銀、白金の箔を使用します。多く使われるのは金箔で、金箔には並箔(三寸六分角)と仏師箔(三寸九分角)とがあり、截金には仏師箔が使われます。一枚の箔ですと切れやすいので、仏師箔の二枚から五枚を炭火で焙って焼きつけて貼り合わせ、厚味と腰(粘り)をつけます。これはたいへん熟練を要しますが、何よりも炭を選ぶのが大切だそうで、一番よいのが備長炭、次が樫の小丸だといいます。
 箔を切る箔切竹は、篠竹を四ツ割りして作った長さ一尺か一尺二寸くらい、幅七分ほどの細長いもので、竹の裏側の両端を二寸ずつくらい残して間の八寸ほどのところを削って刃を行けます。
この刃付けが大層むずかしといわれます。箔台(箔をのせる台)は縦横八寸くらい、鷹さ三寸、上に鹿皮が張ってあります。鹿皮は鹿の腹皮が柔かくてよいそうです。その鹿皮の上に大理石、或いは蠟石の粉をひくのは、箔が台に付着しないためです。
 絵の机の右下にある箱が箔台で、上にあるのが箔切竹と箔はさみです。金属の刃物を使わないのは、静電気が起きて箔が付着して破れるのをさけるためだそうです。焼きつけた箔を台の上に置き、竹の刃を当て、ほんの少し前後に三、四度動かすだけで切れます。押切るというのが当たっているかもしれません。切った箔の細いものは髪の毛ほどの細さで、こうして切った大小の箔線は底の浅い箱にしまっておきます。
 箔貼りには截金筆(日本画の運筆用のもの)と取り筆(面相筆)を用います。截金筆に接着剤(フノリと三千本膠を適量合わせたもの)を含ませ、あらかじめ箔貼りする所にフノリを引きます。取り筆に箔の先端をからませて、下図のように截金筆の筆先にのせて箔を引きます。このとき箔がたるんでないと箔がぶっつり切れるので、截金筆と取り筆は同じ速さで動かさねばなりません。直線はまだよいとして曲線になると仕事がやっかいになり、一段とむずかしくなります(「京の工房」より)。
(出典番付「新板諸職人絵番付」年代不明筆者不明)

 





 

 
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